第8章 コロンビア大学へ
1 ニューヨーク♪ ニューヨーク♪
クリーブランドのような「田舎都市」から「大都会」のニューヨークに移るに当たってエキサイトしてもいたが、実のところ少し怖気づいてもいた。しかし、もともと東京で育ったのだし、ボストンに移った時にも問題はなかったし、第一日本からアメリカに移ることができたのだからできないことはないだろうと僕は高をくくっていた。まず住むところを探さねばならなかった。病院はマンハッタンの北端にあり、ハドソン川を渡ってすぐ北にリバーデールというブロンクスとしては比較的安全な住宅地があって、神経科の多数の職員が住んでいた。そこのアパートの一室を神経科の医師から9か月間借りることになった。彼らは新しく家を買って移っていたのだ。このアパートはコーオップといって日本のマンションのようなものだが、各アパートが個人の所有で、新しい住人は所有者の代表である理事会に、経済的にも社会的にもコーオップの所有者・住人として適合するか否かを入居前に調査される。その一環として銀行の明細書と雇用主の手紙が必要で、さらに面接をしなければならなかった。僕らのような短期間のまた貸しの住人でも理事会との面接が必要で、そのためにクリーブランドから車で7時間も運転して行った。面接は3人の理事とで、僕の専門の病気の話やクリーブランド・クリニックの話など、和やかに雑談をして15分ほどで終ってしまった。そのために往復14時間も費やしたのだった。もちろん難なく認可された。
8月末に僕は身の回りの必要なものを運送屋に運んでもらい、一人でアパートに移った。妻が引っ越しの手伝いをするために来てくれていた。運送屋が電話をかけてきてトラックの通れる道路はどこかと聞いてきた。ニューヨークにはトラックの通れないパークウェイが多い。妻がアパートの管理人に聞きに行ったが、スペイン語のアクセントが強くて何と言っているのかよくわからず、何度も聞き直してやっと道順を運転手に告げることができた。アパートにたどり着いた運転手にチップをあげ、「それで夕飯を食べて行ったら」と言うと、「こんな怖いところはたくさんだ。すぐ帰るよ」と言った。
妻は家を売るためにクリーブランドに残った。8月半ばに家を市場に出した。彼女は不要物の処理に明け暮れて、毎週多大な粗大ごみを出していた。敷地が広いため隣人とはめったに会うことがなかったが、彼らはきっと僕たちが離婚して、僕が小さなトラックで引っ越していき、後に残った妻が片づけをしているのだと思っているにちがいないと僕たちは話していた。
アパートに移ってから生活に関してすることが山ほどあった。自動車の免許証の書き換えは州の事務所で簡単に終わった。それがないと車の保険に入れない。次に車を査定してもらわなければならない。そのためには指定されたガソリンスタンドに行って車を検査してもらう必要がある。電話をかけ、自分の住んでいる区域の郵便番号を入れるとガソリンスタンドの住所が指定された。そこに行くために高速道路からブロンクスのフォーダム通りに出た。ちょうど日曜日でいろんな出店が出ていて、道路は人々であふれて車が走る隙間もないほどに混み合い、どこか発展途上国に迷い込んだような気がした。やっとガソリンスタンドに着くと、肝心の書類をアパートに置き忘れてきたことに気がついた。仕方なく書類を取りにアパートに戻ったが、また同じところに行く気はしなかった。今度は電話でニューヨーク郊外のウエストチェスターの郵便番号を入れるとほかのガソリンスタンドの住所が出てきたので、そこへ行くことにした。こちらの方はずっと文明化していてほっとした。こうして何とか車の保険にも入ることができた。次はEZパス(EZPass)と呼ばれる有料道路の料金パスを手に入れることだった。EZはイージーだが、これを手に入れることはイージー(簡単)ではなかった。電話をかけるとすぐに待たされる。毎日待つこと10分、20分、30分と長引き、何日目かに45分待ってやっとパスの応募ができた。応募はできたが、パスが送られてくるまでには1月以上も掛かった。リバーデールとマンハッタンとの間には橋があって二つの行き方がある。一つは乗用車専用のパークウェイで直接マンハッタン島に入る行き方ともう一つは普通の道路である。アパートから病院は5~6キロしか離れていない。パークウェイは速いが通行料を取られる。パスがあると少し安くなる。普通道路は無料だ。パスが来るまで僕は普通の道路を走って通勤した。ともかくすべてが汚い。道の両側には小さな怪しげな店が並んでいて、最初はびっくりしたが、毎日通っていると1週間もすればすっかり慣れる。慣れというものはすごいもので、汚さも胡散臭さも気にはならなくなった。
アパートでの一人暮らしが始まった。アパート暮らしは二十数年ぶりだった。家庭のことはすべて妻の世話になっていたので、一人暮らしは楽ではなかった。アパートの駐車場は狭いので専門の係りがいて、出かける時はいちいち車を出してもらわなければならないし、帰ってきても同様だった。近所のスーパーに食料品の買い出しに行ったが、これも何十年ぶりかのことだった。驚いたのは、ドラッグストアや金物屋、ビデオ店(まだビデオの時代だった)などは小さな個人経営の店が多くて、クリーブランドのような大型チェーン店ではなかったことだ。ニューヨークは遅れていると思った。ともかく僕は無精者なので、フライパンから直接食べ物を食べて皿を洗う手間を省くというような具合だった。フランク・シナトラに「ニューヨーク、ニューヨーク」という歌がある。「ニューヨークでやって行けるなら、どこでだってやっていけるぜ! ニューヨーク、ニューヨーク」というような歌詞で、僕はその歌を毎日口ずさんで、自分を元気づけていた。
9月からコロンビア大学の仕事が始まった。僕のポジションはクリーブランド・クリニックでのポジションと同じ筋・神経疾患部門の部長でALSセンター所長だった。最初の日にぺドリー主任の秘書(管理補佐)が僕の名札カードを作ってくれる事務室に連れて行ってくれた。彼女はそこの窓口で僕のことを係りに説明してカードを作るように頼んだ。係りは僕に列に並ぶようにと言った。4、5人が僕の前に並んでいた。もう12時に近かった。12時になると、僕は列の3番目だったが、係りは「ランチタイム」という札を出して、1時に戻って来てくれと言って窓を閉めた。それから3度ほど試しに戻ってみたが、空いている時にやっと自分の名札がもらえた。クリーブランド・クリニックでは医師スタッフは特別待遇だったが、コロンビア大学では「ただの人」であることをはっきりと教えられた。大学には労働組合があり、組合員は彼らの権利を最大限に守っていて誰にも気兼ねしていなかった。この感じは退役軍人病院やデパートの「シアス」によく似ていた。客や患者や同僚に好意を示すという考えはことさらないようだった。いやはやクリーブランド・クリニックと比べてすごい違いだなーと思った。それでもいったん人を知ると人々はどこでも変わらず親切で良い人々だった。一般にニューヨーカーはニューヨークがアメリカで最高の市で、ハドソン川から西はどこもどうしようもない田舎だと思っているようだった。市中はいつも混んでいて、車は渋滞、汚い地下鉄はすぐ来ない、物価は高く、何をするにもスムーズには行かず、ハッスルして勝ち取らなければならない。ニューヨーカーはここはアメリカでベストの市なのだと自分に呪文をかけているのだ。それで何かがうまくいかないと、すぐに堪忍袋の緒が切れて激しい悪態をつく。仕事を始めて1か月目に給料をもらうことになっていたが、給料を払い込んだという報告がない。すぐに調べてもらった。すると給料を支払われる職員の名簿に僕の名前は載っていなかった。焦って僕は事務長のところに行った。幸いにして僕の給料は1週間後に銀行口座に振り込まれた。初めから事務系統のいい加減さが見えた。
盆栽ハウス
10月にイタリアのガルダ湖で開かれたポリオ後遺症の学会でALSの講演をするため、僕と妻は渡欧した。僕のフェローだったエルオペラ医師が招待してくれたのだが、この機会に彼の住んでいるフェラーラという古い素晴らしい町も訪れた。その後妻と僕は観光旅行をして、ローマのトレビの泉で「家が売れますように」と祈ってコインを投げた。それからフィレンツェに着くと、ホテルの受付がファックスが来ていますと言う。僕たちの不動産屋からで、買い手がついた、この値段でいいかというものだった。手数料を払うと儲けもなかったが、僕たちは喜んでいいよと返事をした。トレビの泉の御利益だった!?
クリニックを離れる前に、ルーダース主任から6か月間はALSセンターの僕の後任ピオロ医師への引継ぎのために月に一度クリニックに戻ってきてほしいという要請があって、僕はそれに同意していた。11月下旬にいよいよ妻が家を明け渡して引っ越しをする日、僕はそういうわけでクリニックに出勤していた。荷物を積み入れた運送屋が出発する直前に僕は家に帰ってきて、書類にサインした。僕の留守中何もかも一人で取り仕切っていた妻は「引っ越しであなたがしたのはサインだけね」とチクリと痛いことを言った。その晩は親しい日本人の友人たちが夕食を共にして門出を祝ってくれた。近くのモーテルに泊まり、2匹のネコとニューヨークに向かった。家財道具は運送会社の倉庫に預かってもらった。引っ越してきてから3日目に母親の死期が迫っているという家族からの電話を受け取り、妻は日本へ飛んで行った。
年が明けてから、妻は早速家を探し始めた。それがフルタイムの仕事となった。クリーブランドでは不動産市場は落ち目だったが、ニューヨークではバブルだった。信じられないほど値が上がり、それにもかかわらず家がホットケーキのように売れた。週末には僕も一緒に家を見に行ったが、ともかく僕たちの予算で買える範囲の物件がなかった。たとえあっても競りになると僕らが出した値では負けてしまうか、行く前に売れてしまっていた。見に行った家はひどいものが多かった。1月、2月、3月と時がたって行った。6月にはアパートを出なければならない。僕たちは焦り始めた。家を選ぶ最低限度の条件を決めていて、それに当てはまれば妻は不動産屋のアドバイスを受けて入札していた。3月末に僕が学会に出張中に妻から電話があった。僕たちの入札額が二番目で手に入らなかった家が、一番目の入札がダメになり、僕たちがOKを出せば家が手に入るということになった。僕は家を見てはいない。しかし待つこともできないので、妻に任せることにした。
2週間後に正式に家は僕たちのものになり、初めて新居を見に行った。家はとても小さく見え、中も小さかった。しかも安普請だった。クリーブランドの家は僕たちには身分不相応な「豪邸」だった。寝室が5つ、トイレも5つ、車が3台入るガレージがあり、土地は2エーカー(約2500坪)だった。驚くなかれ、この小さい家はその「豪邸」よりも高価だったのだ。妻も本意で買ったのではなかった。時間切れで決めざるを得なかったのだ。クリーブランドの豪邸は長男が反抗して不登校になり、学校を変えたから買ったのだが、その頃の僕たちの心理状態はかなり不安定で、ミッドライフ・クライシス(Midlife Crisis= 中年の危機)だったのかもしれず、何か心理的な埋め合わせのためにそんな家を買ったのかもしれなかった。そんな家から貧相な家に移って、それが妻のニューヨークへ移った最大の犠牲だったと言う。だが不動産は一にも二にもローケーションだ。買った理由は場所が良かったからだ。不動産屋が「スリーピー・ホロー」と言うので、読書家の妻が「あの伝説の?」と聞くと、そうだと言う。ワシントン・アーヴィング著「スリーピー・ホローの伝説」の舞台だ。アーヴィングの立派なお墓がスリーピー・ホロー墓地にある。僕たちの家はその有名人が多数眠っている墓地とハドソン川に挟まれた20世紀初頭に開発された閑静な住宅街にあり、マンハッタン行きの電車の駅へ歩いて行かれる。川べりには広い公園があって、僕たちの散歩コースだ。
引っ越しの日である。倉庫とアパートから来た2台のトラックが家の前に止まった。4人の運送屋が家の前に立って家を眺めながら、「この荷物を本当に全部この家に入れるの?」と半信半疑だった。ともかく全部押し込んでもらった。家中が山積みされた荷箱で満杯で、箱や家具の間をすり抜けなければ歩くことができなかった。午後になってケーブルテレビ会社の社員がケーブルを取りつけに来た。地下室の箱や家具をすり抜けて配電盤に案内すると、彼は「これじゃー、もっと大きな家が要るね!」と笑いながら言った。秋になってコノミー先生がニューヨークに用があってやってきた。僕の家で歓待したが、彼は僕たちの前の家をよく知っているので、この家を「盆栽ハウス」と呼んだ。アメリカ人は地位と収入と家の大きさは比例するものと考えているので、なんでこれほどまで犠牲を払ってニューヨークのコロンビア大学に来なければいけないのか、彼にはよく分からないようだった。クリーブランド・クリニックで十分ではなかったのか? しかし僕は最高学府の一つで臨床と研究がしてみたかったのだ。
9・11
誰でも言うが、この日は信じられないほど澄み切った快晴の日だった。オフィスで仕事をしていると、受付係りが「ワールド・トレード・センターに飛行機がぶつかった」と言いにきた。僕は小さなセスナでもぶつかったのだろうと思った。それから20分ほどして彼は青い顔で2機目がぶつかったと言った。もう事故ではありえなかった。皆大変なことが起こったのを知った。1時間ぐらいの間に神経科でも緊急会議が召集され、退院できる患者は全部退院させ、レジデントは全員病院に待機して、負傷者を受け入れる準備をした。僕も二人の患者を直ちに退院させた。今日は帰宅できないだろうと思っていた。助けられた負傷者は近くの病院へ入院させ、マンハッタンの南の端から次々に北の病院へ負傷者を送ることになっていたのだが、マンハッタンの北端にあるコロンビア大学病院には負傷者は送られてこなかった。負傷者はあまりいなかったのだ。二つのビルにいた人々はほとんど死亡してしまったからである。マンハッタン島とニューヨーク市周辺は厳戒態勢に入り、周囲の橋は閉じられたが、出ることは許されたので、夕方には家に帰ることができた。
この日は長男の誕生日である。妻は朝ウェストチェスターの日本人の友人宅の集まりへ出かけるため家を出たが、異常に青い空を見て、賢はなんて美しい日に生まれたのだろうと思ったそうだ。途中でクリーニング店に立ち寄ると「いま貿易センターの南ビルが崩壊した」と教えられた。不安な想いで友人宅に着くと、話は事件のことで持ち切りだった。この恐怖の日を数人の友人たちと不安を分ちあって過ごすことができて妻は運がよかった。一人の友人はダウンタウンのニューヨーク大学の寮にいる娘さんの安否を憂えていたが、連絡が取れて誰もが安堵した。翌日日本の家族から電話があった。前日に何度も電話をしたが通じなかったそうだ。妻が勤めていた日本語補習校では、2週間後に予定されていた運動会が中止された。保護者の中に犠牲者がいたのだ。教師は心理カウンセリングを受けて、自分や児童の心理的変化について指導を受けた。教師の中にはマンハッタンの高層ビルに住んでいて、飛行機が窓から突っ込んでくる悪夢を見る人もいたそうだ。妻は2週間後にマンハッタンに用事があって行ったが、グランドセントラル駅には行方不明者のビラがあちこちに所狭しと貼ってあって、いっそう重苦しい気持ちになったそうだ。現場はいまだに煙がもうもうと立っていて、辺りは灰で覆われていて、その中で大勢が犠牲者の回収作業をしていた。向かいの店で棚の上にきちんとたたまれたジーンズが灰をかぶって並んでいたのが印象的だったと言う。
