第7章 クリーブランド・クリニックの神経科スタッフ
(1983年~1999年)
1 クリーブランド・クリニック神経科
多数の外来患者
ケース大学にいた時は朝自分のオフィスに着き、デスクに座ってコーヒーを飲みながらさて今日は何をしようかと考えるような余裕があった。クリニックでは朝オフィスに入って十分に休む暇もなく、「ドクター・ミツモト、最初の患者さんが待っています」と言われる。こうして午前と午後に新患を3人ずつ、その間に1~3人ほどの再来患者を診る。この外来スタイルは既にクリニックの准スタッフの時から経験済みだった。自分の専門は末梢神経と筋疾患であったが、ALSも含めて急速にさまざまな患者を診るようになった。末梢神経・筋疾患、さらにALSの専門家になれる下地ができたのだ。ダーロフ先生には誠に申し訳のないことをしたが、やはりここにきて良かったとコノミー先生に心から感謝した。何よりも僕は筋電図をやる必要がなくなった。これは非常に嬉しいことだった。ウィルボーン先生(Dr. Asa Wilbourn)はメイヨー・クリニックで筋電図のフェローを終えた神経科医で、何が悪かったのか、神経科の口頭試験に落ち、その後再試験を拒んで筋電図のみの専門家となり、彼の右に出る者はアメリカ広しとはいえ誰もいなかった。僕もケース大学のレジデントの時、3か月間彼について筋電図を学んだことがある。末梢神経・筋疾患の診断には筋電図と筋・神経の生検が必須であるが、ウィルボーン先生が筋電図をやってくれることで僕の診断能力も格段と上がったと思う。もう一つ僕にとって良かったことはウィルボーン先生は患者を自分では診ないということだった。つまり難しい興味のある患者は皆僕に送ってくれたのだ。僕は筋電図嫌いときているので、僕たちの利害は完全に一致したのである。彼とは数多くの症例報告を行った。神経病理の方も世界的によく知られたチュウ先生(Dr. Samuel Chou)が新たに主任となり、筋・神経の生検診断にも問題はなくなっていた。
2 ALSとはどんな病気か?
クリーブランド・クリニックに移って、いよいよALSに力を入れるようになった。のめり込むように患者や研究の中心をすべてALSに置いた。ではALSとはどんな病気なのか? まずALSは稀な病気である。平均人口10万に対して1~2人がかかる。男女の比率は男が3に対して女は2で、こうした頻度と性別は世界中ほとんど同じだ。更年期以前の女性の頻度は低いが、それ以降の女性の頻度は男性と変わらなくなる。性ホルモンの影響があるのだろう。病気が起こるピークは50代の終わりから60代の初めで、老年人口が増えるにつれてピークは高齢化する傾向がある。若年者では20歳ぐらいでも起こり、老年者では90歳以降でも起こる。若い人のALSは老人のそれより進行が遅く、もしかすると違う病気かもしれないが、まだ分からない。病気が起こる前に患者には筋肉の小さな攣縮や筋痙攣(こむら返り)が起ることが多いが、患者によっては手や腕に脱力、筋肉の萎縮、歩行の障害、または喋り方に変化が起こったり、飲み込みの異常(嚥下困難)などが起こってくる。ほとんどの患者は体重が減少する。患者により症状の始まり方が違うし、症状が特異的だということはないので、すぐに診断をつけることは難しい。筋肉の脱力を発症してから診断まで平均12~14か月掛かる。診断にはこれという決め手がなく、しかも診断をつける特別なテストがないので、可能性のある病気を一つずつ除外するという方法しかない。簡単に診断はできないので、脳、脊髄などの神経画像テスト、筋電図検査、血液検査を行いながら、注意深く鑑別診断を進めるしかない。
患者の5~10パーセントは遺伝性である。両親の片方がALSにかかったか、あるいはALSの強い家族歴があるということだ。これを書いている現在では家族性のALSには既に30以上の遺伝子突然変異が報告されている。僕がクリーブランドでALSと取り組んでいる頃にはALSの遺伝子異常は分からなかった。ALSでは徐々に脱力が進行するが、患者によってその進行速度が異なる。患者の半分ほどは発症から3~4年以内に亡くなるが、10パーセントは10年以上生きる。数多くの患者を診ると、その中に稀だが病気の進行が止まったり、さらに稀な例では症状が改善することが確かに起こる。ALSの専門家は誰でも同意すると思うが、ALSは単一の病気ではなく、いくつかの異なった疾患が混在していると考えられる。発症の部位が患者により異なるし、ALSは脳内の上位運動細胞と脊髄の下位運動細胞の両方の運動細胞が侵される病気であっても、ある患者は上位運動細胞が選択的に侵され、他の患者は下位運動細胞が主にやられる、しかも進行の速い患者もいるし、非常に遅い患者もいる。たとえ病気の原因は一つだとしても、他の因子、例えば遺伝因子や環境因子が強い影響を与えているのかもしれない。もう一つ最近(2000年頃)になって新たに認識が深まったALSの状態に前頭側頭葉障害がある。これは普通の認知症とは違い、脳内の前頭葉にある運動細胞の細胞変性が前頭葉や側頭葉に広がって障害を起こす。言語機能障害、つまり脳の機能障害で言葉を喋ることがうまくできず、物事を決めたり、自分の考えを実行することができなくなり、しかも行動異常や妄想が起こることもある。この状態がALSに起こることを記載したのは日本の医学者が初めてである。こうした異常はALSの患者の数パーセントにしか起こらないが、詳細な神経心理学検査をすると、50パーセント以上の患者に前頭葉・側頭葉機能の異常が見られる。ALSは運動細胞が主に侵される病気だが、さまざまな領域の細胞も侵されることが分かっている。不思議なことに、目を動かす筋肉、膀胱や肛門を調節する筋肉はほとんど侵されない。しかしこの疾患の主要な症状は運動機能に進行的に障害が起こり、日常生活動作ができなくなり、家族や介護人の助けが必要になることだ。疾患の初めは患者にとって難しい一つ、二つの動作に手伝いがあればよいが、病状の進行と共に介助なしでは何一つ生活ができなくなる。上肢・下肢の脱力のほかに顔、口、咀嚼、咽頭、喉頭、嚥下、呼吸などの筋肉も侵され、その結果言葉で自分の意思を表現できなくなり、食物を食べることが難しくなる。さらに病気が進むと、次第に呼吸が困難になる。アメリカではこうした患者の状態を表現するのに「ガラスのお棺に入った生きた人」と言うこともある。これが日本では「難病中の難病」と言われるゆえんだ。
3 念願の多職種ALSクリニック
タフト大学にいる時にムンサート先生とブラッドリー先生が始めていた多職種(あるいは集学的とも呼ばれる) ALSクリニックの重要性を学び、どうしてもALSクリニックを設立しなければならないと思っていた。ケース大学では患者がいなかったので開設しようにもしようがなかった。クリーブランド・クリニックに移ってきてからは患者の数が違う。病院の理学療法、作業療法、言語療法などの部門にそれぞれ相談し、かけ合って療法士に月に1回半日だけ神経科の外来に来てくれるように話を進めた。初めはALSの患者は2、3人だったので、他の神経・筋疾患も入れて数を揃えた。数か月の内にALSの患者が増え、週に1回半日開く必要性が出てきた。このALSクリニックを行うために二人の神経科の医師の助けを借りた。こうして、クリーブランド・クリニックのALSクリニックが始まったのである。カルフォルニア州サンフランシスコの有名なノーリス先生(Dr. Forbes H. Noris)の病院では既に多職種ALS専門クリニックを行っていたし、もちろんタフト大学のALS専門外来のことは前に述べた。現在では米国にはほぼ100か所のALSクリニックがあるが、少なくとも僕の知る限りでは僕たちのALSクリニックは3番目で、多職種ALSクリニックのはしりだったことは確かである。
多職種ALSクリニックとは
