第9章 ALSと患者さんたち
1979年にリサーチフェローになってから、現在までの38年間僕はALSという難病と取り組んできた。診断、診察、緩和療法、治験、研究などさまざまな角度から仕事をしてきた。最初の薬剤が承認されてから22年間という長い旱魃期を過ぎ、2016年から2017年にかけて、やっと第2番目の薬剤が日本で開発・承認され、引き続いてアメリカでも承認された。しかしながら、ALSの「原因不明の治癒なしの疾患」という悪名、特に日本では「難病中の難病」というレッテルを貼られていることは変わらない。この疾患に僕は医師としてのキャリアを捧げ、その間自分を切磋琢磨して病気と闘ってきた。25年以上も年間平均250人以上のALSの疑いで送られてきた患者を診てきた。ALSの患者を診ることは決して楽なことではない。多くの神経科医は自分では患者を診たくないために患者を紹介してくる。診察の後、診断を説明し、元気づけて、医師としてできるだけのことをするのだが、それが僕にできるすべてなのか?「無益なことではない」と自分に言い聞かせてきたが、それは辛いことだった。ALSの研究を通して、ともかくこのむごい病気と闘っているのだと思わないでは、とても長年患者を診続けることはできなかったと思う。ここに書くことは僕の回想であって、科学的な執筆ではない。ALSに関する僕の考えを率直に書こうと思う。
1 ALSの治験
前(第7章)にも述べたように臨床的には単一の疾患に見えるALSはさまざまな原因によって起ることは確実である。ALSという病気の中にオレンジやりんごが混じっているということである。もしある薬がりんごだけに効くとして、オレンジや他の果物の混じっているALSを一緒に混ぜて治験を行っても結果は全体としてネガティブとなろう。現在のところ、どれがりんごでどれがオレンジであるかを選び分けることはできないが、その方法を見つけることが極めて重要だ。その一つの方法は治験が終った後、患者の中に薬剤に反応した患者がいたか、いないかを探すことである。最新薬エダラボン(ラディカット)の成功は最初不成功に終った治験から陽性に反応した患者群を見つけ出した結果だ。もう一つの考え方は、原因は違っていてもある時点から神経細胞の変性は同じ過程をたどるかもしれないということだ。もしそうした過程があるならば、共通の変性過程に対する治療法を見つければよいかもしれない。もしかするとエダラボン(ラディカット)は神経細胞の共通の変性過程、酸化ストレスに対しての薬剤効果かもしれない。これは原因治療ではないかもしれないが、疾患進行を抑えることはできるかもしれないのだ。もう一つ大切なことは薬剤がどこに効いているのか、あるいは疾患のターゲットに作用しているのかという疑問を解くことだ。この疑問は臨床家や治験研究者に解決できるような単純な問題ではない。理想的治験には神経基礎科学者が治験の初めから共同研究者の中にいて、薬剤が疾患ターゲットに作用しているかを検索できる研究を加えることが肝要だ。ALSの治験をどのように行うか、現在そのガイドラインを国際的レベルで作成している。僕の考えは治験はこうあるべきだという理想主義に基づいているので、治験を行う研究者の総意またはコンセンサスとはかなり遠いものと思うが、全治験研究者が同意できるガイドラインができ上がることを期待している。
今日まで数多くの治験がなされてきた。その多くは疾患のさまざまな原因仮説に基づいて開発された薬剤のテストだった。仮説は山ほどある。たとえ治験のための資金が無限だとしても、比較的稀な疾患なので患者数は限られている。すべての薬剤を治験で試すことは不可能だ。可能性のある薬剤を急速にテストするためには、効果的な治験の方法を開発する必要がある。現在でも既にいくつかの治験が十分な数の患者を確保できるのか、それがそろそろ問題になりつつある。治験を国際的なレベルに拡大すること、治験に参加できる患者数を増やすことが重要になってきた。薬剤の効果あり・効果なしをどの点で決定するのか、最後の最後まで無効を証明する必要があるのか、そこが問題でもある。もっと統計的に有効な無益決定(futility design)の方法を開発して、効果のなさそうな薬剤は早急に「効果なし」と認めて、次の治験に移るほどの覚悟がなければ数多くの薬剤を短期間のうちにテストすることはできないだろう。しかしこのようなやり方には製薬会社はついてこないだろう。僕らの社会は自由主義で他を制約できないからだ。しかし全研究者と患者支援団体ががっちりと手を組めば不可能ではないかもしれない。薬剤が無効ならば、製薬会社も無駄な出費を防ぐことができるはずである。可能性のかなり高いものにだけ努力を注ぎ込むべきである。