この事件でニューヨーカーだけでも、アメリカ人だけでもなく、世界中の人々が初めてイスラム原理主義者のテロに目を覚まされた。オサマ・ビン・ラーデンの名前は数か月前から新聞に載っていた。事件が起こって僕も妻もすぐ思い起こしたのは彼のことだった。ブッシュ大統領は国民にアメリカに大勢いる回教徒の市民に偏見と差別をしないようにと呼びかけた。アメリカは第二次世界大戦中に日本人を人種差別して強制収容所に送った二の舞を繰り返さないという配慮を見せた。事件から1か月ほどは橋を渡ってマンハッタンに入る時には警察に身分証明証を見せなければならなかった。僕の研究室でフェローをすることになっていた若い日本人医師が来ても安全でしょうかと聞いてきた。僕は正直に君の安全を保証することはできないと答えた。彼は来るのをやめた。何とも小心なことだとは思ったがいたし方なかった。翌月クリーブランド・クリニックのエディター、タレリコさんの結婚式に招待されてクリーブランドに行った。空の旅を恐れる人々が増えていたので、彼女は無理して来なくていいと言ってくれたが、僕たちは何も恐れずに出かけた。この時から空港での警備が厳重になり、保安検査が始まった。まだ始まったばかりだったので準備不十分で、長い長い列ができて一時間も掛かった。ニューヨークに帰ってきて、飛行機から破壊の跡が見えたが、まだ煙が立っていた。そのひどさに目を見張った。ニューヨークの象徴だったツイン・タワーが忽然と消えてしまっていて、寂しかった。
2 コロンビア大学病院
クリーブランド・クリニックではALS協会の資金支援を受けて、ALSの研究、臨床、ALSクリニックなど協会と共同で仕事をしていた。僕は当時ALS協会の医学顧問委員会の議長で、しかもALSセンター承認委員会の議長でもあった。ところがコロンビア大学に移るに当たって、僕には予想もしていなかったことが起こった。コロンビア大学病院は筋ジストロフィー協会(MDA)のお膝元で、ローランド先生の時からMDAが支持する最も重要な病院の一つだった。MDAの役員たちはALS協会と関係の深い僕がコロンビア大学病院のALSセンターやMDAクリニックのディレクターになって来るというので色めき立ったのだ。MDAにとって僕はただのALSの専門家ではなく、ALS協会側を代表する医師だった。MDAの会長がぺドリー主任に「なぜミツモトを雇うことにしたのか? なぜ自分たちに前もって相談してくれなかったのか?」と手紙で不満を如実に表してきたそうだ。ぺドリー先生は何を言っているかと腹を立てた。しかし彼は穏便に「コロンビア大学の教授職の人員補充はコロンビア大学にとって必要な人員を選ぶことになっている」と返答した。しかしこの返答はさらにMDA会長を怒らせ、大学に出している資金の援助を止めるなどと脅してきたそうだ。しかし、それからMDAの医学諮問委員会の議長、さらにニューヨークのMDAの理事が僕に電話をしてきて、ALS協会の二つの議長職を下りてくれるならMDAとしては問題がないと言ってきた。なぜ僕が二つの協会の勢力争いに巻き込まれるのかと腹が立ち、辞任する必要はないと思った。しかし、一方ではコロンビア大学へのMDAからの金銭的な援助をリスクすることはできない。仕方なく僕はALS協会の二つの議長職を辞任することにした。ALS協会の役員会に電話をして正直に事情を説明して二つの議長を辞任した。映画の「スター・ウォーズ」をまねて、僕らはMDAを「イヴィル・エンパイア(悪の帝国)」と呼んだ。しかし、それは半ば冗談で、MDAは筋ジストロフィーだけでなく、ALSを含めた他の筋・末梢神経の疾患の治療と研究に計り知れない貢献をしている。MDAは1950年代に筋ジストロフィーの患者と家族を支援するために設立され、1966年にコメディアンのジェリー・ルイスが発起人となって「レイバー・デー・テレソン」という毎年レイバー・デー(労働の日、9月1日)の週末に24時間のテレビチャリティー番組を始めた。ハリウッドの俳優や歌手が出演するテレソンは大成功だった。その他に一般市民が商店や勤め先で年間を通して少額の寄付をしたり、レイバー・デーの週末には消防士が通りに出て、通り掛かる車に長靴の中に寄付を募る運動は現在も続いている。2014年までに総額2000億ドル近い寄付金を得て、MDAクリニックでの治療、研究、患者・家族のサポートなどに支給している。僕がタフト大学で研究ができたのはMDAのリサーチ・フェローシップのお陰である。コロンビア大学で僕もMDAの傘下に入ったので、テレソン時に一度はハリウッドに招待されたし、毎年地元のテレビ局のテレソンに招待され、インタビューを受けて現況報告と研究資金の重要さについて話をした。しかしジェリー・ルイスとMDA会長のロス氏が最近亡くなり、テレソンも中断されて、最近の資金集めには昔日のような華々しさはない。
ALS協会は小さいが、ALSのみを扱って努力をしているので内容は非常に優れていた。一方MDAは強大で40以上の筋・神経疾患を扱い、ALSはその一つにすぎないが、MDAにとっても非常に大切な疾患ではある。二つの協会はライバルなのだ。こうした政治的問題のど真ん中に置かれ、17年前にケース大学からライバルのクリーブランド・クリニックに移った時のことを思い出した。仕事先を変えることは単純なことではないと再認識した。しかしMDAにとってみればこれで問題は解決したのであって、僕は早速MDAの医学諮問委員会のメンバーとして迎えられ、その後つい最近まで研究資金の申請書の審査委員として年に二回MDAの本部であるアリゾナのツーソンに通った。会って話してみると会長のロス氏は大変優しい、良い人だった。僕に対してはことのほか協力的で、ALSのシンポジウムの必要性を説くと非常に乗り気で、アペル先生(Dr. Stanley Appel)と二人で新しいALSのシンポジウムの開催者としてすべてを任せてくれた。あんなに密接に協力していたALS協会とは自然と疎遠になってしまった。僕は結果としてMDAのために多くの仕事をした。しかし自分が何かコウモリのようで嫌だった。
ALSクリニック
コロンビア大学病院のALSセンターは、正式には「エレノア・アンド・ルー・ゲーリックMDA・ALSセンター」と言い、ルー・ゲーリックの奥さんの肝いりで、1960年代に設立された。ルー・ゲーリックはニューヨーク・ヤンキースの一塁手で、映画「打撃王」で知られているようにアメリカで最も有名な野球選手の一人だ。2130試合に一度も休まず出場したので「アイアン・ホース(鉄の馬)」と呼ばれていたが、36歳でALSにかかり、野球を止めざるをえなくなった。当時、筋萎縮性側索硬化症という名前は一般には全然知られていなかったので、ALSのことを「ルー・ゲーリック病」と呼ぶようになった。ローランド先生の監督の下、ナース・プラクティショナーのデルベーネ(Ms. Maura DelBene)さんがセンターの副所長として、理学療法士のヘイズさんと二人でALSクリニックを管理していた。デルベーネさんは僕が知っているナース・プラクティショナーの中で最も有能で知識が豊かだった。彼女は精神科のナース・プラクティショナーでもあったので患者の精神面・心理的な問題にも取り組むことができた。新任で右も左も分からない僕のためにあらゆる便宜を図ってくれた。ニューヨークに不慣れの僕たちを自宅にも招待してくれ、ニューヨーク生活に慣れるように僕たち夫婦を助けてくれた。新しいALSセンターは神経学研究所の9階にあり、そのほぼ半分が僕らのセンターのために与えられた。
少しずつ多職種によるALSクリニックを作り上げていった。新しい治療士や療法士を雇うのにはデルベーネさんの内部事情の知識が必須だった。ローランド先生に頼まれてコロンビア大学の神経科のレジデントを終えた医師をALSフェローとして雇うことになった。彼女は出産したばかりだった。ALSセンターはまだ始まったばかりで比較的ゆっくりとしていたので、彼女には最適だった。彼女を最初のフェローとして、ALSのフェローの研修制度も整えた。1~2年で充実した多職種によるALSクリニックができ上がった。ローランド先生は新患を診察し続けていたし、僕もどんどん新患を診ていたので、ALSクリニックは忙しさを増していった。大きな治験があれば、治験を行うだけでなく、治験運営委員となるように製薬会社から頼まれることが多かった。ALSの原因究明の基礎研究の生涯教育と多職種によるALSクリニックのあり方に関しての生涯教育コースを開いて、僕が来てからの新しいコロンビア大学病院のALSセンターをニューヨーク周辺の神経科の医師たちによく知ってもらうように努力した。
「ウォール街の翼」
神経学研究所の9階はペンキを塗り替える程度の簡単な身づくろいをしただけだったので、ぺドリー主任は本格的な改装工事をして立派なALSセンターにしたいと何人かの寄贈者候補と話をしていた。話が進んで改装工事のブループリントまででき上がった時、不幸にして寄贈者が突然亡くなり、計画がダメになってしまった。ローランド先生はコロンビアの教授陣は寄付を請うライセンスがあるという冗談をよく言っていた。コロンビアに来た翌年の春、僕の患者のダイアモンドさんはジョンズ・ホプキンスでも診てもらい、ALSのために募金運動を始めたいとMDAに協力を求め、2001年の10月にイベントを計画した。しかし不幸にして9・11テロの大惨事の直後に当たり、大きな資金集めにはならなかった。しかし、その翌年やはり僕の患者のバイヤー氏がダイアモンドさんと同じようにジョンズ・ホプキンスでも診てもらい、彼女と共にコロンビアとジョンズ・ホプキンスの両大学の研究資金集めの大きなイべントを開催することになった。バイヤー氏はウォール街の成功者だったので、そのイベントを「ウォール街の翼」と名づけて、MDAの協力の下に資金を集めた。ウォール街には無限にお金があると見えて、毎年膨大な研究資金が集められた。2~3年内には一日のイべントで200万ドル(約2億円)を集めることができた。コロンビアとジョンズ・ホプキンス大学は研究資金を折半にすることになっていたので、100万ドルの寄付金をもらった。どのように研究費を使うかはすべて僕に任されていたので、ほぼ半分は運動細胞の基礎研究をしている二人の研究者に与えることにした。その一人はジェセル先生(Dr. Thomas Jessell)で、運動細胞の発生と幹細胞の研究で世界的に有名な科学者である。もう一人はシュボースキー先生で、SOD1モデルを使用して運動細胞疾患を研究していた。あとの半分を僕の臨床研究、新しいALSのバイオマーカーの開発のためと新しい治験を始めるために使用した。こうした資金がコロンビア大学の基礎的かつ臨床的運動細胞疾患の研究にどれほど貢献したかは計り知れない。バイヤー氏は4年後には非侵襲性の呼吸器を使用する以外比較的運動機能がまだ保持されているうちに自分から緩和療法を選び、本当の末期になる前に亡くなった。ダイアモンドさんは気管切開を選び、その後何年かの間「ウォール街の翼」の資金集めにご主人と共に尽力した。10年経ってイべントの創始者たちも亡くなり、集金額はかなり落ち込み、MDAはイべントで集められた総額の半分を他施設のALS研究に回すようになったため、コロンビアとホプキンスには25%ずつが分配されるようになった。この資金を受けるには正式に研究資金のための応募を行い、MDAの承認が必要だ。「ウォール街の翼」は現在も毎年行われている。このイべントは僕がコロンビア大学へ移籍した直後に始められ、僕の研究を推し進めてくれた。感謝の念でいっぱいだ。
コロンビア大学医学部と大学病院の関係
コロンビア大学医学校(Columbia University, Vageros College of Physicians and Surgeons)は250年前にイギリス国王の大学(King’s College)の一部としてニューヨークに開かれた、アメリカで最も古い医学部の一つである。大学病院は大学とは独立した組織で、現在はニューヨーク・プレスビテリアン病院(New York Presbyterian Hospital)といい言い、コロンビア大学とコーネル大学の教育病院である。コロンビア大学に直結している病院はコロンビア大学病院(Columbia University Medical Center)で、僕たちが直接関係している。医師教育スタッフは皆コロンビア大学の職員であり、レジデントと病院のスタッフ全員が病院の職員である。ここまでで既に医学部と病院が複雑な構造であることが分かると思う。胸につける名札が違うだけでなく、全システムが異なる。例えば現在でもコンピュータのシステムとプログラムが異なるので、同じ患者でも入院すれば外来のデータを見るためには他のシステムに入らないと見ることができない。以前はもっと複雑だった。僕がコロンビアに来た頃は検査結果がなかなか手に入らなかった。クリーブランド・クリニックのような能率を最大限に上げることを始終考えている病院とは雲泥の差だ。外来は大学の医者が診るので各科それぞれ独立しており、もちろんチャートも別々である。もっともこのようなシステムはどこの大学でも普通のようだ。僕がコロンビアに移った当時、「USニュース」というニュース雑誌によれば、ニューヨーク・プレスビテリアン病院は米国で上位11番目の病院だった。僕は医者の質からしてシステムを改善すれば直ちに順位は上がるだろうと思っていた。十数年たった今、やっと5、6番になった。最近妻が病気になり、いろいろな科で診察や検査を受けたりしたが、請求書はばらばらで、間違いもあり、ある科は3、4か月遅れて送ってきた。クリーブランド・クリニックならばたった一枚の請求書だ。一方、コロンビア大学では各教室の独立性が最も尊重されている。
コロンビア大学神経科