前にも記載したが、ALSは進行的に筋肉が麻痺する。腕、指、手、下肢に脱力が起こるので、それらの機能をできるだけ長く維持するためにどうするか、作業療法士は腕、手、指の細かい機能に関して、理学療法士は歩行,体幹、頭・頚部の下垂などの問題と取り組む。いろいろな機能保持のための筋肉運動や矯正器具を効果的に使用できるように患者・家族を教育する。理学療法士は歩行が困難になった患者のために車椅子の専門家と共に最も適切な器具を選択するが、電動車椅子は高価なので、神経学的かつ理学的に詳細な説明を記載して保険適用を受けることが必要だ。ある患者は喋ることができなくなるので、早くから言語療法士が検査をして、どのようなコミュニケーション器機が適切であるかを選択するために、さらに専門化した言語療法ラボに患者を紹介する。咀嚼や嚥下も障害されるのでその指導も行う。人工的栄養補給のための胃婁造設に関しては不安を最小限度にするため、詳しい説明を与える。ALSクリニックに患者が来ると、まずクリニック助手が自動的に体重と呼吸機能、ALSの機能スケールを測定して患者のALSの状態を記載する。呼吸治療士または呼吸器科専門医が患者の呼吸状態を診察して、必要があれば非侵襲性の補助呼吸器などの使用を決める。社会福祉士は家庭の経済状態、失職、疾病・障害保険、生活保護患者の問題などに取り組み、さらに患者・家族の精神的な問題をも扱う。クリニックによっては臨床心理療法士などのいるところもあるが、そうした専門家がいなければ、多くの場合社会福祉士が肩代わりをする。看護師が患者の症候の変化に目を向けて医者と共に最大限の症候治療を行う。医者には言いづらいことも看護師や社会福祉士には言えるということも多いようだ。ALSには治癒はないと言われるが、治療がないわけではない。さまざまな身体の機能異常、痛み、便秘、憂鬱症、強度の不安、不眠、その他のALSに付随した症候を軽減する治療はある。医者はそれらの総合的な統括を行うのであるが、このような難しい神経疾患は医者一人で治療できるものではない。ALSクリニックの各種の治療士がそれぞれの分野で専門的治療を行うことが患者・家族にとって計り知れない援助となる。ALSクリニックのもう一つの利点は各種の専門家が患者のあらゆる問題点を議論して、その場で解決するように図ることができることだ。もし患者が一人一人の治療士に予約を取り、別々に診てもらうことになったら、どれ程の時間と労力が掛かるかを考えれば、このクリニックの利点が簡単に分かるはずだ。このような専門化した多種職による外来では、医師も看護師も治療士も短期間のうちに優れた専門家になっていく。しかもアメリカではセンターに多数の患者が集まるシステムになっているので、治験や臨床研究が効果的に行いやすい。アメリカ神経学会のALS治療ガイドラインでは、ALSの患者はALSクリニックで治療されることを推奨している。
ALSクリニックを顧みて
ALSクリニックを指導・管理するようになってもう既に30年以上が経過した。一番の問題はチームメンバーを失うことだ。数か月から1年ぐらいは平穏な時期があっても、療法士には若い女性が多いので、人員の入れ替わりがよく起こる。クリニックにとって非常に大切な看護師または療法士が辞めると、ALSクリニックは重大な危機に見舞われる。また何人の患者を何人のALSの専門医と療法士が診るのか、一人の患者にどのくらい時間をかけるのか、週に何回ALSクリニックを開けばよいのかなどについて、僕が管理したALSクリニックでは一度も完璧だと思えたことはない。第一の問題は人材と資金である。米国は徹底した資本主義と自由主義の国なので、多職種によるALSクリニックでALS患者を治療することは自由だが、そこで掛かる全費用を保険に払ってもらうことは不可能である。最近になって理学療法士や言語療法士は保険が払うようになったが(といっても確実ではなく、もちろん100%ではない)、ALSクリニックを運営することは、単純に言って赤字を見越しての運営・管理ということになる。米国では筋ジストロフィー協会(MDA)とALS協会とがそれぞれのALSクリニックの運営を支持して資金を出しているが、とても十分とは言えない。そうしたさまざまな弱点と問題があるが、ALSの患者を治療する上で多職種ALSクリニックがベストであることは既に広く認められている。理想的にはALSクリニックに対して大きな寄付があるか、ALSに関連した財団があって経済的援助を行うか、あるいは資金集めの組織があってALSクリニックに起こる赤字を埋め、臨床研究を奨励する研究資金を与えてくれることだ。確かに米国にはそのようなクリニックがいくつかあるが、稀である。クリーブランド・クリニックで始めたALSクリニックは間違いなく赤字だっただろう。神経科の主任、コノミー先生は米国でもALSクリニックが稀であり、クリーブランド・クリニックのALSクリニックはその一つであるという希少価値と、さらには学問的に将来臨床治験への参加、新しい研究資金を得る可能性などを含めて、このALSクリニックを強力に支援してくれていた。
4 ALSことなら何でもやってみよう!
ALS協会の支援と協力
米国には二つのALS支援団体がある。筋ジストロフィー協会(MDA)は強大で30以上の筋・末梢神経の疾患を支援しており,特に各地の筋ジストロフィー・クリニックを通して筋ジストロフィーの子供たちを強力に支持していたが、ALSは成人の急速に進行する不治の運動疾患としてそのインパクトが大きいため、ALSへも強い支持を与えている。ALS協会は1980年頃からアメリカの西海岸と東海岸に独立したALSを支援する組織が合併してALS協会として成長した。クリーブランドにはMDAクリニックは市立病院にあったが、クリーブランド・クリニックにはなかった。僕はMDAのリサーチフェローだったこともあって、MDAにクリーブランド・クリニックのALSクリニックをサポートをくれることを打診したが、良い返事をもらえなかった。一方ALS協会は僕の研究資金を出してくれていたこともあって、非常に協力的だった。1980年代の中頃から専門の看護師がALS協会の臨床問題の責任者となり、次第にALSクリニックの必要性を理解するようになった。クリーブランド・クリニックはALS協会が初めて承認したALSクリニックだった。その後僕はALS協会の医学的問題の顧問となり、1990年以降医学顧問の議長に選ばれた。僕ら顧問会は多職種ALSクリニックの長所を議論・提唱するようになり、ALS協会はそのようなクリニックを全国に広げ、ALS協会によって承認されたクリニックには資金的支持を行うことを決定した。その時既に存在した数少ないALSクリニックの責任者と共に、僕はALSクリニック認定の基準を作成し始めた。このためALS協会の認定委員会の議長も務めることになった。それやこれやで、このような仕事に対してALS協会からドナルド・マルダー賞という感謝状を授与された。現在使用されているALS協会のALSクリニックの規定はほとんど1980年代の末に作られたものである。その頃から米国ではALSクリニックの効用と必要性が理解されるようになり、ALS協会にALSクリニックの認定を求める大学が少しずつ増えてきた。僕は認定をするためにそれらの病院を訪れ、実際にクリニックの訪問検査も行った。サンフランシスコのノーリスALSクリニックはおそらく米国で初めてのALSクリニックだったが、ALS協会からの認定を希望したため訪問検査を行った。噂に聞いてはいたが、ノーリス先生の管理・運営するALSクリニックは理想的だった。その時からノーリス先生と良い知り合いになった。ある時、著名な大学病院からの応募があって、僕はALSクリニックの訪問検査に行ったが、まだクリニックの基礎的な人員が揃っておらず、クリニックの認定をすることはできないと思った。神経科全体の主任もALSクリニックの所長も有名な神経科医だったが、その「ALSの専門家」は「自分はALSのことに関しては療法士よりもはるかに知識が豊富である。パラメディカルの療法士は必要でない」と言って、多職種ALSクリニックが何であるかを全く理解していなかった。そのように場所によってはALSクリニックの存在意義がよく理解されていないことが分かった。
筋ジストロフィー協会(MDA)は筋ジストロフィーを主体としたMDAクリニックを全米に100以上も認定して、資金支援をしていた。ほとんどの大学病院には既にMDAクリニックがあった。MDAクリニックがなかったのは何かの原因でMDAの認定から外れたか、筋ジストロフィーを扱わなかった病院で、クリーブランド・クリニックもその一つだった。MDAクリニックではALSの患者も筋ジストロフィー患者同様に恩恵を受けていたはずである。MDAはALSクリニックを特別に査定したり、認定したりはせず、各クリニックの独立性を認めていた。ただしMDAはMDAクリニックとALS協会とがALSの治療のために連携することは許さなかった。いろいろな意味でMDAとALS協会の軋轢が始まったのだ。当時ALS協会はまだまだ小さくてMDAと競争するなどとは考えていなかったようである。ALS協会はALSだけが彼らの目的でALSに関しては大変良い仕事をしていたので、MDAにとってはうるさいハエがゾウの鼻の前でぶんぶん飛んでいるように感じたのかもしれない。MDAは多くの筋・神経疾患の支援を行っており、ALSだけに注目するというわけにはいかなかった。MDAはALS協会の存在を認めなかったが、それでもALS協会は少しずつ効果的にその力を伸ばしていった。米国は競争社会なので競争はいいことなのだが、患者はどちらへ寄付をするのか、また臨床家・研究者もどちらから支持を受けたらいいのか、戸惑うことも多かった。
ALS治療のための教育コース