もう一つ大切なことは、治験はALSの薬剤を開発する唯一の方法だが、治験以外のALSの研究を行う上で欠かすことのできない機会を与えてくれることだ。治験はALS患者を集中的に研究するわけであるが、多くの患者は治験に参加することを待ち望んでいる。ALSの原因に関係する研究、バイオマーカーの開発など、治験と同時に治験の妨げにならず、患者に不必要な負担が掛からない研究を治験に参加する患者に同時に行うことができれば、それに越したことはない。治験が治験だけ(すなわち薬剤の効果を検索する)の研究に終るのは間違いであり、最低限度でもなぜ薬剤が効いたのか、なぜ効かなかったのかのメカニズムを調べられるだけの研究を織り込むことが必要だと僕は信じている。薬効だけを調べる治験では薬が効けばよいが、効かなければ何一つALSのために学ぶことができない。治験を通してALSについて学ぶことのできるデザインでなければならない。
2 今後の研究
将来的には国際的、多角的なALSレジストリー(登録)が必要になろう。このようなレジストリーでは一時点で少なくとも何百人かの患者が大きなレジストリーに加入している。各国、各地で異なったレジストリーが異なった研究資金で援助され運営される。すべてのレジストリーはある点までは均一でなければならない。人口統計学的データ・臨床所見・疾患経過・一般的な治験結果のデータ・DNA・患者の組織・体液バンクなどはすべて共通したレジストリーとなる。それによって、疾患の個体差・変形型・進行経過の違い・バイオマーカーの開発・さらに疫学的研究などが国際的なレベルで急速に研究され得る。こうした大きなレジストリーは実際イタリアやほかのヨーロッパの国々で始められつつある。初めからそのように大きなレジストリーはできないので、各々小さなレジストリーを作り、最終的には巨大なレジストリーに集合・統一する。初めから集合を目的としたレジストリーを計画すれば、多数のレジストリーは比較的容易に集合・統合ができる。ただし患者のレジストリーは新患を診た時点で直ちに行われなければ大きな意味を失う。このレジストリーによって多数の治験や臨床研究、自然疾患経過の研究も短期間のうちにできる。治験の対象群はこの患者プールの中から無作為的に選ばれ、複数の薬剤が同時的に検索される。したがって各治験に合った対象群を作る必要はないわけだ。治験の判定基準を単一にすることができれば、極めて特殊な治験結果を必要とする治験を除いて、一グループの対象群でいくつかの異なった薬剤の治験を同時的に行うことができる。ALSのように比較的稀な疾患では結合力の高い国際研究を進める必要があると思う。このようなレジストリーは可能だろうか? 国も、研究者も、資金供給組織も、それぞれ地方意識、独立心と自尊心が強く、皆で一緒にというわけにはなかなかいかないかもしれない。ALS研究の現状はその進歩を自然経過に任せているようであり、そのようにして延々と何十年も続けられてきた。国家研究機関、ALSの疾患協会、製薬会社、その他のALS支援団体は個々にALSの治験・研究を支持している。その理由は、現在行われている個々の治験または研究から突然ALSの解決が起こる可能性がないわけではないからだ。その可能性は確かにある。しかし他方では、もし「難病中の難病」がまだまだ今後も続くのなら、ALSの臨床治験・臨床研究の行い方に抜本的な改革が必要だと僕は思う。だが、現状ではALSの研究の方向や方法を変えることは非常に難しいということも僕は知っている。事態は既に急を要していると思うのだが、僕のこうした考え方は一般的ではないのだろう。そこでいま僕らにできることは、個々の小さなALSの治験・研究を通してALS全体の平均的知識レベルを高めることだ。全体の知識レベル、すなわちALSの研究土台が高くなれば、ALSの原因・治療を見出す天才が出る土壌ができ、また思いもよらぬ偶然による発見の機会も増えるという期待を持って研究を続けることだろう。
3 ALS患者の治療