神経科の教室は大きく、臨床家は100人ほど、研究だけをする理学博士は36人、レジデントは一年に13人で合計39人、フェローは15~20人という大所帯である。ただし患者を専門に診る医師は20人ほどで、ほとんどの医師は臨床研究か基礎研究が専門で、患者は週に半日か丸一日診るだけである。クリーブランド・クリニックの神経科の医師は25人ほどだったが、患者を診る数ははるかに大きい。医師はほとんど臨床家で、患者を診るのが仕事であるからだ。移ってからしばらくして驚いたのは、各部門の部長はNIHからの研究資金を持っていることだった。これは大変なことになったと思った。僕がコロンビアに移る条件にはNIHからの研究資金を取らなければならないという項目はなかった。それでも僕もそうした研究資金を取らなければならないだろうとプレッシャーを感じた。そのうち多くの医師がNIHの研究資金を獲得しているのには、一人一人の経済的な事情が背景にあるのだということがだんだんと分かってきた。しかもNIHのような国立研究資金は、研究資金に比率して高額な間接経費という資金が大学に直接払われる。大学によって異なるが、コロンビア大学にはほぼ研究資金の60%の間接経費が国家から支払われるのだ。それは研究のための研究室、それに伴った付属機具、光熱費、その他もろもろの経費を大学が研究者に無料で与えるための経費である。したがってNIH研究資金をたくさん持ち込めば大学は潤うわけである。一方、多くの寄付財団の間接経費は10%、製薬会社の行う治験では約30%である。MDAの研究資金は疾患援助の協会・財団であるため10%のみである。こうした研究資金は間接経費が低いので教室も大学もあまり喜ばない。出先がどこであれ、研究資金を獲得している医師は驚くほど多かった。コロンビア大学の神経科はNIHの研究資金を獲得している金額では今年は全米一で、毎年カリフォルニア州立サンフランシスコ大学の神経科と一番を競っている。コロンビア大学の優秀な医者たちは教室内よりも学外の研究者と競争しているのだ。僕はクリーブランド・クリニックの小さな池から大きな海に泳ぎ出た感じがした。
ALSセンターの経済状態
クリーブランド・クリニックでは僕は筋・神経部門の部長だったが、患者の数を増やす、学会に行く時には必ず病院に残る医師が自分の部門をカバーする、患者の予約を勝手にキャンセルしない、などを当然のこととして重視していた。ALSセンターのように利潤のない小部門は筋電図部のように高利潤のある部門と組んでいて赤字が消滅してしまうので、経済的な問題も起こらなかった。しかしコロンビアの神経科では筋電図部門は独立、ALSセンターも独立で、こうした独立採算制では大きな寄付でもない限り、ALSセンターを運営していけるはずがなかった。そのためALSセンターは慢性的に赤字だった。これには参った。患者・家族らからの寄付、治験からの余剰金などは一年の終わりには赤字を埋めるために使われ、それでも赤字を消すことはできなかった。クリーブランド・クリニックにいた頃、「もう少しチャレンジがあったほうが……」などと贅沢なことを考えていたのだが、コロンビアに来てから毎日がチャレンジという生活に一変した。僕が願った通りになったのだ。ほとんどすべての大学病院のALSセンターは筋電図部門と一緒になっているのに、コロンビアでは独立採算制だった。ぺドリー主任にこの変更を繰り返し頼んだが、筋電図部門の部長は僕よりも少し早く着任して、その独立採算制をぺドリー先生と取り決めていたので、どうすることもできなかった。また多くの場合、ALSセンターの所長は筋電図を専門にしている医師が多く、その場合ALSセンターと筋電図部門は一緒になっていて経済問題はあまり起こらない。僕は筋電図をやらない。筋電図をやる者でALSを深く研究している者は少ないので、自分はやらなくてよいと思っていたのも事実だった。コロンビアのALSセンターは大きなチャレンジに直面していた。
専任教授は常時出張!
コロンビア大学神経科には「専任教授は常時出張、非常勤教師は時々出張(A fulltime faculty travels fulltime, a part-time faculty travels part-time)」というジョークがある。教授は他の大学や病院に仕事で出かけることがいかに多いかを物語っている。出張と病院の仕事とのバランスは大切だ。つい最近まで僕も出張は一月に1~2回あって、学会、研究委員会、顧問会議、研究資金審査委員会、招待講演などである。招待講演は1983年にクリーブランド・クリニックで仕事を始めてから、年に平均4~5回あり、そのほとんどは神経科のグランド・ラウンズと呼ばれる勉強会での講演、さらに生涯教育コースでの講演、そして製薬会社や患者団体のための講演である。時々客員教授(visiting professor)として招待され、講演の他に病棟回診や患者の診察をしたり、研修中のレジデントとの昼食懇談会、専門が同じ研究者・医師との会話、さらに夜はディナーで歓談しながら知識と経験を交換する。僕にとって名誉だったのは1997年にマサチューセッツ大学(University of Massachusetts)で行われた第16回デニーブラウン(Dr. Derek Denny-Brown)記念講演で、友達のチャッド先生が招待をしてくれたのだった。デニーブラウン先生はアメリカの神経学の父で、僕の恩師のフォーリー先生の恩師に当たる人である。そうした名のついた講義は大変な名誉である。その時にはウォブラーマウスの運動細胞疾患のことを話させてもらった。2000年にはコロラド大学のリンゲル先生(Dr. Steven Ringel)が招待してくれたウィリアム・ハルセス(Willium L. Halseth, MD)客員教授で、ALSの進歩と現況の話をした。リンゲル先生とはCNTFの治験以来の大変良い仕事仲間で、彼は誰からも好かれ、アメリカ神経学会の会長も勤めた。ある年ALSの国際学会で僕が「生活の質(Quality of life)」について基調講演をすることになっていた。前夜のディナーで彼は僕の隣に座っていて、ジョークを言った。「『生活の質』とはティーンエージャーのセックスのようなものだ。誰もが話しているが、誰もどうしていいのか分からない」皆が笑ったのだが、僕はこれは実に的を得たジョークだと思った。翌朝、僕の講演は会議の最初だった。出席者は静粛にしていた。紹介が終わって、僕はリンゲル先生のこのジョークで講演を始めた。会場は笑いに包まれた。後でALS協会の親しい女性の支部会長が「ヒロシ、あなたが朝からセックスジョークを言うとは思わなかったわ」と笑った。クリーブランド・クリニックを離れてから3年して、ルーダース先生は「著名な旧職員による講演」に僕を招待してくれた。ALSの新しい治療についての話をした。離れていった僕にこのような名誉を与えてくれたことに心から感謝している。一番記憶に強く残っている客員教授の経験は大変親しくしているキングス・カレッジ(King’s College)のリー教授(Dr. P. Nigel Leigh)が招待してくれたブレイン客員教授だった。英国のロード・ブレイン(Lord Brain)は世界で最も有名な神経学者の一人で、立派な教科書を著している。彼は神経学の功績で貴族の称号を与えられた。その彼に因んだ客員教授で、選ばれた教授は1週間その大学に滞在して、まずブレイン特別講演をすることになっており、僕はALSの治療の講演をした。それからリー先生はALSのシンポジウムを開き、英国在住の数人の世界的に有名なALSの専門家たち、スワッシュ先生やショー先生(Dr. Pamela Shaw)がALSの研究の現状を発表し、議論した。さらにロンドンのいくつかの施設を見学したり、若いALSの研究員などと研究の話をするなど、実に充実した1週間だった。リー先生は、リー症候群を発表した有名なリー教授のご子息で、彼自身素晴らしいALSの仕事をしている。学者であるだけでなく、人間として素晴らしい人で、大好きな先生の一人である。もちろん僕は彼をクリーブランドにもニューヨークにも招待した。このように出張すれば病院での仕事はさらに忙しくなるが、患者を診察し、医学研究をする者にとって、出張は重要であるだけでなく、楽しいことでもある。大学や病院にいるだけではとても学べない多くのことを経験し、大勢の研究者に出会い、僕らの知識の集積と人脈作りにつながる。それが「専任教授(full-time faculty)」の特典なのである。
楽しかった出張と言えば、製薬会社の顧問会議やシンクタンクの集まりなどで、ワイン産地のナパ、プエルトリコ、セビリア、ブエノスアイレスなど、国内外の風光明媚な地方で催され、夫婦で招待された。僕がコロンビア大学へ移動してすぐにペドリー先生は僕をアメリカ神経学会の科学委員会のメンバーに推薦してくれた。この委員会は、学会研究発表の領域やいくつものシンポジウムの内容を決めたり、その他学会のあらゆる学問的な問題について議論し、決定する。学会の役員が毎年アメリカの魅力的な市を選び、二日半の委員会を開く。朝から夕方まで真剣な討議が続くが、夜のディナーでは10人ほどの委員はほとんどが配偶者同伴なので、仕事の話はせずにリラックスして楽しめた。この委員会のお陰で、僕は多数の違う部門の神経学の専門家と知り合いになることができた。
クリーブランド・クリニックにいた時に、その法律部の許可を得て、ギリシャの元独裁者でALSの患者を診察したことがある。衰弱した彼を病棟監禁から自宅監禁に変えてほしいという家族と支持者たちの要望に、政府がALS専門医の診断書を要求したのだ。そこでギリシャの政治とはまったく無関係の僕が選ばれた。後にギリシャ系の医師に患者はヒットラーにも匹敵する悪人だと言われて僕は驚いたが、医は仁術で、どんな悪人でも治療しなければならない。
特に思い出が深い出張は国立ソウル大学へ招かれた時のことである。大学の人々は大変礼儀正しくて丁重にもてなしてくれたが、講演を終えてからの晩餐会で、僕は招待のお礼を言った後、日本が韓国を侵略したことについて日本人として申し訳なかったと謝った。即座に座の空気が変わったと思った。その場の人たちが何かほっとしたというか、彼らの表情が柔和になったような気がした。僕も言わなければならないことを言って気持ちが軽くなり、彼らがそれを受け入れてくれ、少し打ち解けてくれたようで、良かったと思った。
3 ALSの新しい研究
神経画像法と電気生理学的手法を用いたALSのバイオマーカーの検索
コロンビアに移ってからまもなく二人の研究者が僕と共同研究をしたいと言ってきた。神経放射線科のチャン医師(Dr. Stephen Chan)とシュングー理学博士(Dr. Dikoma Shungu)だった。彼らはローランド先生と共にALS患者のマグネティック・レゾナンス(MR)を使用した脳内運動細胞のスペクトロスコピーの所見を既に論文で発表していた。このMRテクノロジーを使うと脳内の化学物質を外から分析でき、神経細胞にだけ存在するNアセチル・アスパラテート(NAA)という物質が特異的に低下していることから、脳内の神経細胞が減っていること、あるいは神経細胞の化学的健全性が障害されていることが分かるのである。この研究を基盤にして、さらにALSの患者を対象にプロスペクティブ(先見的)な共同研究をしたいということだった。僕はコロンビアに来て新しい研究をしたいと思っていたので、渡りに船、大いに興味を持った。僕はクリーブランド・クリニックにいた時、悪性高熱症の患者で燐のMRスペクトロスコピーを検索したことがあったのと、ALS患者の延髄のMRスペクトロスコピーを調べたことがあった。それは僕のフェローだったピオロ先生がモントリオールの神経学研究所でMRスペクトロスコピーを研究していたからだった。それまでのMRスペクトロスコピーは大きなスペース(2・5センチの立方体)に局在された脳組織のMRスペクトロスコピーを測ることができていたが、はるかに小さなスペースの中のMRスペクトロピーを測るテクノロジーをシュングー博士は開発しており、この方法を使うと脳の運動皮質、すなわち上位運動神経細胞だけのスペクトロスコピーを特異的に検索することができる。もう一つの最先端のテクノロジーはディフュージョン・テンサー画像法で、脳内の神経線維の方向性と健全性を検索できる。これらの最先端のテクノロジーによって脳内の上位運動神経細胞の健全性または障害度を計ることができるのだ。それでも僕は神経画像法だけではNIHの研究資金を得るには不十分だと思った。僕らはさらに神経生理学的な方法、経頭蓋磁気刺激法を用いて上位運動神経細胞の伝導性と興奮性を定量することにした。この検索方法はプルマン医師と共同研究することにした。これらのテクノロジーはどれも上位運動神経細胞の化学的・生理的な変化を定量することができるが、ALSの運動細胞疾患は脊髄にある下位運動細胞の疾患でもある。この細胞の健全性を定量的に調べる必要がある。そのために筋電図部長のグーチ医師を僕らのリサーチチームの新メンバーとして加え、その時まだ研究の走りだった運動神経細胞数測定法を用いて下位運動細胞の健全性を定量することにした。これらのテクノロジーを総動員して、ALSの上位および下位運動細胞の健全性を定量的に測りうるバイオマーカーを臨床的な検査と比較しつつ、12か月経時的に検索することを目的としてNIHの研究資金に応募することにした。準備に一年ほど掛かったが応募することができ、幸運にも研究資金を獲得できた。僕はそれでコロンビア大学の神経科のNIHの研究資金を持っている部長たちに仲間入りできたのだ。研究資金を取るのは大変だが、より大きなチャレンジは果たして計画したようにうまく研究が進むかということだった。ともかく65人のALS患者と約20人の健康成人(主に患者の配偶者)を三年掛かって調べた。バイオマーカーに関しては、どのバイオマーカーも健康成人と比べて明らかに異常だった。しかし予想に反してディフュージョン・テンサーでの異常は見つからなかった。これらのバイオマーカーはALSの運動細胞の異常性を明らかに示したが、経時的変化は少なかった。その変化の程度はどれも臨床的に捉えられる変化より小さく、これらのテクノロジーを診断や疾患進行のバイオマーカーとして使うにはテクノロジーのかなりの進歩が必要だろうと結論した。この研究は「ニューロロジー(Neurology)」に発表された。
ALS患者の疾患終末期の研究
ALS患者の疾患終末期の研究は既にローランド先生、アルバート博士、デルベーネ看護師が行っていた。僕がそのチームに加わった後、アルバート博士が中心となってそれまでの研究成果をまとめ、さらに研究を拡大するために、NIH精神衛生研究所の研究資金に応募した。アルバート博士は人類学者で、疾患が人間に与える影響に関しての研究に特別な興味を持っていた。この研究の目的はALS末期(肺活量が50%以下)にある患者と家族介護人がどのようにその末期を生きて行くのか、いつどのように気管切開・呼吸器装着を考えるのか、どのように死を受けとめて生きるのかを、家庭訪問と頻回なインタビューを通して調べようというものだった。この研究はNIH精神衛生研究所が初めて支持したALSの研究だった。詳細なインタビューを受けた80人の患者のうち、30%以上の患者が気管切開・呼吸器装着を希望したが、呼吸器装着後、その決定に疑いを持ち始めた患者がかなりいた。さらに19%の患者は死にたいという希望を表明したが、そのうち6%の患者が死を早める行動を取った。この研究は疾患末期の患者および家族介護人が疾患末期をどのように生きるのかについての貴重なデータとなった。僕のALSの研究の領域が明らかに広がった。
いかにALSの生命の終わりを改善するか?