多職種ALS専門外来、すなわちALSクリニックとは何か、それをどのように管理するのか、各療法士の仕事と責任は何か、どうしたら患者にとって良いALSクリニックを設立できるのかなどはALS治療の基本的問題点であり、ALS協会のALSクリニックの認定基準を設定するためにも論議された。こうした課題は既存のALSクリニックまたは現在計画中の病院にとっては大切な基礎知識となる。クリーブランド・クリニックには医師のための卒後教育のコースを計画・管理する部門があったので、そこの力を借りて全米に向けた「多職種ALS専門外来を学ぶための教育コース」を1990年に開くことに決めた。理学療法士、作業療法士、言語療法士、その他のすべての治療・療法に関しての講義を行うためにそれぞれの分野の講師が必要で、僕たちのクリニックからも講師を選んだが、他所からも講師を選ぶためにALSの専門家の意見を求めた。この教育コースを成功させるために最も大事なことは基調講演をしてくれる専門家を選ぶことだった。どうしてもコロンビア大学のローランド先生(Dr.Lewis Rowland)を招待したいと思った。彼はMDAが主催したALSのシンポジウムを基にALS研究の素晴らしい本を編集していた。ローランド先生がALSの本を編集した時には、僕には彼は偉すぎて話もできなかった。話は横道へそれるが、数年前、まだケース大学で患者を診ている頃、奇妙な症例を経験した。若い男性でALSのような所見があるが、軽度の知覚異常、小脳症状もあって、診断がなんだか分からない患者がいた。この患者はニューヨークに行ってローランド先生にも診てもらっていた。彼の診断はALSだった。僕に診察してくれと頼んできたのはその患者を長年診てきた小児神経科医の部長だった。何か新しいことを示唆しなければならない。まさかとは思ったが、ヘキソサミニデースという血中酵素をオーダーした。この酵素が先天的に欠損しているとテイサック病という乳児の恐ろしい病気が起こる。稀に成人にも違う形で発症することが報告されていた。成人の患者にこの酵素を測定するオーダーを出すと、この酵素を測る専門家が「このドクター(僕のこと)、バカじゃないの?」と言ったらしい。ともかく測定すると酵素はほとんど欠損していた。驚いて僕に電話をしてきた。この症例のことは成人のヘキソサミニデース欠損症として報告した。その話をローランド先生にすると、彼は大変喜んで「ついに診断がついたのか!」と言ってくれたことがあった。そのような経緯もあったので彼とは電話で話せるようになっていた。そこで僕は電話をかけてこの教育コースで基調講演をしてくれるように頼んだ。もちろん想像していたように彼のスケジュールはいっぱいだった。「先生にいらしてもらえなかったら、僕は切腹をします!」と言って脅かしたら、「ヒロシ、君はもうアメリカ的過ぎるよ!」と笑って、結局来てくれることになった。このALSクリニックのコースには全米から100人ほどの参加者があった。このような臨床的な教育コースはALSの分野では初めてだった。多職種ALSの治療とALS専門外来クリニックの大切さを強調することができた。
ALS患者と家族のための情報・教育書
神経疾患の患者とその家族のための教育書を出版しているデモス(Demos)という出版社がある。社長の理学博士のシュナイダー女史は彼女の妹が多発性硬化症にかかっていたので、そうした出版物が患者・家族にとってどれほど役に立つかを知っていた。米国神経アカデミーの学会で会った時に、ALS患者・家族のための本を出さないかと薦めてくれた。クリーブランド・クリニックで行ったALSクリニックのコースを土台として本を作ることにした。しかし僕はまだ「駆け出し」でALSの領域でもよく知られているとは思えないので、ノーリス先生に頼んで共同編集者になってもらった。ALSの病気、診断、症候治療、多職種ALSクリニックの治療の仕方、それぞれの専門の治療士、療法士に療法の説明などを書いてもらった。僕とノーリス先生とで筆者に批判や示唆を加え、各章が少しずつでき上がっていった。締め切りをはるかに過ぎても終わらない筆者もあって、編集者の苦労も経験した。でき上った各章は患者や家族が読んでもよく分かるように、シュナイダー女史が細かく医学用語に説明を入れ、全体を平明な言葉に代えてくれて、ついに発行の運びとなった。僕に診療を受けに来た患者が時々この本を抱えてくることがある。役に立って嬉しいし、大変名誉なことだとも思う。
甲状腺刺激ホルモン放出ホルモン(TRH)の臨床治験
クリーブランド・クリニックに戻ってきてまだ間もない頃、神経アカデミー学会で国立衛生研究所(NIH)のエンゲル先生がTRHがALSの患者の脱力に対して驚くべき効果があることを発表した。僕はNIHにインタビューに行ったことがあるので、エンゲル先生をよく知っていた。上肢の動きがほとんど失われたALSの患者にTRHを点滴静注をすると、麻痺していた上肢がかなり自由に動くようになったという発表で、このTRHの効果をビデオで示した。ALSの専門家だけでなく、ビデオを見た神経科医は皆驚いた。僕は「これだ!」と自分に叫んだ。僕はALSの患者を診るようになり、さらにALSクリニックを管理するようになってからALSの臨床治験にも加入するチャンスを狙っていた。病院に帰ってすぐにTRHを生産・発売している製薬会社を探して電話をし、ALS患者にTRHの治験を、米国食品医薬品局(FDA)から個人の新試験薬品(IND)の許可を受けて、やってみたいと相談した。アボットという製薬会社のTRH責任者は大変協力的でTRH製薬上のデータをFDAに送り、そしてTRHを無償で使わせてくれると言った。FDAへの個人によるINDの応募はコノミー先生の有能な助手が手伝ってくれた。さらに施設内研究審査委員会(IRB)と呼ばれる患者対象の臨床研究のための人道委員会の承認を取るために、研究の詳細な記載と共に患者からの告知に基づく同意書を作成した。3~4か月のうちに僕にとって初めての臨床治験ができるようになった。今から考えると信じられないほど短期間に準備が整った。患者は二重盲検法で無作為にTRHか対象剤(エピネフリン)の点滴静注を受けた(治験の中で最も正しい方法で、患者も医者も薬剤が実薬か偽薬か分からない)。1週間後に薬剤の交換を行った。薬剤の順番は無作為で病院の研究薬局が僕らには知らせず順番を決めて薬を準備した。患者の点滴中の臨床変化はすべてビデオで記録した。十数人の患者を対象としたこの治験に引き続いて、25人の患者にTRHの連日皮下注射を3か月間続けた治療効果を検索することにした。交差性デザイン(無作為性にTRHから対象治療へ、または対象治療からTRH治療へ、それぞれ3か月間の交差を行って薬剤の効果を調べる治験法)を用いて合計6か月間TRHと対象の効果を治験した。しかしTRHの治療では静脈注射も皮下注射もALSに対して何の効果も見出すことができなかった。次の年の米国神経アカデミー学会でこの結果を発表した。この時エンゲル先生も彼のTRHの追加研究を発表した。僕の仕事はすべて無作為性で対象群を用いた正当な治験だったが、最初に示した点滴静注の症例に加えて、彼は症例数を増やした対象群のない治験の結果を発表した。彼は僕の治験は注射量が少なく、注射期間が短いと批判し、そのために彼の結果を再現できなかったのだと反論した。しかしながら聴衆全体の反応は僕の結果に軍配を上げていた。エンゲル先生の効果は「プラセーボ効果」と言われるものかもしれない。僕たちのTRHの治験は正しい対象を用いた治験法で、しかも急速に結果を出し、エンゲル先生に反論することができたという利点があった。僕のボストンの上司のムンサート先生もTRHの治験を始めていた。セントルイスにあるワシントン大学のブルック先生(Dr. Michael Brooke)は筋疾患の大御所で、彼も同じようにTRHの皮下注射の治験を行ない、既にネガティブの結果を出していた。僕らはお互いの結果を比較検討した。論文発表の計画についても話し合い、事実この二つの論文は「ニューロロジー(Neurology)」の編集者の計らいで隣り合わせに掲載された。ウィスコンシンのブルックス先生(Dr. Benjamin Brooks)も新しい多施設によるTRHの治験を計画していたが、僕たちの治験が陰性だったため、実行には至らなかった。このようにして僕もALS治験研究者の仲間入りができた。面白いことに、日本ではALSの治療剤としてTRHが既に使用されていた。名古屋大学の祖父江逸郎教授の小脳変性症の治療に関する発表に基づき、TRHは小脳変性症の治療剤として日本で認可されていたのだ。そのためTRHはALSのような神経変性疾患にも効果があるのではないかという考えで使用されていた。僕が米国で行なったALSでのTRHの結果を日本の神経内科の先生方にも知ってもらいたいと思った。その頃日本には神経治療学会という画期的でユニークな学会が設立されていた。その年の会長は奈良医科大学の高柳教授で、彼に手紙を出し、この治験結果を発表させてほしいが、それが可能かどうか尋ねてみた。親切な返事が来て、特別講演として招待をしてくれた。それが僕が日本を離れて10年以上経って日本で自分の仕事を発表させてもらった最初だった。その時初めて祖父江逸郎先生にもお会いでき、TRHに関して意見を交わし、それ以来大変親しくしていただいている。
ALSのレビュー
