終わりに
アメリカに留学してから、もうすぐ半世紀になろうとしている。神経学を勉強し、帰国準備のための研究として動物実験をしているうちにALSという難病を専門とするようになった。僕なりに全力を尽くしてこの病気の原因と治療を追求してきた。しかし、ALSをジグソーパズルに例えれば、何万ピースのほんの一角を埋めただけの業績に終わり、自分の無力と時間切れを受け入れている今日この頃だ。だが遺伝子解析、生物学、コンピュータの発達に伴う最新技術によってNeuroscience(脳科学)は加速度的に目覚ましい進歩を遂げるものと考えられる。ALSがそうした科学の恩恵を受けて、その原因が解明され、治療法が見つけられる日が近いことを祈ってやまない。
滞米中に何年間もいつ日本へ帰国するかを考えながら仕事をしていたが、ついに僕は日本へ帰らなかった。母校へ帰って後輩の指導に当たってくれと言ってくれた良き友人もいたし、年老いた母も僕の帰国を待ち望んでいた。しかし日本では長年外国で過ごした人間を快く受け入れない風潮があることを知っているし、子供たちの教育も大きな問題だった。それに「住めば都」で、アメリカの政治や社会を批判しながらも、結局居心地が良くて住み着いてしまったのだ。僕たち夫婦はこの数年内にアメリカ市民となった。投票権を得て、オバマに投票できたことは嬉しかった。
二世の息子たちは一世の僕たち夫婦とはまた別な意味で苦労しながら、それぞれ自分の道を歩んでいる。そのせいか、長男はバリ島で出会ったインドネシア人と、次男はフィールド調査で知り合ったタイ人と結婚した。そして三世の孫はタイ人と日本人の混血で、彼は彼なりの苦労をして自分の道を切り拓いていくのだろう。白人が富と権力を占めている国で、白人以外の人種が対等に仕事をし、生活していくことは外から見るよりはるかに難しい。そのことを考えると、僕はいかに自分が幸運であったかと、僕を指導してくれた上司や同僚などに感謝するばかりだ。特に僕の恩師であるコノミー先生とフォーリー先生(故人)には篤く感謝している。クリーブランドやニューヨークで知り合った日米の友人たちと交流が続いているし、ボストン時代の友人たちとも親しくしている。また医学部の数人の同級生とは50年にわたって親しくつき合ってきている。僕は大変良い友達にも恵まれた。特に岡谷さんは毎年日本のお菓子などを大量に送ってくれ、どれほど僕たち一家を慰め、楽しませてくれたことか。岡谷夫妻の温い心づかいには感謝してもしきれない。
僕のキャリアの最終章を迎えて、これまでの経験を書いて残しておきたいと思うようになった。神経学を勉強している、あるいは留学を考えている若い医師に読んでもらい、彼らのキャリアの参考にしてもらえたら幸いだ。
仕事の合間に「徒然なるまま」に書いていったが、もともと国語が苦手で、しかもだいぶ語彙を忘れている僕が書いた文は実にいい加減なもので、これを推敲し、校正してくれたのは妻である。彼女はお茶ノ水の通りで僕に声をかけられたばかりに自分の夢をあきらめて僕と渡米したのだが、彼女と二人三脚で頑張ってこなければ、僕のキャリアはありえなかった。この本のことだけでなく、頭を下げて感謝する(またしても僕は彼女に頭が上がらなくなってしまった……)。
最後に、この個人史の出版に携わったすべての方々、特にこの原稿を丁寧に読んで適切な示唆をしてくださった斉藤豊和先生や思水舎の九島伸一氏に深い感謝を申し上げ、筆を置くことにする。心からお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。