ロバート・ウッド・ジョンソン財団(Robert Wood Johnson Foundation)は健康と福祉を増進させるための研究に資金を出している。2004年頃この財団はALSの疾患に興味を持ち、特にALSの患者の末期の改善に関してALS協会に協力を要請した。そこでALS協会は僕をその委員長として23人からなる専門委員会を作った。そこで僕らは一年以上かけてALS患者の生命の終わりに関して、それまでに発表されていた研究結果(エビデンス)を分析し、その治療上の現実と理想とのギャップを調べ、将来標準的治療を行うための必要な推奨とさらにそこに到達するためにはどのような研究が必要であるかをまとめて報告した。ALS患者の生命の終わりを改善するにはまず多職種によるアプローチが必要であること、病気と生活環境と心のケアのみでなく、患者と家族介護人の生活の質(Qulity of life (QoL))の評価法を開発すること、さらに現状の保険制度が生命の終わりのケアに対しても支払いを行うことなど、多くの面に改善が必要であることを指摘し、数多くの推奨を行った。委員会のレポートは「ALSジャーナル」に報告したが、ロバート・ウッド・ジョンソン財団は僕らのレポートを基にしてALS患者の生命の終わりに関して美しいパンフレットを作り、教材としてCDーROMを作成し、ALSセンターやその他の関係機関に配布した。
ALS患者の生命の終わりを改善するという努力は別な方向からも起こった。アメリカ医師会の医学雑誌JAMAの編集長より、JAMAが行ったオルニー先生と彼の家族とのインタビューを基に論文を書かないかという誘いがあった。これはカリフォルニア州の医師会が音頭を取って始めたもので、この論文が出版された場合、2回にわたってカリフォルニア州の大学でALSの緩和療法に関してグランドラウンズで講義をすることが条件に入っていた。オルニー先生(Dr. Richard Olney)は非常によく知られた神経科医、しかも筋電図とALSの専門家で、僕も彼と協同で論文を書いたことがあった。彼は不幸にしてALSにかかり、大変勇気のいることだが、自分の病気、ALSがもっとよく社会に知られるように家族ぐるみで努力していた。「ニューヨーク・タイムズ」にも彼の記事が大きく載り、アメリカの神経科医なら誰でも彼のことを知っていた。JAMAが行ったインタビューは、疾患発症の成り行きから診断、多職種によるALSクリニックに対する彼の妻の明らかに肯定的な反応、自宅での治療、彼と家族との協力、彼自身と彼の妻の死に対する考え方などを網羅した非常に優れたインタビューだった。僕らの論文はこのインタビューを使いながらALSの治療法、多職種ALSセンターの任務と実践、緩和療法の紹介とあり方に論及した。この論文は僕の密接な共同研究者である精神科臨床心理学教授のラブキン先生(Dr.Judith Rabkin)との共著で、論文のタイトルは「ALS:最悪に備えつつ、最善を望む」だった。オルニー先生と彼の妻、そして家族はすべてに関して最高の環境にあり、すべての患者・家族を代表するものではないが、誰もがこれを模範としてこのレベルに達するよう努力すべきであると思った。僕らの論文はJAMAのみでなく、JAMAが監修した特別緩和療法の本に一篇として加えられた。
米国ALS研究グループ(ALSRG)
米国には二つのALS治験グループがある。一つはウェスタンALSグループ(WALS)で1980年代に始まり、もう一つはノースイーストALSグループ(NEALS)で1990年代に始まった。クリーブランドで僕が始めた五大湖ALSグループ(GLALS)は僕がニューヨークに移ってから自然消滅してしまった。2000年頃からALSの研究者たちはこの二つの治験グループとは独立した、しかも治験を目的としないALSの研究グループの必要性を感じるようになり、ALSRGが発足した。規則が決められ、次に委員長が選挙で選ばれることになった。僕はこのグループはALSの研究にとって大変重要だと確信していた。多少選挙運動もしたので最初の委員長に選ばれた。ALS研究にとって一番重要なことは何か、それに対してALSRGは何をするのか、そうしたことを決めるのが最初の大きな課題だった。偶然その頃NIHがDNAバンクを開始することになった。その初めの仕事としてその時NIHから研究資金を受けている研究者で、もし患者と対象群としての健康人から基礎的な臨床データとDNAのための採血をするなら、NIHからDNA一人当たり300ドル、最高額10万ドルまでを研究資金に加算するという新しい提案が出された。ALSのDNAを集められるだけ集めることはALSの原因解明に最も重要なことだった。これをALSRGの一大目的とすることにした。当時NIHからALSに対して研究資金が出ていたのはコロンビア大学(コーキュー10(CoQ10)とミノサイクリンの二つの治験)、メイヨー・クリニック(IGF―Iの治験)、それにケンタッキー大学(栄養と呼吸の二つの研究)の総計5つで、その他の17施設はこれらのNIHの研究資金のグループに入っていなかった。しかしどのALSセンターもALS協会かMDAの支持を受けていたので、両方の協会にこのNIHが始めたDNAバンクのプロジェクトに協力してくれるように依頼した。幸いにして両協会ともこのプロジェクトにはすぐに賛同し、両協会とも10万ドルづつを寄付してくれることになった。そのことが決まるや否や、シカゴで全米の全ALSセンターの会合を開いた。DNAのサンプルに最小限度に必要な臨床データの項目を決め、DNAをできるだけ多く収集することに努力した。このプロジェクトは成功だった。1500以上のALSのDNAと約2000のALSでない健康人のDNAが一年以内に集まった。ALSと対象群のDNA収集のため、総数で70か所のALSセンターが協力し、NIHとMDAとALS協会が協力して出資した成果だった。このユニークなDNA収集法はNIHのグウィン先生が論文にまとめ、医学ジャーナルに発表された。当初ALSRGの委員長は4年の任期で、それから2年ごとにとなり、グループは12年以上存続したが、その後の活動は鈍った。ALSRGのニッチがなくなったということだろう。
新しいタイプの治験
僕が赴任して数年して若い研究者がALSセンターに加わった。ゴードン医師(Dr. Paul Gordon)はコロンビア大学神経科のレジデントを終え、クリーブランド・クリニックでEMG・筋神経のフェローの後、ALSの臨床をニューメキシコ大学で行った。ミノサイクリンという薬剤をALSに使う治験のアイデアを考え、NIHの多額の研究資金を獲得した。ミノサイクリンはALSに起こると考えられている炎症作用と細胞死を抑制することがALSマウスの研究で示されていた。彼はコロンビア大学でこの治験をしたいと希望してきた。彼は非常に優秀で、論文の書き方もうまく、研究者としての資格を十分に備えていた。ミノサイクリンの治験はデータ管理センターをサンフランシスコにあるカリフォルニア・パシフィック・メディカルセンターに置き、コロンビアのALSセンターには治験管理センターを置いて、300人以上の患者を対象にした大規模で複雑な治験だった。治験自体は成功だったが、ミノサイクリンは患者のALSの機能を悪化させることが統計的に判明した。彼は自分で考えついたミノサイクリンの治験のほかに、ALSに対する免疫システムを強化するための多発性硬化症の治療剤であるグラティラマーの薬剤効果を第2層の治験として検索した。さらに統計学者と協力して、極めて斬新なALSのための複合治療(ミノサイクリンとクレアチン対セレコッシブとクレアチン)の治験も行った。彼は治験に関係したいくつかの優れた研究を行い、コロンビアにいる間に12の論文を発表した。2009年に彼は神経学の父と言われるシャルコー先生(Prof. Jean Martin Charcot)を輩出したパリのサン・ペトリエール病院で臨床神経学をもっと勉強したいと希望して、大変残念なことにコロンビアを離れることになった。同じ頃もう一人コロンビア大学の神経科のレジデントを終え、筋電図のフェローとALSフェローの両方を終えたカウフマン医師(Dr. Petra Kaufmann)が「ウォール街の翼」の資金で治験の方法論を学ぶため公衆衛生学部で修士を修得した後、僕らのALS部門に加わった。彼女は統計学者と協力して非常に斬新なCoQ10治験を計画し、NIHの研究資金に応募した。CoQ10とは細胞の中にある生体のエネルギーを産生する細胞微小器官ミトコンドリアに存在する生体化合物で、ミトコンドリアがエネルギーを作り出す時に出る酸化物質を無毒にする作用を持っている。この治験のデザインは無益デザインと呼ばれ、通常の統計処理とは異なって薬剤が効かないということを証明する方法で、患者の数が少なくても治験の目的を達することができる。この無益デザインはALSの治験には初めて使用された。NIHの研究資金を獲得できたので、多数のALSセンターを加えてこの治験が始められた。この治験の結果はCoQ10はALSには効果がないということを示した。このように新しい治験デザインがALS治験に用いられた意義は大きかった。カウフマン医師は治験の方向をALSから小児の脊髄性筋萎縮症に移し、その後NIHの神経疾患・卒中研究所(NINDS)に移動した。コロンビアのALSセンターでこれら二人の若い助教授が新しいタイプの治験やその他の臨床研究を競争でもしているかのように次から次へと行なったことはALSセンターの発展だけでなく、ALSの研究全般にとっても重要であった。これらの若い研究者を保持するだけの資金がどうしても必要だ。
国立ALSレジストリー(登録)
マサチューセッツ州には以前からALSの多発している地区があるという噂があった。患者とその支援団体がマサチューセッツ州に働きかけ、ALSの多発を調べるために1990年代にALSレジストリーを設定した。マサチューセッツ州に発症したALSを登録させ、ALSの動態調査をしようというものだった。これは画期的なことで、ニューヨーク州にもこのようなレジストリーが絶対に必要であると僕は確信した。患者・家族のボランティア、コロンビア大学の政府関係に関わる専門弁護士、ニューヨークのALS協会に働きかけ、さらには州の政治家の代表とも会議を持って、州の上院に提案を提出するところまで漕ぎ着けたのだが、ALS協会が僕らの努力に待ったをかけてきた。ALS協会が国のレベルで国立ALSレジストリーを法律化するためにワシントンで猛烈に議員たちに働きかけている最中で、僕らのニューヨークでの州単位のレジストリーは混乱を呼ぶだけで彼らの交渉の助けにはならないというのがその理由だった。そのため僕らの努力は頓挫させられたのだった。結果として国立ALSレジストリーが正式に認められ、現在国のレベルでレジストリーが行われるようになり、そこから僕らのセンターにも研究資金が来るようになったので文句はないのだが、ニューヨーク州のALSレジストリーはALSの報告義務を踏まえていたので完全な動態調査ができただろうと期待していたが、僕らの嘆願運動が失敗に終わった可能性もあり、後からは何とも言えない。いずれにしても国立ALSレジストリーが通ったことは良いことだった。しかしこの国立ALSレジストリーが通過していざ実践されるようになった時、かなりの反対意見と期待薄の意見がALS専門家の中から出された。批判の中心はALSの登録は個人の意思によるというもので、ALSの動態調査には極めて不完全だということだ。現時点では国のレベルでALSを感染症と同等に扱うのは不可能なようだ。その後ALSレジストリーの責任の担い手であるCDC(Centers for Disease Control and Prevention= 疾病管理予防センター)の一つの機関、ATSDR(Agency for Toxic Substance and Disease Registry= 有害物質疾病登録局)はこうした個人の意思によるレジストリーと本当のALS発症との違いを2~3の州で研究して補正値を出せるようにした。しかも与えられたデータの中で各種の有用な研究がなされるようになってきた。国立ALSレジストリーは成長を続け、成功であった。
気管切開・侵襲性呼吸器装着(TIV)に関する日米合同研究
日本でALSの講演をし、ALSのデータを比べてみるたびに不思議に思うことは、日本の患者は疾患末期に気管切開をして侵襲的呼吸器(TIV)を装着する比率が欧米諸国よりもはるかに高いということだ。平均して患者全体の30%以上がTIVを着けている。一方米国では3~4%で、ヨーロッパもほぼ同様だ。なぜこのような違いが起こるのか? 僕はMDAの「ウォール街の翼」の資金を使い、このことを研究することにした。この研究はいろいろな研究を一緒にやってきたラブキン先生と共同で行い、日本の研究は当時北里大学にいた荻野美恵子先生(現在は国際医療福祉大学)に協力を依頼した。三つの独立した質問状を作った。一つはALSの専門家に宛てたもの、二つ目はALSの患者へ、三つ目はALS患者の家族介護人を対象にしたものである。コロンビアの僕らが作成した質問状が日本でも通用するかどうかを荻野先生に判定してもらい、質問状を改善した。それを日本語に翻訳した。