1987年の初め、「アーカイブス・オブ・ニューロロジー(Archives of Neurology)」というアメリカでは当時一番の神経学雑誌からALSに関してレビューを書かないかという申し出があった。大変な名誉だった。ALSクリニックを助けてくれているハンセン先生(Dr. Maurice Hansen)と友達のチャッド先生に共著を頼んだ。今までに報告された主なALSの文献はすべてコピーしていたので助かった。最初の草稿は僕が書いた。それをクリーブランド・クリニックのゴーレン先生(Dr. Hershel Goren)に読んでもらった。彼は自分で論文を書いたことはなかったと思う。おそらく自分の書いたものにも全然満足できない性格だろう。だから彼の批判はものすごく手厳しい。例えば最初から「何でレビューなんか必要なのか?」という調子だ。彼の批判を読んでいると頭がカッカとしてくるが、考えの視点を変えると大変大切なことを示唆していることが分かった。こうして推敲した次の草稿をハンセン先生とチャッド先生に送り、さらに新しい示唆を受けた。そのようにしてでき上がった草稿を専門の編集者(クリニックは独自の医学雑誌を発行している)に推敲してもらって、ついに完成した。出版された時には本当に嬉しかった。一般の神経科医もALS専門家も僕とALSとの学問的・臨床的関係を次第に認めてくれるようになったのだと思った。
ALSの専門書
1994年の冬のある日、ミシガン大学の神経科教授であるギルマン先生(Dr. Sid Gilman)から手紙があり、ALSの本を書いてみないかとの誘いがあった。それは「現代臨床神経学シリーズ(CNS)」という大変役に立つ専門書で、僕もその何冊かを持っていた。大変名誉なことなので、そのチャレンジを受けることにした。このシリーズは一人の著者あるいはせいぜい2、3人の少数の著者によって書かれることが要求されている。ギルマン先生は僕一人でもよいと言ったが、僕には一人で書く自信はなかった。そこで共著者を決めることになった。まず仲の良いチャッド先生に頼むと、彼はこのプロジェクトに大変興味を持って共著者になってくれた。彼はモントリオールのマッギール大学医学部の卒業で、カリフォルニア大学サンフランシスコで神経科のレジデントを修了し、僕と同じ時期にブラッドリー先生のフェローだった。彼は既にマサチューセッツ大学の准教授だった。次は僕のフェローのピオロ医師(Dr. Erik Pioro)で、彼はクリーブランド・クリニックのスタッフになったばかりで、やる気満々だった。彼もマッギール大学医学部の卒業で、ローズ・スカラーを受賞してオックスフォード大学で神経生理の博士号を取り、神経科のレジデントもマッギール大学で修了した後、僕のところでALSのフェローを終えたところだった。彼らの論文は非常に優れていたので、共著者としてはこれ以上の人材はなかった。チャッド先生とピオロ医師に僕の家に集まってもらい、一日掛かって本の内容を決めた。本は4部からなり、1、ALSの紹介、2、ALSの臨床、3、病理と病因、そして4、治療と患者管理とした。誰がどの章を書くかをそれぞれの興味と専門領域によって決めた。さらにどの章も他の共著者が読み、本の内容が全著者の見解を示すように図った。ギルマン先生は大変親切に本の目次、すなわち内容をいかに構成するかに関してよく示唆を与えてくれた。さて後は書くだけである。第1章は「ALSの歴史、用語、そして分類」で、これは僕が書き、ギルマン先生に読んでもらって、本の調子が大体これでよいのかを確認した。各章はクリニックの医学雑誌の編集スタッフ(タレリコさんとラングさん)が本の内容も含めて実質的な編集をしてくれた。僕の書いた論文は彼らに直してもらわなくてはとても外には出せないと思っていたが、ある日チャッド先生とピオロ医師らの書いた論文をタレリコさんかラングさんがコメントを入れたペーパーをたまたま見る機会があった。赤ペンで多くのコメントが加えられてあって、彼らでもあのようにコメントされるのかと驚いたが、文を書くことの難しさと多くの個人的見解の違いがあるということもよく分かった。この本を書くようになって時間を無駄にしないようになった。少しでも時間があれば、例えば患者の診察時でも、患者がガウンや服に着替えている間に、僕は隣のオフィスに駆け込んでコンピュータに一文でも書くようにした。学会などでも時間が空けば部屋に戻って本の仕事をした。文献は全部揃えた。以前時々フォーリー先生が、ものすごい数の出版物のある有名な神経科医のことを「彼は読むよりもっと書いている」と批評したことを覚えているが、本を書いている時は自分はそうなってはならないと戒めていた。最初は責任を均等に分けていたが、僕の共著者は遅れがちになったので、少しずつ彼らの章を助けることになり、結局この本のほぼ半分を自分で書くことになった。ある程度本の締切りが決められていたので、それに間に合わせるため、僕としてはできるだけの努力をした。だんだんチャッド先生とピオロ医師を急かすようになり、そのうちまだかまだかと毎週のように催促をするようになった。僕は編集者ではなかったが、論文を早く終えるように頼む編集者の気持ちが分かってきた。僕の共著者にはすっかり嫌われてしまったのではないかと思うが、タイムリーに本を出版することを大切にした。ともかく執筆の段階も終わり、全原稿が出版社に渡され、コピーエディティング、索引の制作が始まった。「序文」はブラッドリー先生にお願いした。共著者の同意を得て、この本は最初からフォーリー先生に捧げることにしていた。こうして僕らの本は1997年の秋に出版された(正式な出版年は1998年)。手前味噌になるが、この本はいろいろな雑誌で良いレビューを受け、米国神経アカデミーからも大変良いレビューを受けた。フォーリー先生に本を差し上げたが、くすぐったいような顔をして大変喜んでいただいた。米国に来て専門書を出版できるとは夢にも思わなかったので、これは自分にとって大変な成果であると思った。それにしても共同作業というものは終ってしまえば苦労はすぐに忘れてしまうが、その経過が決して楽なものではないということがよく分かった。医学は日進月歩しているので、この本は20年もたった今となると古文書のようなものだが、歴史・臨床・治療・患者管理に関してはまだ内容が古くはなっていない、言い換えればALS研究の進歩が遅い証拠であることを示している。
5 ALS以外の研究
後にも述べるが、ALSマウスでの基礎研究も続けていたし、治験を初めとする臨床研究もALSに限りたいと思っていた。しかし僕は筋・末梢神経疾患の部門の部長だったので、ALS以外の疾患でも必要があれば研究をする責任があった(あるいはせざるを得なかった)。小児神経科医のクルーズ先生は、僕が神経病理のフェローをやっていた時に彼は神経科のレジデントで一緒に神経病理を勉強したので、お互いによく知っていた。彼は麻酔科のデボア先生と悪性高熱症(MH)に取り組んでいた。この病気はある種の麻酔薬に筋肉が異常反応を起こして筋肉の激しい硬直と高熱を起こす非常に重篤な疾患で、子供に多い。治療法があることにはあるが、術前に診断できればこうした麻酔によるリスクを激減できる。そこで術前診断の方法を開発するように頼まれた。麻酔科にはマウス研究のために麻酔器をもらった恩がある。やらざるを得なかった。米国ではいくつかのセンターがMHの術前診断を行っていた。その方法の基本は生検で得られた筋そのものを麻酔剤にさらして反応を調べるのだった。日本では筋線維をほぐして細胞膜を薬で除去してから、その筋線維の麻酔剤の反応を測定する方法が取られていた。日本の国立神経センターの有名な高木先生がこの方法を開発していたので、それを教えてもらうことにした。ちょうど日本の国立神経センターからフェローが僕のところに来ることになっていたので、彼を通してテクニックを教えてもらうことになった。数か月掛かってその方法をマスターし、患者の診断に使うようになった。僕の研究助手は半分の時間をこの仕事に当てなければならなかった。しかしこうした生物学的テストの信頼性はまちまちであること、麻酔中にMHが起こっても急速に治療ができるようになったことなどで、僕らがクリニックで開発したテストの必要性が低下して、2~3年のうちにこのテストは中止となった。正直言って僕はほっとした。
多発性筋炎の治療は難しい。普通第一線の治療薬として副腎皮質ステロイドを使用するが効果は一様でなく、しかもさまざな副作用がある。臓器移植のために新しく開発された免疫抑制剤、サイクロスポリンはこの筋炎にも効果があるという報告があった。この薬剤の治験が行われることになった。これは多施設による治験でMDAの研究資金によって行われた。クリーブランド・クリニックも多施設の一か所として治験に加わった。結果はネガティブだった。そのためかどうか論文にもなっていない。そのほか重症筋無力症という自己免疫疾患の治療にもサイクロスポリンを使って治療する試みがあり、これも多施設による治験でMDAの研究資金によって行われた。効果はあったが、ステロイド以上のものではなかった。もう一つ重症筋無力症の治療に関して3か所の病院によるユニークな治験を行ったことがある。重症筋無力症は予測のつかない病気で、筋無力のクライシスを起こすと血漿透析という自己抗体を含んでいる血漿(液体)部分を血液から取り除く治療をする。血漿を除去する方法は今もそうだが血液を遠心機にかけて最も軽い液体部分、すなわち血漿を取り除く方法だ。ある日本の会社が特殊な膜を製造し、選択的に血漿中の抗体を除去する免疫吸着療法を開発した。この日本の会社がニューヨークのブルックリンにあるマイモニデス病院のグローブ先生という重症筋無力症の専門家に協力を求め、治験を頼んできた。そこで彼は重症筋無力症の治療ではよく知られたニューヨークのマウントサイナイ病院と共同治験を提案し、今では何の理由だったのか思い出せないが、おそらく日本人ということからか、僕にも協力を求めてきた。その頃の僕は何か研究のチャンスがあれば何でもやろうと決めていたので、参加させてもらった。全く新しいことをやってみることは大変やりがいのあるもので、強い興味を持ってこの治験を行った。臨床成果は既存の血漿透析とほぼ同じだったが、合成膜は生体細胞に考えてもいなかったサイトカインの反応を起こさせるようで、さまざまな免疫反応が起こった。生体が無反応を示す合成膜を使用しない限り、合成膜による抗体交換は難しいようだった。そのほか2、3のALS以外の疾患の治験または臨床研究に参加したが、ますますALSに対する臨床と研究に焦点を合わせるようなっていった。