僕の診察を受ける患者はどの場合でもまず初診といって医師が患者の病歴を取り、さらに診断に必要な病歴を聞き出し、患者の身体検査と神経学的診察を行う。ここで大体の診断を考え、どのような検査が必要であるかを決める。紹介してきた医師が既に検査を行っていた場合はその結果を調べ、自分が考えた鑑別診断を行うため、さらに必要な検査(血液検査、筋電図、イメージングなど)のオーダーを出す。僕の外来に来る患者は既に他の医師に診てもらっており、セカンドオピニオンを必要としている者が多い。患者のほとんどはALSの診断を恐れている。治癒のない疾患なので診断には細心の注意が必要だ。多くの場合2回目の外来で自分がオーダーした検査結果を患者とともにレビューしながら、診断について話を進めていく。ALSの診断がなされたら、運動ニューロン疾患またはALSにおける運動ニューロンの解剖、その病態生理を説明し、診断がどのようになされたか、さらに診断の確定度・不確定性なども患者・家族に説明していく。栄養療法の大切さ、現在の治療法と新薬剤について説明する。予後に関しては患者が質問しなければ話さない。話しても実際ははっきりとは分からないので、統計上または経験上の話をする。なるべく患者・家族に質問をさせて、彼らの知りたいと思うことに返答をし、それについて説明をする。できるだけ患者にとって良いこと、すなわち予後が良いと報告されている因子が患者にあればその因子について説明し、それを強調する。最後にALSクリニックの長所と必要性を話し、ALSクリニックの予約をする。この時点で初めて患者にALSクリニックを紹介することになる。非常に時間の掛かる過程である。日本で内科を研修している時にはまだかなりのドイツ語が使われていて、ムンテラ(Mund Therapie)という言葉があって、それは「口による治療」ということで、患者との話し合いと説明が患者への治療になるということだった。疾患が単純で治療が明らかにある場合には、患者への説明などはほとんど必要としない。しかし診断が不確実で、しかも決定的な治療がない場合には、時間をかけて説明する以外に治療法がない。ALSは残念なことにその最たるものだ。何人患者を診ても、診断を告知し、その説明と話し合いを行うことが一番難しいと思う。これを一日に2回やると自分ががっくりするのが分かる。ALSもごくあっさりと「あ~、これはALSですね。これとこれ、それにこの薬を飲んで様子を見てください。6か月したらお会いしましょう」という日が必ず来ると思いつつ、今でも同じ診療を続けている。現状ではALSのような疾患は神経科医がただ一人で治療できるはずもなく、また一人で診るべきでもない。ALSという疾患は非常に難しい多くの問題を短期間に、急速に引き起こしてくる。遅かれ早かれ、体重減少や呼吸障害が起きて、患者の健康管理はますます複雑になる。患者も家族介護人もこれらの変化に対応するのが精一杯である。この状況を少しでも上手に管理できるのは多職種によるALS専門外来でしかない。欧米ではこうした多職種によるALS専門外来は標準的治療法となっている。ALS専門外来のことは第7章で既に紹介したのでここでは説明しない。2017年5月に東邦大学で日本ALS協会と共にALS専門外来についての研究会が開かれ、僕がアメリカでのALS専門外来を紹介する講演をした。日本でもこうした外来が広がることを期待したい。それでも僕らのできることは限られている。多くの患者・家族はそれをよく分かっているようだ。しかし、ALSクリニックの療法士たちは驚くほど明るく、常にプラス思考で患者さんたちと応対している。僕らのチームメンバーの一人一人が患者・家族のことを第一に考え、明るく前向きな態度で患者・家族に対応し治療することが、彼らにとっては精神的な支えとなっている。前にも書いたが、僕は年間ALSの新患を250人以上から300人ほど診察している。この患者数は米国のALS専門家の中でも多い方に属するだろう。多くの患者を診ていると、自ずから研究・治験へと努力するようになるし、またその要求も強くなる。またこうした努力が患者・家族の希望へとつながっていくのだと思う。
4 患者たちのALSへの挑戦