まずALSを診察しうる医師に質問状を送った。米国ではALSを診る医師の数は比較的限られており、一人の医師が診る患者の数は多かったが、日本では多くの医師がALS患者を診ているので、医師一人の診る患者数は少ないという違いが分かった。ALSの患者にTIVをどのように勧めるか、自分がもしALSにかかったとしたら自分はTIVを着けるかなどの質問をした。米国の医師はTIVを勧めず、日本の医者はTIVを勧める傾向にあるという違いが分かった。しかし、自分がALSにかかった時は両国の医者とも自分はTIVを着けないと返答した。日米両国で協力を仰げる5、6か所のALSセンターを選んで、診断初期の患者と家族介護人(ほとんどは配偶者)、そして呼吸器障害の症状が出てきた患者とその家族介護人のそれぞれに質問に答えてもらった。ここで簡単にその結果を記載すると、米国の患者は考えがもっと陽性で、積極的にインターネットなどで情報を得ようするが、日本の患者は陰性で抑うつの傾向を示す。両国の患者とも医師が第一の情報源だった。両国の患者ともTIVは着けたくはないと考えている。日本の患者はTIVを着けた患者に出会う機会が高く、日本の家族介護人はTIVを着けてほしいと思う率がかなり高かった。TIVを装着する上で保険の有無やALS協会などからの影響は見られなかった。日本でのTIV装着は医師と家族の影響が強いのではないかと考えられた。この研究で現在の日米のTIVの違いをすべて説明できるとは思わないが、一つの解答を出せたのではないかと思う。
iPS細胞
日本の山中伸弥先生は人間の皮膚細胞から幹細胞を作り出すことに成功して、世界中の科学者を驚かせた。iPSとは誘導された(inducedのi)多能性の(PluripotentのP)の幹(StemのS)細胞、すなわちどんな細胞にでもなりうる幹細胞を作り上げることである。科学の世界は競争が激しく、しのぎを削っている。山中先生の論文が発表されるとほとんど同時に、ハーバード大学の神経科学者であるイーガン博士はコロンビア大学の神経科学者のヘンダソン博士(Dr. Chris Henderson)に電話をして、山中先生の方法で患者由来の運動細胞を作ろうと共同研究を提案してきた。ヘンダソン博士は運動細胞を培養する世界的な権威である。僕もその共同研究の会合に呼ばれた。もし成功した場合細胞が健康人のものか、あるいはALS患者のものか、作られた細胞の遺伝子検査で簡単に判定できなければならない。そのためには遺伝子診断のできるALS、すなわち家族性ALS患者の皮膚を調べる必要があった。研究プロトコルに従って同意書をもらい、家族性ALS患者の家族介護人と研究者たちからも健康人としての皮膚生検を提供してもらった。ヘンダソン博士らは数か月の間に皮膚細胞から運動細胞を作ることができた。これは科学雑誌ではトップの「サイエンス(Science)」に報告された。彼らはこの細胞を使ってALSに効果のある薬剤を探索しようとしているが、既に7~8年たった今でも目に見えた発展はない。科学の進歩は早いようでいて時間が掛かる。
ALS患者の皮膚の弾力性
この研究は大変面白いと思った。しかし論文が医学雑誌に掲載されないうちにこの仕事がうやむやになってしまったので、残念で仕方がない。論文が発表されなければその仕事はなかったと同じことである。この話はコロンビア大学皮膚科のビッカー主任教授から電話があって始まった。彼は以前ケース大学にいたことがあり、フォーリー先生をよく知っていたこともあり、話がはずんでお互いに懐かしい昔を思い出した。彼が言うのには、以前彼の皮膚科でチーフレジデントをしていたアーベスマン医師は当時バッファローで開業をしていたが、片手間に皮膚科の臨床研究をしていて、非常に面白いアイデアを持ち込んできた、一度彼の話を聞いてくれないか、ということだった。会って話をすることになった。アーベスマン医師は皮膚の弾力性に興味を持っており、ドイツ製の非常に特殊な美容学に使われるキュートメーターという測定器を使うと皮膚の弾力性を正確に測れると言う。ALSの皮膚は正常人と形態学的および生化学的に異なることが以前から知られており、アーベスマン医師はキュートメーターで測定できる皮膚弾力性の異常はALSのバイオマーカーになるのではないかとの仮説を立てていた。当時「プライズ・フォー・ライフ(Prize4Life)」という新しく設立されたALSの研究サポートグループがあって、研究準備金として10万ドル、もし仮説が成功すれば100万ドルの研究資金を出すというユニークな組織だった。実際彼は仮説を「プライズ・フォー・ライフ」に提出し、10万ドルを獲得した。彼はその研究を自分がレジデントをしたコロンビア大学のALSセンターで行いたいと考えた。彼と共に詳細な研究計画を立てた。キュートメーターは皮膚に陰圧をかけて引っ張り、陰圧を取り除いた瞬間から皮膚が元に戻るまでの時間を測定する。腕では脱力のある側、もしなければ利き手の二頭筋の正中の皮膚と下部腰部の皮膚2か所を選び、経時的にベースライン、3か月、6か月とに計測を行った。41人の患者と31人の健康な家族を正常皮膚として測定した。両方の皮膚ともALSの弾力性は正常に比べて著明に低下していた。しかも皮膚の弾力性の低下はALSの機能(ALSスケールと肺活量)低下とに正の相関が見られた。しかし経時的変化は少なかった。二つの神経学雑誌に投稿したが、神経領域以外の臓器に対する異常に関しては関心がないか、あるいは理解がないのか、評価は良くなかった。ALSは神経系統と骨格筋の異常を起こすという既存の概念に固執しているとしか言いようがないと思った。次は皮膚科の医学雑誌に投稿しようと計画していたが、肝心のアーベスマン医師の健康状態が思わしくなく、その計画は途切れてしまった。ALSは全身性の病気であり、運動神経細胞は特にALSの病気に対して過敏性が高いのではないかと僕は想像している。特に神経細胞と皮膚細胞は共にその発生が外胚葉で同一であるので、疾患が皮膚にも影響を与えやすいと考えられる。ALSが全身性の病気であることを証明するのにはまだまださまざまなデータが必要であろう。
NIHの研究資金によるALSにおける酸化ストレスの関与(ALSコスモス研究)
臨床家として、僕が何かALSの原因究明に貢献できるとしたら、それは疫学的な研究で、それに体液、遺伝子の大きなバンクを加えることだと考えていた。以前からどのような環境因子を調べるべきか、MDAと「ウォール街の翼」の資金で研究カンファランスを開き、項目を決める準備を行っていた。しかしどこに焦点を絞るかが僕にとって最大の問題だった。要するに何に焦点を当てるのかが分からず、それが決定的な弱さだった。重金属、農薬、あるいは電気磁気刺激に関係があるという報告はかなりあるが、大した関係はないという報告も多い。ALSのような稀な疾患では少数の人口に対しての疫学的調査では答えが当てにならないという問題がある。かなり考え抜いたと思う。ある時酸化ストレスはどうだろうかと思った。今までにALSとの関連の中で報告されているいくつかの環境因子と酸化ストレスとの関係をパブメド(PubMed= 医学文献検索システム)で調べると、重金属、農薬、電気・磁気フィールド、その他の職業的汚染は一見個別の環境因子のようだが、生体細胞内の反応では最終的に酸化ストレスを起こすことがわかった。しかも原因は決まった因子一個だけではなく、感受性の高い個人には一つ以上の多数の因子が混合または複合してALSに関与している可能性がある。このようにして一つの焦点を見つけ出すことができた。疫学に関しての相談相手だったオットマン博士とリトベック博士に酸化ストレスの考えと複数の環境因子の可能性の話をすると強い興味を示してくれた。以前から僕はニューヨークで疫学的研究をすべきだと考えていたので、これらのコロンビア大学の疫学学者を共同研究者として、ニューヨーク首都圏でのALSの疫学的研究をNIHに応募した。それまでのアイディアと計画を研究資金の応募まで持っていくのに既に3~4年は掛かっていた。グラントの評価は良くなかった。ニューヨーク首都圏というアメリカの中で最も多種類の人種が住んでいて人種のるつぼと考えられている特異的な領域を研究することに批判があったのだ。というのは多種の人種が入り組んでいれば、それだけ遺伝子の背景が大きく異なるということだ。この批判に対処してニューヨーク首都圏のみから12の多施設による疫学的研究に変更し、少なくともアメリカ全土を網羅するようにした。年令・性別・居住地など同じ対象群を使う計画は以前と同じだった。2回目の再提出もやはりダメだった。今度は対象群を除外してALSの患者だけで疫学的研究をするべきであるという示唆が返ってきた。ALSの疫学で対象群がなければ疾患の原因としての環境因子を決めることはできない。それは僕の研究目的を根本的に否定するものだった。しかし、たとえ計画が変わろうとも研究資金がなくては研究そのものができない。いずれにせよ、対象群がなくても患者群だけで研究ができるものは何か? 疾患の原因が検索できなくとも疾患の重症度、すなわち疾患の進行度と生存期間は十分に研究できる。一番重要な仮説はALS患者の酸化ストレスが高ければ疾患の進行が早く、また疾患の期間(生存)が短いという仮説を立てた。この仮説を疫学的に患者の職業、趣味、食物、心理状態から発生する環境因子と汚染を詳しく経時的に調査し、臨床的には患者のALS機能を24か月にわたって調べることにした。発症から18か月以内の患者を研究対象として、生存状態は加入後30か月で確認することに決めた。ALSに起こるといわれている前頭葉・側頭葉認知障害の有無も正式なスクリーン検査を行って調べる。さらに酸化ストレスのバイオマーカーとして尿中の脂質および核酸の酸化化合物を分析する計画で、DNA、血液、尿の大きな体液バイオバンクを設立、このようにして3度目の提出を行った。3度目の正直か、2009年に念願の大きなNIHの研究資金をもらえることになった。プロジェクトの名前はALSコスモス(ALS Multicenter Cohort Study of Oxidative Stress (ALS COSMOS))である。年間の直接経費が50万ドル、5年で250万ドル、それに大学病院への間接経費が150万ドルだった。この資金で12か所の多施設による研究を賄うことになった。僕らのプロジェクトはNIHが支持した最初の(治験以外の)ALS臨床研究だった。研究資金の要求が高ければ高いほど研究資金の承認は難しくなるので、僕らはぎりぎりの線で資金の申請を行った。そのため資金は決して十分ではなかった。しかし幸いなことに、「ウォール街の翼」はNIHの資金不足を補ってくれただけでなく、C9ORF72という最も頻回に起こるALSの突然変異の検出、皮膚バイオプシー、ミトコンドリアの生体エネルギーの検査、さらにバイオマーカーの分析などの経費を支給してくれた。「ウォール街の翼」の資金はこのプロジェクトを学問的に非常に高いレベルにすることを可能にしてくれたのだ。
コロンビアのALSセンターは30ほどの多施設の治験を治験管理センターとして管理したことがあったので、多施設の数自体に問題はなかった。しかし複雑さははるかに治験のそれを越えていた。コロンビア大学の中でも疫学学者、環境・労働衛生学者、臨床心理学者、栄養疫学学者、環境生物学者、生物化学者、統計学者が関与しており、全員が非常に大切な役割を担っていた。前頭・側頭葉の認知スクリーニング試験を開発したカリフォルニア州立サンフランシスコ大学の二人の神経心理学者にもこの研究に加わってもらった。彼らは各施設の患者検査員にスクリーニング試験をどのように行うかを教育し、そのデータの解析と解釈の責任を担った。各施設とコロンビア大学との契約書の交換、研究倫理委員会の承認に長い時間が掛かった。約9か月後全研究者・関係者を一堂に集め、2日間にわたる研究者会議を開いた。全体の研究に対する興味とやる気がなんといっても一番大切である。最後の夜はアメリカ各地から集まった研究者・研究コーディネーターたちをマンハッタン周遊の遊覧船でのディナーに招待した。楽しい晩餐会だった。後はそれぞれの施設でいかに滑らかに患者に研究に参加してもらうかだけが問題となった。その後6年間、電話会議を毎月1回欠かさずに開き、新患者の研究加入、研究の進み具合、学会への研究報告、論文の状態など全項目にわたって連絡し続けた。最初の3年間は研究のために必要な新しい患者をリクルートしてもらうことが第一目的だった。その他にも研究に参加してくれた患者および家族のために年3回ニュースレターを発行し、酸化ストレスについての説明や研究の新しいニュースを知らせるようにした。いったん参加してもらった患者・家族には長期の経過観察が必要であるため、彼らの研究に対する関心・興味を失わせないようにすることが肝心だった。もちろんコロンビア大学からの研究患者の参加数は多く、それはNIHの研究資金の応募を始めた頃から僕らは研究患者を既にリクルートしていたからだった。ほとんどの参加施設は彼らができる限りで研究患者をリクルートしてくれた。しかし時の経過とともに良くやってくれる施設とあまり良くない施設とに差がついてきた。最初の計画では2年間で420人の患者を加入させる予定だったが、それが甘い考えで欲張りすぎていたことが明らかになった。420人の数は研究の予備段階での検出力の計算から出たものだが、もう一度計算すると355人という数が出た。さらに二つの施設が問題となった。一つは研究者が大学を辞めることになり、研究が続けられなくなった施設、もう一つは通常治験の患者参加数ではトップであるのに、この研究には患者の加入がなく、やっと一人参加させたが患者の選択に間違いがあることが後で分かった施設である。多施設からなる研究ではこのようなことはいつも起こることだった。最初はやる気があってもいろいろな理由で急に変わることもある。こうした状況に関して僕らはいかんともしようがなかった。NIHの僕らの研究の科学行政官は大変協力的で、リクルート期間を1年延長し、さらに4か所の研究施設を増やすことに賛成してくれた。ついに合計3年間のリクルート期間で355人の研究患者を参加させることができた。そしてNIHの研究資金を獲得してから約6年で研究を完結した。現在までにALSコスモスの研究から6つの論文が出版された。最初はこの研究の目的・組織・方法・リクルートに関する論文、第2の論文はALSの研究では初めて行われた多施設での前頭・側頭葉認知スクリーニングテストの方法と結果に関する論文、第3は臨床心理学的調査から分かったALS診断からのストレス、欝症状、自殺の意図、意識的に死を早めようとする行動に関する論文、第4の論文は欝症状、認知障害と行動障害との相関関係を分析した論文、第5は食物摂取の調査から色素の強いカロティンを含んだ野菜やその他の抗酸化食を摂取しているALS患者は機能障害が少ないという画期的な結果を報告した論文である。第6の論文は一部の研究患者(168人)に行われた皮膚バイオプシーからミトコンドリアの異常を見出したことに関するものである。現在医学ジャーナルに提出して評価を受けつつある論文が一つある。現在までの論文はそれぞれ特殊な領域の論文であって、できればそれぞれの研究者に各自の領域の結果を論文にしてもらいたいというのが僕の狙いだった。ALSコスモスの最も中心にあたる酸化ストレスと疾患の進行度・生存との相関関係は現在も分析中で、非常に斬新的な統計処理が必要である。いまだに僕らの研究グループは毎週会合を持ってデータの分析・解釈を行っている。バイオマーカーに関するデータは全部揃ったので論文にまとめる予定であるし、これからまだいくつかの論文が発表される予定である。