6 ウォブラーマウスでの臨床治験の薬剤開発
話は少し前後するが、クリーブランド・クリニックに移ってからも、軸索輸送の実験は続けていた。ALS協会からも研究資金をもらうことができた。ケース大学から僕より少し前に辞任したシューメート先生の非常に有能な研究技師が僕と共にクリニックに移動した。コノミー先生の協力で彼のラボの一部を使わせてもらって研究を続けた。最初は40%近い時間を基礎研究のためにもらったと記憶している。その頃ブルーアー(Dr. Anthony Breuer)というハーバード大学で教育・研修を受けたばりばりの神経科医が新たにクリニックのスタッフとして加わった。彼はザイス製の特殊な顕微鏡を使用して、ALS患者の正中神経の軸索輸送をそのまま生きている状態で調べることを考案し、一年ほど下準備をしてついに国立衛生研究所(NIH)の研究資金を獲得した。彼とは臨床的にも基礎研究においても親しい同僚となった。僕もこの時までにはマウスモデルの軸索輸送に関して既にかなりのデータがそろってきたので、NIHの研究資金のグラントに応募することにした。ブルーアー先生がNIHの研究資金をいとも簡単に(と僕には思えた)獲得したことに強く啓発されたと思う。「新研究者」の部門でNIHの研究資金に応募した。このプロジェクトは選択的に侵される前肢(頚髄の運動細胞)と抵抗の強い(侵されない)運動細胞(腰髄の運動細胞)の相違を軸索輸送という細胞機能の面で検索することで、このために低速軸索輸送、急速軸索輸送、さらに逆行性軸索輸送をすべて調べ、さらに病気にかかっている細胞機能を軸索の再生能力の観点から調べるという計画だった。幸運にして僕もNIHの研究資金を得ることができた。僕のところにもフェローで研究をしたいという人が日本から来て、研究に参加してもらった。
治験前の動物実験
1980年代の後半にはマウスモデルを使ってALS治験のための薬剤を試験するという動きが出てきた。早速僕はマウスの神経科医になって、薬剤効果を検査するのに何を測定するのが一番よいかを今までの多くの経験から考えてみた。ウォブラーマウスの脱力はほぼ選択的に前肢手に起こるので、前肢手の変形の進行過程をグレード1から4に分けた。ウォブラーの前肢の脱力は特別なマウス用の握力測定器具を使い、握力バーも自分で考案・作成した。マウスを尻尾で吊り上げ、握力バーを両前肢に触らせて刺激して握力バーをつかませる。何回か繰り返しているうちにマウスは両方の前肢でこの握力バーをしっかりとつかみ、本能的にバーを放さなかろうとする。少しずつ尻尾を後ろに引っ張ると、マウスは頑張ってバーにしがみつく。さらに引っ張っていくと、ある時点でマウスはついにあきらめてバーを放す。この時点がマウスの最大握力筋力である。3回測定してその最高値をその時の筋力として記録した。正常のマウスは力強いが、ウォブラーは弱く、週ごとに弱くなる。次に疾走速度を測定するのために、マウスが真っすぐに走れる1フィートの長さのアルミニウムのトラックを作った。両脇は3㎝の高さの薄いアルミニウムの壁にしてマウスは前方しか見ることができない。マウスは逃げようとするが、尻尾を持って何とかマウスをトラックの端に留め、尻尾を放すとマウスは前方へ逃げる。同時にアルミニウムの両壁、ちょうど尻尾の辺りを鉛筆でたたいて音を出すと、マウスは音から逃げるため疾走する。このようにしてマウスが1フィートを走り切る時間を測定するのである。ほとんどの正常のマウスは1秒も掛からないが、ウォブラーマウスは時間が掛かり、進行的にその速度は遅延する。このテストでも3回のうち一番速い時間を選んだ。これらのマウスの運動機能テストは、「マウス患者」も僕たち「マウスドクター」もかなり興奮する中で行われた。この神経定量テストを使って生後2週間目から3か月まで、毎週正常マウスとウォブラーマウスの自然経過を調べた。この自然経過はウォブラーマウスの運動ニューロン疾患の臨床経過を理解するためと薬剤効果を調べるために非常に役立った。
7 神経細胞栄養因子
1990年代の初頭から応用分子生物学が急速に進歩し始めた。人間の蛋白を人間以外の生物に作らせることができるようになった。例えばイースト菌に人間のホルモンや酵素のDNAを挿入すると、イーストは気が狂ったように人間の蛋白を製造する。そこから必要としている人間の蛋白を抽出してホルモンや酵素剤として人間の疾患に利用するのだ。これが遺伝子組換工学といわれる技術だ。この頃から医学の先端を行くバイオテクノロジーの会社が設立され始めた。リジェネロン(Regeneron)という会社もその一つで、神経細胞栄養因子という蛋白をALSの治療に使うために設立された。神経細胞栄養因子とは神経細胞が幹細胞から生まれて成長するまでになくてはならない蛋白で、成長後も神経細胞を維持するために必要だと考えられている。実験上では培養された神経細胞を生かしておくことは難しい。しかし最微量の神経細胞栄養因子を培養液に加えると神経細胞は活性化され、無数の神経細胞突起を産生し、強い成熟度を示す。また培養溶液中に神経毒素を加えると神経細胞は障害され死滅するが、神経細胞栄養因子を加えると細胞障害をブロックすることができる。このため神経細胞栄養因子には神経細胞保護作用があると結論された。驚いたことに神経細胞栄養因子の世界的研究者がこの会社に集まっていた(今から考えると、あのような研究者の揃え方は目を見張るばかりで、将来会社が他の研究で大きな成功を収めた理由かもしれない)。ある時そのリジェネロン社のシーダーバーム先生(Dr. Jesse Cedarbaum)から電話があって、神経細胞栄養因子が神経ニューロン疾患の治療に効果があるかどうかをウォブラーマウスの動物モデルで調べてほしいと依頼された。この電話をきっかけに1990年代にはいくつかの神経細胞栄養因子の臨床的、また組織学的な効果をマウスモデルで検索することに力を入れることになった。軸索輸送の研究もほぼ終わりかけていたこともあって、僕らの研究はこのモデルでの神経ニューロン疾患の病態機能を調べる研究よりも、ALSの治療薬を見つける仕事に変わっていった。僕はこの研究は応用科学だと考えていた。
毛様体神経細胞栄養因子(CNTF)と脳由来神経細胞栄養因子(BDNF)
僕の母校、東邦大学の神経内科の岩崎先生の下で仕事をしていた池田医師が僕の研究室に2年ほど留学してくることになり、彼には神経細胞栄養因子の仕事をしてもらうことにした。彼は熱心に大変よい仕事をしてくれた。僕はALSの治験に興味があったので、マウスモデルの動物治験も人間における治験となるべく近い形で行うべきであると考えていた。このマウスモデルでは生後3~4週間でウォブラーマウスの臨床診断がつく。診断がつき次第、CNTFまたは対照液剤を盲目的に腹腔内に4週間毎日注射した。投与量はリジェネロンの研究者と決めた。この結果、CNTFは疾患の進行を著しく遅らせることが分かった。この結果はALS患者の臨床治験に進むために十分な支持データだと考えた。シーダーバーム先生は僕のことをALSの治験をする研究者とは考えていなかったようだが、彼に僕をALSの治験に加えてくれるよう頼んだ。こうして僕はALSの最初のCNTFの治験に運営委員会の一員として加わった。このCNTFの治験は歴史的観点から見て、以下の2点に関して非常に重要である。一つは初めて多数施設がALSの治験に参加したということ、次はCNTFの治験に先立って現在最も広く使われているALSスケール(ALSFRS)がこの時初めて作成されたことである。僕はCNTFをALS患者に注射した初めての医者で、それは名誉なことだった。しかしCNTFの皮下注射はALS患者に多くの副作用を起こし、しかも治療効果のないことが分かった。BDNFもマウスモデルで調べるとCNTFよりは効果が少なかったが、疾患を遅延させた。BDNFの患者における治験はアムジェン社と日本の住友製薬会社が関与して行われた。しかし、残念ながら人間の疾患には効果を見い出せなかった。