十年ほど前からALSの患者たちは自分たちを「患者」とは呼ばないように社会に呼びかけ始めた。彼らは病める者ではなく、ALSを持った人(PALS=people with ALS)なのだと主張している。医者たちの中にもPALSという言葉を使う者が大勢いる。僕もそのようにしているが、ここでは簡単に分かる「患者」という言葉を使わせてもらう。こうした動きは患者たちが自分たちはALSという病気に支配されているのではない、普通の人間だという意思表示だ。現実はほとんどの患者とその家族は病気そのものに引き回され、病気が患者と家族を支配してしまう。それはどうしようもないことなのだが、何千人のALSの患者を診てきた経験から言えることは、患者と家族にとって大切なことは、ALSという病気に支配されないように、病気に関して、あるいは病気以外の何かをすること、特に有意義な何かをすることが大きな助けとなる。「患者」から「ALS人」へと呼び名を変えてほしいというのもALSのために活動家として立ち上がろうという希望だと思う。ALSはパーキンソン病や認知症のように一般的によく知られた病気ではないので、まず友達や自分の身の回りの人々や、さらにインターネットで広く誰にでもこの病気を知ってもらうために働きかけることができる。患者支援グループに参加してほかの患者や家族や支援者と連結することも助けになる。自分の闘病記を出版した患者も何人もいる。中には職業柄自分の意見を発表する能力に優れていて、治験やガイドラインのあり方について医療関係者に患者の要求を代弁する患者もいる。現在では治験の計画、ガイドラインの作成、または患者登録組織の予定の場合には患者の意見を入れることが必須となっている。ALSの学会に参加する患者・介護人も多数いる。このような人々は患者を代表して僕らに非常に大切な示唆を与えてくれている。これもALSと戦う方法の一つだ。
若い日本人のALS患者が僕に診てもらうためにALSクリニックに来たことがある。僕とのインタビューをも含めてその様子がNHKテレビで放送された。また南アフリカの有名なラグビー選手がALSにかかり、彼の闘病を映画に撮るために僕らのクリニックに来たこともある。ある若い映画監督がALSになり、自分のALSとの闘いを描いた「不滅の男」という感動的な映画を作った。彼の両親はアンティーク商だったが、他の患者の家族と共に「ALS世界」というウェブサイトを立ち上げて、もう10年以上継続している。患者と家族のためのALS情報機関としては素晴らしいものだ。僕がコロンビアに移って間もなく、ロスさんという数学の教師を診た。彼のALSは両手が進行性の運動障害にかかっていた。彼は絵を描くことが何よりも好きだったが、だんだんと手が動かなくなっていった。「絵を描けないなら、死んだ方がいい」と訴えた。僕は「鈴の鳴る道」などの詩画集で有名な星野富弘さんのことを思い出して、「それじゃあ、口で描いたら?」と言うと、彼は信じられないような顔をしていたが、それからリハビリセンターで口筆を使って絵を描く方法を習い、奥さんの献身的な手助けで10年間に60X100センチほどの大きな絵を十数枚描いた。その1枚は僕らの待合室に飾ってある。彼は気管切開をしても油絵を描き続けた。絵を描くことがALSと戦う道だった。彼の全作品はMDAの本社ロビーに展示されている。
病気のために精神が侵されるのを防ぐためには夫婦と子供たち、その他の家族や友達などの思いやりや温かい励ましが大きな助けとなる。僕らのALSの患者・家族の精神面の研究では、患者が憂鬱症にかかるとその連れ合いも同じように憂鬱症にかかる頻度が高い。患者でない連れ合いは心を明るく持つように心がけなければならない。では患者も家族もどうしたら明るい心を持てるだろうか。まず病気に対して強い闘争心を持たなければならない。可能な限り治験を探し、それに加わる、あるいは新しい治療法を試してみる。前にも書いたが、オルニー先生はALSの専門家だったが、ALSにかかってからALSについてもっとよく社会に知ってもらうために、多くの新聞やテレビをはじめ、あらゆる機会を使って自分と家族の闘病の様子をありのままに伝えた。彼と家族にとってそれがALSと戦う方法だったのだ。
ALSの研究資金を集めるために強力な活動家になった人たちもいる。「ウォール街の翼」のイべントを始めたのは僕の患者のダイヤモンドさんとバイヤーさんで、これは米国内でも有数の大きな資金集めの行事になった。彼らが亡くなった後も、強い家族のサポートが続いている。資金活動は大きくなければならないということはない。患者の会のためにクッキーを作って売り、自分たちの援助グループの資金を集めてもよいのだ。ある女性の患者は美容院を経営していて、そこでスパやマニュキュアなどをお客さんにサービスして寄付を集め、その活動は地元のテレビニュースに報道された。何人もの患者と家族がさまざまな活動で僕らのALS研究センターを金銭的にサポートしてくれてきた。ある患者さんは美術が好きで毎年アートショーを開催して研究資金を集めてくれたし、ある芸術家は自宅でアートショーを開いて資金を集めてくれた。