PLSコスモス
ALSは筋萎縮性側索硬化症または総合的に運動細胞疾患または運動ニューロン病といい、既に書いたように、脳内の上位運動細胞と脳幹および脊髄の下位運動細胞の両方が侵され、発症から3~4年以内に患者の半数は亡くなるいう進行性の病気で、治癒はない。現在までに二つの治療剤が承認されており、疾患の進行を抑える。ALSは人口10万人に1~2人ほどの頻度で、比較的に稀な疾患である。これに対して上位運動細胞だけが侵される運動細胞疾患があり、これがPLS、または原発性側索硬化症というものである。ALS患者を100人診ると1~2人ほどはPLSの患者になる比率で、PLSは最も稀な運動細胞疾患である。ALSと比べて進行は非常に緩やかだが、運動機能障害は高度である。これらの疾患を研究して出てくる疑問は、ALSはなぜ上位と下位の運動細胞が侵され、PLSは上位だけなのかということだ。PLSの患者には下位運動細胞に対しての抵抗性があるのか、ALSの患者ではその逆であるのか、全く分からないが、どうも運動細胞疾患の原因を解く鍵の一つのような感じを受ける。まず初めに必要なことはPLSの臨床像を把握すること、さらにALSと同様な総合的な研究を行うことである。ALSコスモスのNIHの研究資金の応募準備中、同時にPLSの同様な研究を考えていた。ALSの臨床家・研究家はかなりいるが、PLSに関する論文を発表していたのはNIH神経センターのフローター先生(Dr. Mary Kay Floeter)、カナダのウェスタン大学のストロング先生(Dr. Michael Strong)、カンサス大学のバローン先生(Dr. Richard Barohn)、テキサス大学のネーション先生(Dr. Sharon Nation)、それにコロンビア大学の僕らだった。しかもどの研究も回顧的な症例のレビューかイメージングの仕事で、将来的に総合的な分析をしようともくろんだ研究は今までにはなかった。僕らは5か所の多施設研究を通して臨床的に診断の確定した50人のPLSの患者を研究することにした。この研究資金の応募はSPFという家族性痙性麻痺とPLSの両方の疾患を支持する財団に提出した。この応募は成功して、50人のPLS患者を目指して新しい患者のリクルートを行った。想像したよりもPLSは稀だった。50人に達するのに3~4年掛かったが、研究を終えることができた。初めの35人の遺伝子解析の結果、PLSと診断した中にALS、パーキンソン病、家族性痙性麻痺の家族性遺伝子が数人混入していることが分かった。これは大切な所見で、既にこの研究を論文に発表した。さらに皮膚のバイオプシーのミトコンドリア検索もこの研究の一部で、PLSのミトコンドリア異常はALSよりも著明であることを既に論文として発表した。これからPLSは臨床所見、環境因子、バイオマーカーなどにおいてALSとどこが異なるのか、統計学的な分析を始めるところだ。このPLSコスモスプロジェクトは次のPLSの研究資金に応募する上で非常に大切な基礎データとなっている。
ARREST・ALS
ARREST・ALSは英語の「ATSDR・CDCによるALS環境リスク因子の疫学的研究(ATSDR Risk Factors Epidemiologic Studies in ALS)」の頭字語である。2013年に有害物質疾病登録局(ATSDR)より国立ALSレジストリーを使って新しい研究を立ち上げることに興味のあるものは応募するようにとの声が掛かった。ALSコスモスは最終的には16か所の施設によって研究患者を加入させる研究組織だが、国立ALSレジストリーはアメリカ中のどこからでもALS患者は自分のALSを登録することができる。僕らの究極的な目的はALSの環境疫学的調査からALSの原因を見つけ出すことであり、強力なデータを出すためにはできるだけ多くの症例数がいる。僕らにはこれは願ってもないチャンスと思われて応募した。ALSコスモス患者のインタビューはALSコスモスでもほとんどすべて電話で行われていたので、患者のALS診断の判定、研究に参加するための手続き、病気の進行などを、すべて電話あるいはFAXまたはインターネットで比較的簡単に行うことができる。ALSコスモスの経験から電話による方法には自信があった。問題になったのは認知機能検査である。それまでの認知機能検査はマンツーマンで行ったのだが、この研究では電話でも同じように認知機能検査ができることを確証することを目的の一つとした。第2に国立ALSレジストリーに登録した患者にコロンビア大学に電話をかけてくれるように呼びかけ、電話をしてくれた患者には電話で計画したすべての疫学的研究を行う。第3の目的は唾液中DNA採集キットと尿サンプルを低温郵送してもらうことだった。幸いなことに研究資金が許可された。まず電話による前頭・側頭葉の認知機能検査法を確立しなければならない。検査員がALS患者に面接して認知機能検査を行い、数日以内に電話で同じ検査を行う。インタビューの順番は無作為にした。この研究に参加した30人の患者は二つの検査を受けるわけである。この研究を終えるのに9か月掛かった。結果として面接で行った認知検査と電話で行った認知検査は同等であることを証明することができた。次はいよいよ患者からの電話を待つことである。このプロジェクトの名前は人の気を引くようなARREST・ALS(ストップALS)とした。コロンビア大学の僕らのセンターの電話番号も覚えやすい番号「1・866・STOP・ALS」とした。ATSDRの事務局は新しくALSレジストリーに参加した患者に3か月ごとに電子メールでARREST・ALSを紹介し、コロンビア大学のALSセンターの電話番号を与え、彼らに参加を呼びかける。この呼びかけに呼応して患者から電話がある。診断さらに患者加入の条件に合っていれば、患者に参加してもらう。この点でインフォームドコンセントにサインをしてもらい、いよいよインタビューが始まる。しかしながらすべてが電話でのやり取りのため、一つのステップでも時間が掛かる。現在までのところやっと85人の患者が加入した。毎月電話会議でATSDRの責任者メータ先生(Dr. Paul Mehta)および彼のチームとプロジェクトの進行具合やさまざまな問題点について相談をしている。このプロジェクトは全面的に患者の興味、善意とやる気に頼っている点が難しい。参加者数は小さいが、それでも初めに計画したように患者の居住地はアメリカを広くカバーしている。このプロジェクトが将来のALS疫学研究のための新しいステップとなることを期待している。
ARRESTコントロール(対象群)
いままでの僕らの疫学的研究はALS・COSMOSもARREST・ALSもALS患者のグループ内(Cohort studyと呼ばれる)で疾患の進行度・重症度と環境・食物・心理ストレスなどから来る酸化ストレスとの相関関係を検索することを目的としていたので、対象群は必要なかった(最初の研究資金の応募で対象群を削られたのだ!)。しかし対象群があればALS疾患の酸化ストレスの特異性がつかめる。つまりALSの原因そのものについても酸化ストレスの関与を研究することができる。2、3年前に疫病対策センター(CDC)から追加研究資金があるので、ALSレジストリーに関連したプロジェクトがあれば応募してもよいとの誘いがあった。研究資金を獲得して研究をしている者たちは研究資金応募要請があれば蟻が砂糖に群がるように応募する。今度はARREST・ALSに参加した患者の性別、年令(±5才)、人種、教育レベル、さらに居住地区にマッチした患者の対象群を検索しようという計画を立てた。調査はARREST・ALSの疫学的調査と全く同様に行う。尿サンプルもARREST・ALSと同様に検索する予定である。対象群の数は患者数の倍とした。電話番号を基に僕らが必要としている対象群を探し出す専門会社にその仕事を依託するのだが、この会社とコロンビア大学との間で患者のデータの秘密保持に関して同意を得られず、数か月がたち、最後の同意書に署名した時にはほぼ1年が過ぎていた。研究の複雑さが増せばそれだけ他の研究者や専門の会社との協同研究が増え、法的・ビジネス上の同意書をまとめることにとんでもない時間が掛かり、それもリサーチの一部とは言え、研究資金には期限がついているので、実に焦燥させられた。しかしこのプロジェクトは大変興味深いデータを出すものと期待している。
4 新しい国際カンファランス
2003年、ルー・ゲーリック生誕100年記念国際シンポジウム
1999年にコロンビア大学に移って以来、ALSコミュニティ、すなわち患者、家族、ALS医師・研究者、患者支援団体、研究資金支持団体などのためになることをしたいと思っていた。2003年はルー・ゲーリックの生誕100年に当たる。もちろん何か記念になることをしたいと思った。当時ALSの領域ではALSの治験が一番重大な問題だったので、ALSの治験に関するシンポジウムを開くことに決めた。ただ資金を集めて開催したのではあまり意味がない。NIHからの(資金を含めた)承認と支持を受ける必要があった。それによってシンポジウムの格が上がる。ただNIHの支持を受けるのには少なくとも一年は掛かる。ルー・ゲーリックの誕生日は6月だったので2002年の春には準備を始めた。場所は既に神経栄養因子の会議で使用された、僕の家から近い瀟洒なカンファランス・センターのタリータウン・ハウスを使うことにした。NIHの医学会議の資金の応募には曖昧なことは許されない。会議のための顧問委員の履歴、プログラムの内容とその理由、スピーカー選択の理由、参加者の名前と選択の理由、興味のある誰でもが参加できるようなニュース・情報を流す方法、さらに応募している会議が本当に必要であるのか、十分な検討を加えなければならない。NIHの普通のピアレビューの評価過程を通過しなければ資金が下りないので、この応募にはかなりの準備が必要だった。NIHに承認されれば医学会議の質と内容は言わずとも高くなるし、高いと認識される。シンポジウムに招待された人々も会議の質を高く評価できる。また資金を出す人々も喜んで出してくれる。少なくともそう考えてシンポジウムを計画した。NIHの資金応募の準備をしながら、一方MDAのリサーチ部門の部長に電話をし、ルー・ゲーリック生誕100年記念ALSシンポジウムを開くための資金支持として「ウォール街の翼」の資金の一部を使う許可をもらうことにした。従ってそのためにMDAは別の資金を出す必要はないわけである。これは簡単に承認を受けたが、ただし「もう一つの協会」からの寄付を受けないようにとの条件付きだった。MDAの支持とNIHの資金応募を基にさまざまの支援団体や製薬会社からの寄付を募ることができた。非常に残念だったのはALS協会がこのシンポジウムへの寄付を申し出てくれたのだが、MDAとの約束でALS協会からの寄付を受け入れることができなかったことだ。しかし、このシンポジウムへの参加はもちろん問題はない。このシンポジウムにはALSの治験を行う関係者、NIHやFDA(食品医薬品局)をはじめとして研究者、研究資金供給機関、患者支援団体などの関係者が集まった。治験を行う上で問題になるデザイン、臨床の結果(outcome)、統計、その他全項目に関して発表と討論を行った。またALSよりも治験の進んでいる領域(脳腫瘍、認知症、パーキンソン病)の専門家にALSのための助言を受けた。シンポジウムの最初の夜は多施設によるデザインをどうすべきかを議論した。2日目の夜は晩餐会で、コロンビア大学のルー・ゲーリック研究家がゲーリックの知られざる逸話を披露した。このシンポジウムの内容はALSジャーナルの別冊に掲載された。ALS共同体のメンバーが一つだけの議題を2日半にわたって話し合うことができたことは有意義だったし、参加者も喜んでくれた。
ALS患者に対する臨床研究をもっと活性化するための国際会議(2011年)
ALSの研究に対して僕が持つ個人的な偏見は、ALSの原因究明のための動物実験や細胞実験に比重を置き過ぎているのではないかということだ。僕もさんざん動物実験をやったので動物実験の大切さはよく分かっているし、その問題点も知っている。まず第一にマウスと人間とでは動物の種が違うこと、次にALSマウスといわれているマウスの病気は人間のALSとはかなり違うということだ。したがって今までの動物実験のデータから人間の病気の原因究明はできないだろうということをはっきりと理解する必要がある。動物実験は研究のデザインをコントロールしやすく、きれいな研究結果を出しやすい。だから研究資金を獲得するのも患者を対象にした研究よりもはるかに易しい。しかしALSの原因を究明するのには人間のALSを研究せずにして本当の答えは出ないだろう。しかも問題は人間のALSを研究することはことのほか難しいということで、そのために動物や細胞実験に向かわざるを得ないということになる。何とか現存の第一級の基礎研究者がALS患者を研究するように仕向けることはできないかものか? また治験に掛かる高額な費用とその多大な努力をなぜもっとALSの原因究明にかけることができないのか? ALSの原因究明なしにALSの完治はないと僕は考えるのだが。長年にわたって抱いていたそうした思いを公に議論できないものか? 僕らのALSコミュニティにそれを訴えたいという思いで、次の国際会議を開くことにした。