僕はALSのような病気は単剤ではなく、薬剤の複合によって治療されなければならないと考えていたので、CNTFとBDNFの両方で治療効果を見てみることにした。驚いたことにこの二つの神経細胞栄養因子を組み合わせてウォブラーマウスに注射すると、疾患は進行しないことが分かった。病理学的にも健康なマウスのようにはいかなかったが、対象群のウォブラーマウスと比べると、信じられない改善が見られた。この結果は僕たちの研究室で幾度か繰り返して確認した後、科学報告では最高の雑誌の一つである「サイエンス」に発表した。誰でも抱く疑問は、なぜ動物の疾患に効いて人間の疾患には効かないのかということである。その理由は、第一にはCNTFやBDNFのような神経細胞栄養因子は大きな蛋白分子で、皮下注射された蛋白は体と中枢神経の間にある血液脳関門を通過できない。つまり神経細胞栄養因子は直接には中枢神経に移行しない。しかし神経系に必要な蛋白は筋肉の神経末端で選択的に軸索内に取り込まれ、逆行性輸送で運動神経細胞に運ばれ、そこで栄養因子の作用をもたらすと考えられていた。しかしその量は少なく、結果的にはこれらの蛋白質は神経細胞に届かなかったのだろうと結論された。マウスの血液脳関門は人間のそれに比べると不完全で、神経栄養因子は比較的自由に通過すると考えられた。もう一つの問題は副作用である。CNTFは発熱、倦怠感、皮膚の痒み、下痢等などを引き起こす。臨床的に著明な効果があればこうした副作用も大目に見られる可能性があるが、残念ながらCNTFの疾患への効果はなかった。治験前のBDNFの研究は住友製薬から派遣されていた石山研究員がBDNFに関する優れた動物実験を行った。ウォブラーマウスの原因はまだその時点では分かっていなかったが、少なくともウォブラーの遺伝子診断が可能になったので、さらに進んだ研究ができるようになった。石山研究員はこの仕事で薬学博士号を取得した。しかしCNTFやBDNFの人間での治験が不成功に終った頃からウォブラーに対する治験前のモデルとしての信頼感が薄れ始めた。学会の討論でもウォブラーマウスは信憑性が低く、ウォブラーでは薬剤テストはみな陽性に出るのではないかという批判が出るようになった。問題は理想的な動物モデルなどはなく、ウォブラーマウスのほかにも2、3のマウスのモデルが使われていたが、どのモデルも人間の病気に似た面もあるが、異なる面も多かった。しかしALSの治験を行うには強力な動物実験からの裏付けが必要で、その点でウォブラーマウスの価値はあった。僕らの研究グループはGDNFやカルディオトロピンなどによる治験前の動物実験を続けた。このモデルでのGDNFの効果はCNTFよりも良好だった。ALSの栄養因子の治療では皮下注射を用いる投与方法が無効であることが明らかになったので、GDNFのALS患者の治験では薬剤溶液を特殊注入器で直接脳室内(脳の中心にある髄液で満たされたスペース)に持続的に投与する方法を用いた。しかし副作用が激しかったために治験は中止になった。その頃注目されていた神経細胞栄養因子のレビューを「筋肉と神経(Muscle and Nerve)」という医学雑誌に依頼された。その中で、僕は現時点では未だこの強力な神経細胞栄養因子を患者に十分に使いこなすだけの医学的知識とテクノロジーがないが、いずれ将来必ず臨床に使われると結論した。現在ALSの幹細胞治療に使用され始めている。
NIHの研究資金
NIHの新研究者のための研究資金は3年間だった。更新の時期が近づくにつれて更新するのに十分な研究結果が出たか、またこれからの計画をどのように立てるかなどのことで不安のため眠れない夜もかなりあった。NIHから研究資金を得ることは非常に厳しい過程だが、動物疾患における治験前の薬剤効果を判定する仕事は製薬会社が僕に頼んでくるので研究費の調達も簡単で、出た結果も自分のような臨床家にとってもはるかに実用的だった。
なぜそうなったのかは分からないのだが、研究資金更新の申請の締め切りを間違えてしまったのだ。締め切りは一か月早かった。これはショックだった。常時NIHの研究資金に応募している基礎研究者と基礎実験を臨床の片手間にやっている僕のような研究者との違いが、この締め切り日の間違いに表れているような気がした。僕は4か月待って再度応募する気にはなれなかった。どうもこの間違いは自分自身の運命を告げているよう気がした。あるいはそのように考えたかったのかもしれない。僕はNIHの資金による基礎研究はもうやめることにした。この結論をコノミー先生に話すと、「それで本当にいいのか?」と心配そうに聞いてくれた。こうしたこともあって僕はさらに治験前の薬剤効果を調べる研究に力を入れることにした。同じ頃池田医師と石山研究員も帰国することになり、帰国後もウォブラーマウスの実験を続けたいという希望だったので、彼らに繁殖のためのマウス・ブリーダーを分けてあげた。彼らは日本でウォブラーマウスの治験前の実験を続けた。その後15年ほどたって、ついにウォブラーマウスの遺伝子の原因がドイツのシュミットという研究者によって発見された。細胞内の微小器官の一つであるゴルジ器官の逆行性軸索輸送の蛋白の一つの中の「Vps54」という単一遺伝子に突然変異が見つかった。この遺伝子と同じ突然変異は人間には見つかっていない。したがってウォブラーマウスはマウスの運動細胞疾患であっても、人間のALSではない。しかし、近隣の小胞体輸送に関連した蛋白のいくつかの突然変異が家族性ALSに既に報告されているので、今になってみるとウォブラーマウスの運動ニューロン疾患は人間のALSと意外と関係が深いのではないかと考えられる。
ALSの進歩 ーSOD1マウス
1993年に家族性ALSの原因として、S-OD1という過酸化物ディスムターゼ酵素の遺伝子に突然変異があることが科学雑誌「サイエンス」に発表された。これは画期的なニュースだった。1874年にシャルコーによってALSが初めて記載されて以来、全く原因の分からなかった疾患だったが、ついにその原因の一つが見つかったのだ。約20%の家族性ALSの患者にこの遺伝子変異が見られるという。この報告を読んだ時、「ああ、ついにALSの原因が見つかった! ALSの謎が解かれる時代が始まる!」と僕は興奮した。ALSの専門家の多くがそのように思ったようだった。その一年後にはSOD1変異遺伝子を挿入したSOD1マウスが開発されてALSマウスと呼ばれ、このマウスで基礎的な実験が幅広く行われるようになった。ALSの基礎的実験はSOD1ではなければならないという考え方が広がり、ごく最近にいたるまでALSの治験のほとんどすべてはSOD1マウスの治験前の動物実験なしでは考えられなくなっていた。そのこともあって、僕はウォブラーマウスから手を引くようになっていった。しかしその後SOD1モデルで成功した薬剤がALSの治験で成功したことは一度もなく、時と共にSOD1モデルの信頼性も深刻に疑われるようになった。実際SOD1マウスは病理的な発現の仕方が人間のALSとはいろいろな点で違うことが分かり、その運動ニューロン疾患の基礎研究への有用性も疑われるようになった。SOD1マウスはSOD1の異常遺伝子が20~30コピーも細胞内に発現されるように作られたマウスであるため、変異SOD1蛋白の量が異常に増え、蛋白凝集も起こるわけである。人間の場合ではSOD1の異常遺伝子は1コピーだけである。マウスモデルというものは人間の病気を正しく表現しているとは言い難い。
8 日本におけるALS研究
厚生労働省によるALS難病班
1990年代の後半には日本の神経学会にも時々招待されるようになった。その最初は東大の萬年徹教授が学会長の時だったと思う。大変嬉しかった。ALSの患者では排尿・排便を司る運動機能は保たれているが、この運動細胞が集まっている部位をオヌフ核といい、仙髄の前角にある他の運動細胞が全部死滅しても、この核だけは正常に残っていることを萬年先生が初めて報告していた。先生はお会いするたびに「先生はアメリカでよく一人でやってこられましたね」と褒めてくれた。信州大学の柳沢教授はパーキンソン病の世界的権威だが、彼も日本神経内科学会の会長の時、僕をシンポジウムに招待してくださった。これらの学会では米国でのALSの治験の現状を話させていただいた。日本には難病指定制度があり、ALSは特に難病中の難病と言われており、この疾患と診断されると患者には医療費を支払う義務はなく、米国にいる僕はこの制度は世界に冠たるものだと考えていた。この制度によって厚生労働省は患者ケアのほかに難病研究への資金も出していた。ケース大学のレジデント研修の先輩である田代先生はその頃は北大の教授で、厚生省のALSの難病臨床研究班の班長を務めており、年次の研究発表会に僕を招待してくださった。米国では熾烈な競争を経て研究資金を勝ち取るのだが、日本では研究者のグループに比較的少額ではあるが、公平に配分されると聞いて、研究資金の配分の仕方にも米国と日本では大きな違いがあることが分かった。
東北大学教授糸山泰人先生のALS難病班