僕の患者ではなかったが、ペンダガストさんという高校の先生がALSと診断されると、生徒たちが主体となってALSの研究資金を集め始めた。彼はその後「ライド・フォー・ライフ(Ride for Life)」という支援団体を立ち上げて、歩ける人は歩き、車椅子の人は車椅子で歩き、その距離で人々から寄付を募る催しを始めて、いまでは大きな組織となっている。僕のセンターにも研究資金を提供してくれている。僕の患者のスピーナさんはご主人と共にゴルフをするのが大好きでゴルフ場に隣接した家に住んでいたが、ゴルフができなくなって悲しんでいた。そこでゴルフトーナメントを始めることにした。自分はもうプレーできないが、大勢の友達や隣人が参加して大きなトーナメントを開催することで、悲しみを喜びに変えることができた。毎年多額の研究資金を僕らに寄付してくれた。僕らはゴルフはしないが、毎年イベントに参加した。彼女が亡くなってから何年もたつが、ご主人とは今も連絡を取り合っている。シナーチアさんは若くしてALSにかかったが、ソフトボールが好きだったので、その仲間たちと彼の家族が協力して、毎夏10チームほどがソフトボールのトーナメントを行って資金集めをして、僕らに研究資金を寄付してくれてきた。彼の場合は病気の進行が遅く、奥さん、両親、兄妹の献身的な介護を10年以上受けていたが、2017年11月に肺炎を併発し、気管切開をしないという覚悟で、臓器を提供して死去した。ALS研究のために脳脊髄の神経解剖を許可した。彼の死は立派だった。このシナーチアさんの従兄弟が2014年にボストンで「アイス・バケツ・チャレンジ」というバケツの氷水を浴びる資金活動をALS協会のために始めた。ソーシャル・メディアのビデオを通してこの運動が枯草に火がついた勢いで世界中に広がり、大統領や有名人をはじめ、誰もかれもが氷水を浴びては寄付をして、前代未聞の資金集めとなった。もちろん僕らのクリニックのメンバーもチャレンジした。アメリカでは一億二千万ドルが集められ、ALS協会は現在もその資金をさまざまな研究に使っている。「アイス・バケツ・チャレンジ」はALSの研究資金を集めるだけでなく、この病気を一般人に広めることにも大きな貢献をした。
数年前、マット・モンドーという若い男性が電話をしてきて、自分は米軍の軍人だったが、アフガニスタンから帰ってみると親友がALSという病気にかかっていた、ALSについていろいろな人に聞いても知っている人があまりいない、自分にできることは何かを考えた末、自分には頑丈な体があるので、ALSのことをもっと人々に広く知ってもらうためにバッファローからニューヨークのヤンキース球場まで歩いて行くつもりだと話した。ルー・ゲーリックのユニフォームを着て、歩きながら出会う人々にALSについて話をしたいので、資料を送ってほしいと言った。僕は本当にやるのかなと信じられなかった。350マイル(500キロ以上)もあるのだ。しかし彼は12日間かけてニューヨークまで歩いてきた。彼の足は傷だらけ、血だらけで腫れていて、もう靴が履けなかった。ヤンキース球場で試合の始まる前に彼は僕と看護師と一緒に紹介され、満場の拍手を浴びた。ニューヨーク市長にも会い、テレビニュースでも紹介された。こうしたことは彼にとって予想外のことだった。一人の友達のためにしたことだったのだが、彼の愛の行為は多くの患者のために、ALSをもっと知ってもらうために大変役立ったのだ。
何度も言っているが、原因不明でいまだ治療法がないALSにかかると患者本人だけでなく、家族も生活上だけでなく、精神的な打撃をも大きく受ける。その苦痛を30年以上も患者・家族といっしょに分かち合ってきた経験から、僕は身に沁みて知っている。だがその同じ経験から、何人かの患者・家族はALSという大マイナスから何かプラスになることを見つけ出して、病気に負けずに明るく生きようとしていることも僕は見てきた。明るく生きることによって病気をうまく抑えることができるという結果がある研究によって報告されている(McDonald et al, Archives of Neurology, 1994)。病気の進行を遅らせたり、より長生きできるというわけではないが、日々を過ごしやすくしていることは、僕も観察していて明らかだ。
ALSの患者たちはALSにかかって苦しんでいるのは自分だけではなく、大勢の人々がこの病気と何らかの形でいっしょに闘っていることを知って、励まされ、自分も負けないぞと闘志を燃やしてほしい。