以前行ったタリータウン・ハウスでのシンポジウムと同じように、NIHの医学会議のための資金を調達することが会議の質を上げるために必須だった。もう一つ、初めから留意したことはMDAとALS協会に同等に会議資金を出してもらうことで、これは以前のシンポジウムでMDAにALS協会からの寄付を許してもらえなかったという経緯があったからだ。次に大きな違いは講演者は最長で3分、追加討論は1分と限定して、全体の討論の時間を最大限に延ばしたことである。従来の会議の講演は教育講義のようで背景の説明に多くの時間を使う。この会議は専門家の集まりなのでこうした余計な背景を全部取り除いて、自分の言わなければならないことを3分で説明してもらうことにした。ただしALSにとって全く新しい分野の講演には10分ほどの時間を許した。抜本的に発表・討議形式を変えたので、講演の項目に関しての文献はすべて僕が準備した。米国、カナダ、ヨーロッパを中心に150人以上の臨床医と基礎研究者を招待した。発表者の講演時間を極端に短縮し、討論時間を長くした会議形態は非常にユニークだったようで、「ニューロロジー・トゥデイ(Neurology Today)」というアメリカ神経学会の月刊ニュースにも取り上げられた。この会議の内容はALSの専門医学雑誌の別冊として発行された。果たしてこのような会議がALSの原因解明のための研究に何か少しでも影響を与えたかどうか、僕には分からない。ただこの会議の目的をNIHをはじめとしてALS共同体全体が支持してくれたので、多くの関係者が僕と同じような考えを持っているのだと思う。シャルコーがALSを発見してから130年以上もたっているのにもかかわらず、いまだにほとんどのALSの病因が不明という現実に研究者全員が焦燥感を感じているのかもしれない。物事を変えていくのには努力の他に時間が必要だ。少なくとも僕はそう考えて将来を期待している。
ALS治験ガイドラインのためのワークショップ
僕は自分で国際会議を開くのはもう十分だと思っていた。ところが2014年にまたしてもALSの国際会議を開催することになった。僕が計画し、NIHからの医学会議費用も含めて会議の全費用を僕個人で調達して、国際的な専門家を含めた150人ほどを招待したワークショップを開いたのだ。事のいきさつは、2014年に「ランセット・ニューロロジー(Lancet Neurology)」という臨床神経学のトップの医学雑誌から、ALSの治験に関してのレビュー論文を1~2人の専門家を加えて書いてほしいという要請があった。ALSに関して非常に知識の深いノースカロライナのブルックス先生と、ヨーロッパのALS治験グループの議長をしていた僕と仲の良いミラノのシラーニ先生(Dr. Vincenzo Silani)と一緒にレビューを書くことにした。まず最初の草稿を僕が書いた。このレビューの第一の目的はリルゾール以外のあらゆる治験が不成功に終わった理由を検討し、将来への示唆を与えるということなのだが、示唆の一つにブルックス先生は1999年のALS治験ガイドラインを更新する必要があるという項目を入れなければならないと主張した。その示唆を書きながら何となく、ガイドラインを更新するには国際会議が必要だ、自分がやることになるのではないかという嫌な予感がした。その後ALS研究者グループ(ALSRG)の総合会議でブルックス先生は1999年の治験ガイドラインを更新する必要性を強調し、メンバーの賛同を得た。1999年治験ガイドラインは僕の上司だったタフツ大学のムンサート先生が音頭を取って国際会議を開き、それに基づいてガイドラインが作られた。治験のガイドラインとは治験を行う場合、どのように治験を行うのか、どのようなことを守る必要があるのか、治験の各項目に関して推奨するのが治験のガイドラインである。ALS研究者グループの賛同があったとして、いったい今度は誰が音頭を取るのか? 僕はこうした会議を行うノウハウを知り尽くしているので、結局僕がやらざるを得ない立場に立たされた。それが2014年の10月だった。やるとなったらすぐにやる、それが僕の行動形式だ。1999年のガイドラインはバージニアのアーリーハウスで行われた。それで今回のワークショップもその継続という意味でそこで行うことにした。ただし今回の会議は以前のシンポジウムなどと異なり、自分の考えで物事を進めるわけにはいかない。あらゆることを公表して、しかも公平に物事を進める必要がある。前述のブルックス先生とサンフランシスコ、カリフォルニア・パシフィック病院のミラー先生(Dr. Robert Miller)にはこのワークショップの中心的役割を担ってもらうことにした。僕は一人の運営委員、促進家としてワークショップがスムーズに開かれることだけに注意を払った。直ちに運営委員会と顧問委員会のメンバーを決め、1999年のガイドラインにそってワークショップで検討する項目を選んでもらった。12月のブリュッセルで開かれた国際ALSシンポジウムの場を利用して運営委員会と顧問委員会のメンバーに集まってもらい、最終案を作り上げた。これを骨格として2015年2月にNIHの医学会議の資金に応募した。米国のALS支援団体、さらにカナダ、英国、日本のALS協会に寄付を要請したが、NIHの会議資金を取得したら寄付をするという条件を僕の方からつけ足した。ALSの治験を行っているいくつかの製薬会社にも寄付を要請した。4月の米国神経学アカデミーの学会に合わせて、さらにワークショップの内容を検討した。この会議にはガイドラインの専門家であるカンサス大学のグロンセス先生(Dr. Gary Gronseth)に出席してもらい、僕らのガイドラインの作成を手伝ってもらうことをお願いした。僕は最初エビデンスに基づいたガイドラインを作る計画を立てていたのだが、ALSの治験の方法に関してはエビデンスがほとんどないので他の方法を取らなければならない。そこでグロンセス先生は古代ギリシャで行われたデルフィ方式を取ることを勧めた。これはコンセンサス(総意)を見つけるための方法で、小さなグループ(20人以下)が3回にわたって無名投票を行い、コンセンサスを見つける方法である。このため出席者を約150名と推定して、ガイドラインの主要項目を8グループに分け、グループのリーダーを選んだ。リーダーは運営委員会と顧問委員会から選んだが、その外からも選んだ。これと同時にワークショップの出席者を運営委員会と顧問委員会に推奨してもらった。ALSの治験を自分で計画・組織したことのある研究者には必ずこのワークショップに出席してくれるよう請願した。実際の仕事は各グループのリーダーに2016年の3月までに最初の草稿を作ってもらうことだった。草稿には一つの推奨についてそのための背景と理論的根拠を提出することを要請した。9月になってNIHから会議資金が出ることが分かったので、各国のALS協会やMDAに正式に寄付を懇願した。2015年12月のオーランドの国際ALSシンポジウムの会議でこのガイドラインの最終的打ち合わせが行われ、各グループもそれぞれに会議を開いて草稿について相談した。このようにして翌年3月のアーリーハウスでのALS治験ガイドラインの準備が整った。この準備は以前僕が開いた国際会議よりはるかに複雑で時間が掛かった。2017年12月、ワークショップからほぼ2年が経過しようとしているが、コンセンサスに達した推奨は112あり、主要論文として発表するためには最も大切な推奨を選ぶため無名投票でその選択が行われた。あとは執筆委員会が論文を書くだけになった。ガイドラインの作成とはまことに時間の掛かる仕事である。
5 神経科内での生存競争
僕は米国に来て自分が病院内の勢力争いで苦労したことはなかった。それは僕の主任教授がいずれも人格者で、しかも僕をサポートしてくれたからだと思う。僕がコロンビア大学への移動を考えている時、クリーブランド・クリニックの同僚にハーバードではライバルの背中を刺すが、コロンビアでは真っ向から胸を刺してくるんだぜと警告された。コロンビア大学の場合には招聘されたとはいえ、自分から全然知らない大学病院の大きな神経科へ飛び込んでいったも同然だった。しかしぺドリー先生は何やかやと僕をサポートをしてくれた。当初は彼とは週に一回会って、いろいろなことを相談して方針を決めていた。彼はクリスマス時には部長にはコロンビアの名前のついた名刺入れとかノートブックなどの小さなギフトをくれ、「君の仕事に大変感謝をしている」というような手書きのカードをくれた。こうしたちょっとした行為や言葉は僕の励みとなった。コロンビアに移って2~3年たった頃、僕のボストン時代の恩師で当時マイアミ大学の主任教授だったブラッドリー先生と電話で話した時、彼は「コロンビアの勢力争いにはまだ巻き込まれていないの?」と聞いた。その頃の僕にはピンとこなかった。ところが数年たって、その意味がひしひしと身に染みてきた。まさに僕を前から刺す人間たちが現れてきたのだ。
コロンビア大学はクリーブランド・クリニックと比較するとずっと保守的だ。東海岸にあるアイビーリーグの大学は教授陣も学生もリベラル、すなわち革新的で自由主義と思われているが、その構造と機構はかなり保守的だ。リベラルな外観とは別に、よそ者には入れない内部サークルのようなものがあるような気がする。それは僕の被害妄想か、あるいは自意識過剰によるものかもしれないが。コロンビアの神経科教室で各部門の部長を務めているのはコロンビアでレジデントをして育てられ、以来20年も30年もコロンビアにいるという、いわば子飼いの医師がほとんどだ。外から来た者はいるが、レジデントはここでしている。僕と前後して僕を含めて5人の全く部外者の神経科医が新しい部長として着任した。さしずめ神経科に育てられた医師は親藩か譜代、僕ら新参者は外様だなと僕は思った。このうち僕以外の筋電図、小児神経科、神経腫瘍科と多発性硬化症のそれぞれの部長は数年以内に辞めていった。僕の場合は名前のついた教授職をもらったこと、NIHの研究資金が早急に取れたこと、さらに「ウォール街の翼」のような大きな研究資金をもらったことなどで幸運だったのだろう。コロンビアで生き残っていくことは非常に難しいのかもしれない。
赤字神経科の立て直し
コロンビアの神経科教室は慢性の赤字だった。10年ほど前に新しい学部長が赴任してきてから、赤字教室は赤字を解消するように学部長命令が出された。その煽りを受けて神経科の各部門の部長は、僕も含めて皆年俸を10%減らされた。そうした努力にもかかわらず赤字は消えなかった。他の科は赤字が消却されたと聞いた。学部長は神経科の主任を新しい主任に変えることに決めた。ぺドリー先生は僕をリクルートしてくれた人で、まことにに紳士であり、病院内でも対外的にも非常に慕われていた。しかし彼は患者と学問が第一で、経済的な問題は二の次という伝統的な考えを持っていたようだ。それは僕の恩師であるフォーリー先生もローランド先生も変わりがない。彼らは「古き良き時代」の主任で、以前は医者の決定は尊敬され、医療費が比較的安く、神経科のような知識と経験による医療が尊敬され、正しい支払いがなされていた。しかし、この二十年間に医療費と医療保険費はうなぎのぼりに上昇を続け、手術・技術を使う医師への支払いは保護される一方、知識と経験による医療、すなわち神経科などの医者への支払いは急速に減少した。患者を診れば診るだけ損をするかもしれないという可能性が出てきたのだ。医療制度の抜本的な改革をしなければ赤字を消すことなどはできないのだ。
コロンビア大学のような大きな研究大学はどこでも新しい主任教授の選択には特別コミッティーを作って、そのコミッティーに選択を委ねるのが通常だが、赤字をこれ以上引きずることはできないという学部長の裁断で、神経科内の部長たちの意見も一応聞くことには聞いたが、学部長が独断で決定することになり、新しい主任をM先生に決めた。彼は前の主任教授選の際にぺドリー先生と争った人だった。僕もいろいろな神経科の主任を見てきたが、主任を何年か続けていると時と共にさまざまな問題が持ち上がり、ついには新しい主任と交代になるのだが、それはなかなか難しい過程だ。大学病院では主任教授の任期の期限がない。見ていると主任の任期中には上昇期と下降期があるようだ。メイヨー・クリニックでは主任の任期は10年と決めている。これは適切な配慮と思う。新しく主任に指名されたM先生は認知症の専門家として有名で、彼の認知症センターは神経科から独立しており、破竹の勢いで進歩しつつあった。教室員全員を集めて最初に就任の挨拶をした彼は、赤字を消すために「神経科のスペースは全部僕のものだ。どのようにスペースを使うかは僕が決める。民主主義なんぞここにはない!」と断言した。
効果が目に見える変革