田代先生のかなり後になるが、東北大学教授の糸山泰人先生がALS難病の基礎研究班の班長となった。彼は穏やかな素晴らしい方で、多発性硬化症の専門であると同時にALSの研究にも力を注いでいた。彼の教室には新進気鋭の青木医師(現東北大学教授)がおり、ALS専門に研究を続けていた。糸山先生は彼のALS難病の基礎研究班に僕を加えてくれた。すなわち日本の厚生労働省から直接研究資金をもらい、ウォブラーマウスの研究を続けた。彼は「三本先生が加わって日本のALS研究班を刺激してほしい」と言ってくれたのだが、これは非常に親切な言い方で、実際は僕の方が日本の第一線のALS基礎研究者らに啓発され、いい勉強をさせてもらったのだ。そのいくつかの班会議が仙台で開かれたが、糸山先生の心の行き届いた歓待は学問を超えて忘れることのできない素晴らしい思い出となった。夜遅く一人で露天風呂に浸かりながら「あ~、日本はいいな~」と思い、日本では学問にも情緒があるなと思った。
日本の諸先生のお陰で神経学会または神経治療学会に年に一度、二度と招待されてシンポジウムへの参加、または招待講演をさせてもらうようになった。日本には親しい、大切な友達が二人いた。その一人はクリーブランド・クリニックの神経科のルーダース先生(Dr. Hans Luders)の下でてんかんの臨床研修に来ていた九州大学の辻貞俊先生で、僕がまだケース大学にいる時にルーダース先生が僕と彼の家族を一緒に自宅へ招待してくれて、それ以来家族ぐるみのおつき合いとなった。彼は帰国後九大に戻り、その後産業医科大学の神経内科教授となり、さらに学部長をも勤めた。僕が帰国すると臨床講義の名目で彼の大学によく招待をしてくれた。また彼が主催した国際神経生理学会、神経治療学会などにも招待をしてもらい、ALSについて話をさせてもらった。博多は馴染み深い、大好きな町となった。もう一人は以前にも書いたが東邦大学医学部の同級生斎藤豊和先生で、東邦大学の第二内科に同時に入局したが、彼は田崎先生と共に北里大学に移った。その後彼はコロンビア大学に留学し、ラトフ先生(Dr. Norman Latov)のラボで二年間末梢神経疾患の研究をした。彼の上司の古和教授が日本神経学会会長の時には僕も学会に招待された。僕は北里大学で講義をさせてもらったことも数度ある。その後彼は医学部神経内科から同大学の保健医療衛生学部に移り、その学部長になった。クラスメートの中では出世頭の一人だ。彼は優れた臨床家で、彼の定年退職時に出版された2冊の症例集は症例(すなわち患者)を非常に大切にする彼の考えを強く表しており、それは症例を大切にするドイツ医学に深い影響を受けた日本医学の流れだと思う。このようにして僕と日本との繋がりがますます濃くなった。日本の医学雑誌からもALSの治療あるいは治験などのレビューの依頼が時々来るようになった。こうした偉大な諸先生方と貴重な友達のお陰で日本でも活動ができ、僕の視野が広がったことは大変ありがたいことだと思う。
9 仕事と英語
英語では苦労をした。いや今でも苦労している。特に人の名前が複雑で覚えるのに苦労している。同僚、友人等などの親しい人々は名字と名前の両方を知らなければならない。正式に呼ぶ時や紹介する時には名字、お互いに呼び合う時には名前だが、ニックネームが多く、ジョンが時にはジャック、ウイリアムがビル、あるいはビリー、エリザベスは特に難しく、ベティー、リズ、エリーなど、それらを皆知らなくてはならない。知らないと失礼に当たるのだ。インターンの時の苦労話は既に書いたが、僕は渡米当初から病院という緊張感の高い仕事場で英語を聴き、話さなければならなかった。それから45年たった今でも、僕は日本語は喋っているが、英語は喋るというより英語という言葉を使う、または操っている感じがする。英語を喋っていても言葉から来る感情が希薄である。例えばののしり言葉や悪態をついても感情がこもらない。英語あるいは英会話を習って本格的に改善しようと思ったこともあったが、忙しいせいもあり、「もうここまでくれば、変えようがない」という気もした。
レジデントの時、避妊薬を飲んでいた若い女性の患者が偏頭痛のために救急室に来た。偏頭痛の治療のためエルゴタミンの筋肉注射がされたが、15分以内に偏頭痛の反対側に痺れを起こし脳卒中になった。僕は病棟担当のレジデントで、退院診断に「偏頭痛とエルゴタミン注射後に起こった脳血管障害、おそらく避妊薬に関係」と書いた。この診断書を理由に患者は避妊薬の製薬会社を訴えた。そのため僕は患者の証人として宣誓証書を取られることになった。参考人として法廷には出席しなくてもよいが、法廷の代表である法廷速記者と原告と被告側の両方の弁護士が僕のところへ来て、なぜこの診断に到達したのかを2~3時間にもわたって根掘り葉掘り質問をした。僕が責められているようで、実に大きな精神的な負担だった。後になって、僕が診断書に「おそらく」の意味で「probably」という言葉を使ったからで、もし「possibly」という単語を使っていたら、宣誓証書を取られることはなかったと言われた。当時の僕は「probably」も「possibly」もあまり区別なく使っていた。その時初めて「probable」とは80%の可能性で、「possible」は50%ぐらいの可能性であることを知ったのだった。
患者の診察記録(カルテ)は初診の場合は必ず正式にタイプされる。そのため録音テープに口述する。これは誰もがやっていることで、僕もレジデントの時からずっとそれを続けている。レジデントの時は誰も英語を訂正してくれなかったが、クリーブランド・クリニックのスタッフになって自分にも秘書(現在は管理補佐と呼ぶ)が付き、僕の口述した患者記録を全部タイプしてくれるようになった。最も大事なことは僕の口述の内容を正しい英語に直してくれることである。秘書には非常に優れた秘書から僕の口述英語に自分の間違えを加える秘書もいた。外国人医師と仕事をしたことがないと、外国人の英語のアクセントをしっかりと聞き取る能力がない。管理補佐の質が僕の仕事の質に大きな影響を与えた。最近は診察記録はすべて電子カルテに変わった。アメリカには何種類かの電子カルテのシステムがあるが、コンピュータに直接口述するとそれを書き取る「ドラゴン・スピーク」というソフトがあって、僕もそれを試してみた。驚いたことに外国人のアクセントも選べるので、アジア人(日本人の選択はない)のアクセントを選んで患者の診察記録を口述した。ところが僕のアクセントは認知できないようで、僕の口述のドラゴンはドラゴンでも酔っ払いのドラゴンになってしまい、タイプされた内容は間違いが多く、最初から自分でタイプした方が速いと思った。他の外国人医師もドラゴンは使えないと言っていた。僕は今でも口述は専門の人に頼んでいる。ただし最近の若い医師たちは子供の頃からコンピュータのキーをたたいているので、病歴などを口述することは稀で、すごい速さで自分でタイプしている。
アメリカでの家庭用のコンピュータは一般には子供のゲーム・玩具として広まった。我が家でも子供に「コモドア64」という簡単なゲーム・コンピュータを買い与えた。その後自分用にエプソンを買った。それはワープロとして実に便利だった。それでも当時は正式な書類はすべて秘書がタイプしてくれていた。患者の診察記録は一回直せばそれで終わりだが、論文はそうはいかない。書き直しに書き直しを加える。そのたびに秘書に初めからタイプの打ち直しをしてもらう。最初の2、3回は当然のことなので秘書もにこっとしてやってくれたが、これが4回、5回となるとさすがに嫌な顔をして「またですか?」と言われる。こちらもそれがとても嫌だった。クリーブランド・クリニックも1980年代の中頃には少しずつコンピュータを導入するようになり、スタッフの希望者にはコンピュータを取り付けてくれることになった。僕はすぐに飛びついた。神経科では僕が最初だったと思う。ワープロほど楽なものはない。何度文章を変えようが秘書の顔色など伺う必要がなくなって、ほっとした。
医学論文は何回も何回も校正しなければならない。マウスの軸索輸送の研究をしている時、マコーリー先生という神経学者の指導を受けたことがあった。彼は「伝達する能力がなければどんなにいい仕事をしても人には分かってもらえない、だから自分は『ラッキー7』といって7回は校正するのだ」と言っていた。自分の考えを文章に書くということは英語とか日本語とかいう前に、自分の頭の中で明白な思念が固まっていないと表現することができないと思う。ALSの本を優秀な神経科医たちと共著して分かったことだが、僕らの推敲者が直した赤ペンの量は僕の論文も、彼らの論文も同じようなもので、僕が日本人だから推敲が多いということはなかった。論文でも研究資金の応募でも、まず僕の書いた英語を添削してもらい、次に研究協力者に読んでもらい、さらにレベルの高い推敲者に読んでもらうという数段の構えでやって来ている。クリニックのエディターのカサンドラ・タレリコさん(Cassandra Talerico)は論文の推敲者で、前述の僕らのALSの教科書の他に、研究資金の申請書なども推敲してくれた。彼女の仕事は文章を推敲するだけではなく、内容に関しての推敲も行うので、英語では「substantive editor 」と呼ぶ。彼女はその後神経科学の博士課程に進み、理学博士(Ph.D.)を取得した。従って神経学系統の論文や資金応募に関する理解が優れており、クリニックの多発性硬化症センターの研究資金応募センターの所長補佐であった。僕の長年のエディターとして、今日でも僕の仕事を手伝ってもらっている。良い仕事ができたのは彼女の援助によるところが大きい。