それまで認知症センターは独立採算制だったが、それが神経科と一緒になって多少の人員の整理がなされた。どの部門も大きなスペースを持って独立して患者を診ていたが、外来を共有するように変わった。例えば神経変性疾患(運動障害病、ALS、認知症など)は一か所で患者を診ることになった。ALSセンターも以前は神経学研究所ビルの9階のほぼ半分を与えられていたが、僕らのオフィスを残して、患者を他の部門と共に階下の同じ場所で診ることになった。その一番大きな理由は僕らの使うオフィスも患者の検査室もすべて時間割で使用料を病院・医学部・教室に払わなければならないからだ。僕の場合、スペースが小さくなり、出費が減るので助かった。患者の予約もそれまでは各部門それぞれで受け付けていたが、新たに予約センターで総括して受け付けるようになった。それまでは病院でのコンサルトをしても、当番の医師はサインをして患者の支払いの伝票を出すことになってはいたのだが、忘れることが多かった。それも改革した。ありとあらゆる方法でもっと大勢の患者を診るように改革された。しかも診察すれば必ず保険に請求書を出すことを徹底した。3年間にすべてが激変し、4年以内に1千万ドルの赤字を解消することができたのだ。僕らのいる9階の半分のスペースには新しい神経腫瘍学のグループが入り、このグループは目覚ましい活躍をしつつある。しかし急速な変化には必ず問題も付随し、かなりの不満もあったようで、3~4人の医師が他の病院へ移っていった。
ALS部門の改革と指導者の交代
ずいぶん前にALSセンターの赤字が続き、それがひどく気になったので主任のぺドリー先生にどうしたらいいか相談したことがある。彼は「君はコロンビアにはまだ長くいるとは言えないね!」と言った。しかし、こうした慢性赤字状態はクリーブランド・クリニックでは経験したことがなかったので、毎年僕の大きな不安の種だった。僕はフェローを雇う資金がないので、2014年以降フェローを中止することにした。それまでは資金がなくとも必要経費としてフェローを雇っていた。コロンビアで仕事をしていくのには、出費のほとんどすべてを研究資金で賄わなければやっていけないというのが実情だ。ともかくそのような事情でNIHなどの研究資金のない助教授を雇うことはできなかった。このように神経科の慢性的赤字経済はALSセンターにも強い影響を与えていた。M先生が主任になってから、患者の診察室は半日で部屋代として300ドルを神経科に払わなければならないことになった。ALSクリニックは何人かの専門家が患者を入れ替わり診るので、以前は1部屋で半日一人の患者を診ていた。これでは全く採算が合わない。少なくとも一人の患者を2時間内にALSチームの全員が診なければならない。赤字を回避するためには半日4時間のうちに1部屋当たり患者二人を診るようにしなければならなかった。このように経済的効率は2倍に上がったが、僕らのストレスレベルも同様に上がった。こうした努力の甲斐あって赤字の率は減った。もう一つ赤字を減らすために行ったことは、ALSセンターの患者支援団体からの金銭的な支持を増やすことだった。僕らのALSセンターはもう何十年間もMDAだけに支持を頼っていたが、MDAの資金繰りも苦しくなり、もうそれだけではやって行かれなくなった。コロンビア以外のアメリカの大きなALSセンターはALS協会からも同時に支持を得るような動きが出てきた。以前ならばMDAはそのようなことは絶対に許すことはなかった。MDAの鉄拳も弱体化したのだ。僕は以前からニューヨークALS協会の会長をよく知っていたので、ALS協会の支持も受けることができるようにした。しかし、それでも僕一人の名前でMDAとALS協会との両方の支持を受けることは得策ではないと思ったので、若手のS医師をALS協会のALSクリニック長に薦めた。残念ながら、ALS協会は会計をMDAと独立にすることを要求したので、僕らのALSセンター全体の赤字を削減することはできなかった。
以前から僕はM主任に僕一人ではALSの仕事はできない、ALSの臨床と研究に若い神経科医が必要だと話していた。彼は2015年にALSセンターの問題に取り組み始めた。彼はS医師をコロンビアALSセンターの部長に据えた。僕は既に70才を越えていたので部長の座を降りることには不満はなかった。僕の後を継いだS医師は、僕がコロンビアに移って間もない頃、ローランド先生からコロンビアの医学部の卒業でハーバードで神経科のレジデントを終え、当時基礎研究をしていたSという若い医師がALSに興味を持ち、週に一回患者を診たいと言っているので「君と一緒に患者を見せてやってほしい」と頼まれた。僕のフェローという形で彼は患者を診察し始め、その後ALSクリニックにも来るようになった。ある時待合室に学部長とS医師と僕も良く知っている患者のご主人が何か相談をしているのを通り過がりに見た。それが僕の知らない間に進んだ500万ドルの寄付の話だった。新しく設立する計画のALSと子供の脊髄筋萎縮症の原因を研究するセンターへの寄付の話だった。僕としては僕のセンターで僕の監督の下に患者を見せてもらっていた医者がその患者との寄付の話があった時には、僕にも話すのが当然の道理だと思ったが、道理などというものはなかったのだ。ALSセンターは慢性の赤字で寄付は必要だが、赤字を埋める為に寄付をする人はいない。S医師は「自力」で基礎医学のために500万ドルの寄付金を獲得したこと、その上基礎医学者の中にノーベル受賞者などの強力な友達を持っていること、しかもコロンビアでの政治的駆け引きをどのように使うかをよく知っているようで、彼はM主任の絶大なる信任を受けている。同時にALSセンターもM先生の強力なてこ入れで大きな改善がなされた。事実上それまでほとんど僕一人でALSセンターをやりくりしてきたが、S医師がALSセンターの部長になると、時間の多くを基礎研究に費やしている彼には彼を助けるALSの臨床家が必要になった。そのために二人の若いALSの専門家を雇った。一人はワシントン大学から来た遺伝子学とALSの専門家、もう一人は以前僕のALSフェローだった医師で、彼らは良い人間で、しかも臨床能力は非常に優れている。これは素晴らしい進歩だった。僕はALSクリニックのすべての責任を彼らに渡すことができ、ほっとした。現在僕はALSの新患だけを診察することにしている。まだまだ僕に診てもらいたいという患者が遠方からも来るのだ。ありがたいことだと思う。
ローランド先生
僕はコロンビアALSセンター部長だったローランド先生の後釜になったのだが、前述したように彼は臨床神経学の領域であらゆるトップポジションに就いてきた先生で、神経科医ならばアメリカで知らない人はいない。そのような偉大な先生の跡継ぎになるということはたとえALSセンターの部長だけだとしても、正直言って少しは不安だった。しかしクリーブランド・クリニックにいる時から彼を知っていたこと、僕はALSでは既に少しは知られていたことなどで、ローランド先生の後でも僕は僕なりにやって行けるだろうと思っていた。コロンビアにインタビューに来た時に、朝わざわざホテルまで僕を迎えに来てくれたが、その時に「先生の大きな靴(立派ということ)に合うかどうか心配です」というと、「でもねー、とてもくたびれた靴だよ」と冗談を言った。僕が赴任して来てから、彼は彼に名指しで見てほしいという患者を診る以外、何一つ僕に口出しをしなかった。自分が見た患者は皆僕のALSクリニックに送ってくれた。人に僕を紹介する時にも「これは僕のボスのドクター・ミツモト」と紹介してくれた。神経学教室の主任教授の仕事をぺドリー先生に、さらにALSセンターを僕に引き渡した後で、何をしようかとかなり手持ち無沙汰のようだったが、自分は決して引退しない、オフィスの机の前で死ぬのだと言っていた。そこでレジデントと学生の教育に力を入れた。彼の回診は人気があった。事実ローランド先生は誰にでも好かれていた。その後ずっと頑張っていたが、最後の1~2年はさすがに九十歳を越えて体の動きも考えも少し衰えたようだった。今年の春突然小脳出血を起こし、しかも自分でそれを診断してすぐに緩和療法を選択し、静かに亡くなった。彼の一生はまさに神経科医の鏡だった。ローランド先生を偲ぶ会で、ある有名な神経科医が自分の初めての論文が「ニューロロジー」に発表されることになってとても嬉しかった、だが論文は編集長ローランド先生の赤ペンで真っ赤になっており、ローランド先生が書いた論文が発表されたようだったと冗談を言った。僕にも記憶があるが、彼の赤ペンは有名だった。しかし彼の偉大さは臨床神経学だけでなく、彼の生き方にあった。彼はユダヤ人だが、彼の父親は名前をローランドというユダヤ人らしくない名前に変え、アメリカで生活しやすいようにしたと聞いた。当時はまだまだユダヤ人への偏見が強かったのだ。彼は医者になってからNIHの初めてのフェローになったが、ものの考え方が革新的だった。アメリカの医療保険制度改善を要求するデモに出ていて、キリスト教徒の奥さんと知り合って結婚した。当時は赤狩りのマッカーシー旋風の真っただ中で、彼は米国議会の委員会に喚問された。彼は自分の主張を曲げなかったので危険人物と見なされ、NIHを首になった。当時彼ら夫婦には既に子供がいたのだが、その後一年半医師として雇ってくれる病院がなく、無職で過ごさなければならなかった。そのように彼は自由主義者として筋金入りの人生を送った。身の回りの誰にでも分け隔てなく親切だったそうだ。僕らにとって彼の死はアメリカの臨床神経学の大きな一章に終止符を打っただけでなく、一人の立派な惜しい人物を失ったと思う。僕もローランド先生に見習って僕の後任には一切口出しをせず、僕のやらなければないことに全力を尽くすようにしている。
6 これから
コロンビア大学に来て20年近くがたとうとしている。この期間は僕の人生で最も長期間にわたって一か所で仕事と生活をしたことになる。ALSの原因を解明することができなかったことは残念だが、僕なりに学問的に数多くの仕事ができたし、国内的にも国際的にも活躍できたと思う。特に嬉しいことは次男がコロンビア大学医学部を卒業して医者になったことだ。これは二重の喜びだった。一つは言うまでもなく息子が僕と同じ医療を一生の仕事に選んだこと。もう一つは、息子だけでなく、嫁は歯学部でレジデントをしているので、これで僕も外様ながらコロンビア・ファミリーサークルに一歩足を踏み込んだ気がすることだ。息子は大学では医学部志望だったが、途中で学生相手に音楽のコンサートを興行する商売を始め、卒業してもその仕事をしていた。僕たち親は本人に任せることにしていたのだが、その事業のパートナーと喧嘩別れをしたと聞いて、どうしたものかと気を揉んでいた。ある日長男が用事があって電話をしてきて「ところで淳はどうしてる?」と聞くので妻が事情を話すと「お母さん、ダメだよ、放っておいたら。平和部隊でも何でもいいから、すぐどこかよそへやったら」と忠告をしてくれたのだ。賢の弟思いは昔からだった。僕たちはすぐその週末にフィラデルフィアに行って次男に会った。彼は自分でもいろいろ考えていたようで、ワシントンのコミュニティ改善の非営利団体でインターンをしようと思うと言うので、僕たちも賛成してワシントンに送り出した。これを機会に公衆衛生に興味を持ち、その後コロンビア大学の公衆衛生の修士課程に入学した。ところが公衆衛生の学会に行くと学会で主導権を握っているのはほとんどが医者なので、自分も医者にならなければダメだと思うようになったようだ。しかし公衆衛生修士の学生が医学部に入る例はほとんどなく、彼の学生アドバイザーにはその計画は諦めたほうがいいと言われたそうだ。だが彼は修士課程の2年間、その勉強のほかにも分子生物のリサーチも行い、タイにもフィールド・リサーチに行き、そのうえ医学部の入学に必要な生化学と物理の学科を取り直した。僕たちは彼の猛勉強に驚かされた。この息子は小中高校と大学を通して、このくらいの勉強量でこのくらいの成績でいいだろうという態度を貫き通していたのだ。この時ほど彼が必死に勉強したことはなかった。公衆衛生学部の教授たちにも認められ、素晴らしい推薦状をもらった。医学部入学適性試験もトップクラスで、コロンビア大学の医学部に入学できた。「ホワイトコート・セレモニー」という入学生に教授陣が白衣を着せる入学式があって、僕を含めて3人ほどの教授が我が子に白衣を着せた。この医学部での4年間を彼はこれほど多くの優秀な人々に囲まれることは人生で二度とないだろうと言っている。在学中クラスのウェブ・マスターを務め、トライアスロン・クラブを立ち上げた。息子はALSのような特別に狭い領域を専門とした父親とは正反対に、領域のない家庭医という専門を選んだ。アメリカの医療制度を改善し、百万単位の住民の健康を推進したいという大きな目的で仕事をしている。
僕といえば、まだ書かなければならない論文が三つほどあるし、終わらせなければならない研究資金がある。その上、また新しい研究資金を獲得したので、その仕事はどうしてもやらなければならない。そのプロジェクトは原発性側索硬化症(PLS)という運動細胞変性疾患の治験を始めるために新しい臨床評価法を開発することである。極めて稀な疾患であるためにPLSの治療に対する関心は薄い。ALSの治験はよく行われるが、それらの治験にPLSが加えられたことはない。PLSの治療開発はALSの病態を解明するための一つの鍵だと僕は強く信じている。したがってこの疾患を何とかしようというのが現在の僕の目的である。PLSは疾患の進行がはるかに遅いので、ALSのために使われている臨床評価法を使うと、機能障害の変化が少なく、長い期間病気を観察しないとはっきりとした変化をつかむことができない。そのためにPLSに特異的なスケールを完成する必要がある。僕らはこの新しいスケールをPLSFRSと呼んでいる。このスケールの信頼性と有効性を証明できれば次のステップ、すなわちPLSの治験準備ためのNIHの研究資金調達の応募ができる。僕のような歳の者には気の長い話だ。時々そんな時間が自分にまだあるだろうかと思うこともあるが、やる気はあるのだ。適時に退職して残りの年月をのほほんと気軽に暮らすか、このまま研究を続けて精神的に焦りながら暮らしていくか、自分では決心できない。頭と体が働く間はまだやってみようというのが本心かもしれない。研究資金が獲得できなくなったとか、身体に支障をきたして現在の活動ができなくなったとか、致し方のない外因子または大きな意味での「他力」がこの先を決めるものと思っている。