10 クリニックでの生活
クリーブランド・クリニックに移り、患者が急激に増え、収入も増えて僕たちの生活も安定した。しかしダーロフ先生には悪いことをしたという後ろめたい思いが残った。とても割り切って考えることはできなかった。
クリーブランド・クリニックは大病院だが、当時は医学部はなく、昔からの医師スタッフはケース大学医学部から学術的称号をもらっていた。クリニックに移ってから2~3年後のことだが、コノミー先生はケース大学医学部の神経科主任であるダーロフ先生に、手紙で何人かの新しいスタッフに(ケース大学の常任ではないので、助教授ではなく臨床助教授の)称号をくれるように頼んだ。コノミー先生が見せてくれた返事には、ヒロシ以外の要請された全員に与えると書かれていた。彼の傷の大きさを改めて知らされた。それから何年も掛かったが、彼の怒りも次第に静まり、ケース大学病院のグランドラウンズにも僕を招待してくれるようになり、彼が「ニューロロジー」の編集主任になってからは論文の審査を依頼してきたし、アメリカ神経学会の会長になった時の招宴会にも招待してくれるようになった。傷が治るのには時間が必要だったのだ。
医師スタッフの特典と義務
クリーブランド・クリニックはクリーブランド市最大の雇用主で、心臓病では世界に名を馳せ、サウジアラビアの王様たちも治療に訪れる市民が誇るような病院だったので、クリニックの医者だと言うと、「あー、クリーブランド・クリニックですか!」というような一種の尊敬の念を受けた。クリニックはそのスタッフの面倒見が非常に良かった。この病院には重役健康診断という部門があって、クリーブランド市やその近縁の会社役員のための、いわゆる人間ドックのサービスがあった。僕たち勤務医にも年に1回その健康診断があった。少なくとも年に1回は財務管理の専門家がクリニックが給与のほかに特典として与えている老後資金の投資や個人的な経済状況などに関してじっくりと説明し、アドバイスをしてくれた。秘書は一人の医師に一人与えられ、教育に必要な患者の写真・ビデオは電話一本ですぐ専門家が来て撮ってくれる。論文の校正は専門の編集者が担当してくれた。そして正規の医師とその家族の診療は特別に扱ってくれた。給料は当初は毎年10%以上の昇給で急速に上がった。その反面、医師としてどんな活動も採点される―回診の質、講義の質、患者の数、レジデントの教育、患者からの苦情の数、医師・研究者として病院への総収入、学会での発表、論文報告などが詳しく数になり、毎年総部長(Division Chair)と検討し、さらに病院の医師の代表と理事の一人と面談してその年の成績を評価される。全体としては患者数、研究、教育のどれか一つがしっかりとしていれば昇給は確実と言われていた。僕がいる間に神経科の医師の一人が解雇された。この医師は独身で、料理の本を初めから終わりまで1ページずつ毎晩料理するのが趣味だったが、患者の扱いが非人間的で冷たく、彼には患者からの苦情が耐えなかったそうだ。いくら注意されても、心理学者のカウンセリングを受けても改善せず、ついに辞めさせることになった。コノミー先生は神経科の主任として彼のことで大変辛い思いをしたようだ。もう一人、回診の時のレジデントの教育の質が大変悪いとのコメントがレジデントから多数出され、回診のローテーションから外された医師がいた。彼はトップの医学部の卒業で、良い医学教育を受けたはずだが、だから良い教育ができるとは限らない例だろう。僕の教育の質はレジデントの査定によれば中の上から上、患者の数に基づいた収入と獲得した研究資金の量はトップグループだった。
電話会議
神経栄養因子を開発したリジェネロン社はアムジェン(Amgen)という大きな製薬会社と共同で新しい治験を始めた。僕は動物実験の段階から神経栄養因子の開発に関わっていた。神経栄養因子を最初に患者に投与する治験の第1層、さらに患者数を増やして薬剤反応を検索する第2層の治験には僕を含めた5人のALSの専門家が関与したが、神経栄養因子の皮下注射による副作用の有無は僕らの大きな関心と心配事項であった。製薬会社の研究者と共に電話による会議が毎週あった。治験を続けるか否かは重大な問題だった。さらに次の段階、第3層の多数のALSセンターによる治験が始まると、僕らは運営委員会の委員となり、毎週電話による会議が続いた。CNTFの治験は1990年代の初めに開始されたが、その後ほぼ10年間は治験運営委員会の電話会議が続いた。その他にも僕が関与していた他の治験や学会の委員会などのいくつもの電話会議があった。
電話会議は勤務中や帰宅してからや週末にもあることがあったが、困ったのは旅行中だった。まだ携帯電話が普及されていない時代のことで、例えばバーモントの田舎道を走っている時には、公衆電話を捜すのに一苦労した。メキシコのカンクンの浜辺で憩いでいても、時間になるとホテルの部屋へ帰って行った。当時は国際通話料がひどく高く、30分で150ドルも取られて驚いた。モントリオールのスキー場ではリフトで頂上へ行って、そこのカフェテリアで電話をかけたこともある。携帯を持つようになって便利にはなったが、不都合な時に電話をしなければならないこともよくあった。バンクーバーでフェリーに車ごと乗ろうとしていたら、電話会議の時間になり、急いで妻に運転を代わってもらった。
電話会議だけでなく、1990年代にはいろいろな会議や講演などに出席することが多かった。ある時家族とカンクンに行く予定だったのが急に会議に招集されて、僕は2日遅れて行くことになった。妻が次男を連れて空港のチェックインカウンターへ行くと、「ご主人はどうしたんですか」と聞かれた。妻が事情を話しても、なかなか信じてもらえず、ついに係り員は「ちょっと待ってください」と言って奥へ相談に行ってしまったそうだ。その頃は離婚した夫婦の一方が無断で子供を国外へ連れ出してしまう事件が相次いで起こっていたので、妻もそのケースだと思われたのだ。妻の後ろには長い列ができて、彼女は他の旅行者の非難の目を背中に感じたそうだ。しばらくして奥から上役が出てきて「ご主人が必ず2日後に来るという証拠を見せてください」と言われ、押し問答になったが、妻は僕がシカゴからカンクンに飛ぶ予定の控えを持っていたことにはっと気がついて、それを見せてやっと搭乗することができたのだった。この時だけでなく、仕事のため、僕は家族旅行に遅れて行ったり、早く帰ってきたりすることがあった。また、大吹雪とかハリケーンの経験はいつまでも家族の語り草になるのだが、その話の最後は決まって妻や息子が「あなたは留守だったわね」とか「お父さんはうちにいなかった」とかで締めくくるのだ。僕だって遊んでいたわけではないのに……。2012年にニューヨーク周辺に甚大な被害を及ぼしたハリケーン・サンディの時も妻は一人で怖かったと言うが、上海にいた僕は米国東海岸への便がすべて欠航になったために、二日掛かって飛行機と車を乗り継いで苦労して帰って来たのだった。
二世
前に書いたように、ケース大学でもクリーブランド・クリニックでも、僕はALSの臨床と研究に熱中して、活躍の場も広がり、学会や講演、研究会、製薬会社との臨床治験など大変多忙な日々を送り、家を留守にすることも多く、週日は帰宅してからも論文を読んだり、書いたりしていて、家庭と教育は妻に任せていた。しかし、頼まれて日本語補習校の校長を2期務めてもいた。毎晩10時には一家で食卓を囲んでデザートを食べながらその日の出来事を話し合ったり、子供たちと休日にはおむすびを持ってハイキングしたり、キャンプに行ったり、夏休みには米国大陸を車で横断するような大きな旅行をしたり、2、3年に一度は日本へ連れて行ったりした。犬のほかにヘビ、カメ、トカゲなど、エキゾチックな動物も飼わせてやった。僕は父親らしいことをしていたと思う。なにかと僕を批判する妻も子供たちにはいつもいいお父さんだったと言っている。妻は教育熱心で学校の宿題のほかに国語の勉強もピアノの練習も必ずさせていたし、水泳やサッカーの練習にも送り迎えをしていた。
長男の賢は優しく、生真面目で先生方に好かれ、ほめられていた。ほかの子と同じでいたかったようでお弁当にご飯を持っていくことはなかった。しかし一徹なところがあってこうと決めたら絶対それを追求した。淳は典型的な次男坊で、幼稚園でも小学校でも先生の言うことを聞かず、先生が「椅子に糊で貼りつけておきたい」と言うほど授業中に歩き回り、よく外に立たされた。無鉄砲でジャングルジムの頂上を走っては落ち、「あなたのお子さんは頭を強く打ちました」という手紙を持って帰ってきた。これを繰り返してジャングルジムに登ることを禁止された。お弁当におむすびを持っていき、ほかの子が「なんだそれ?」と気味悪がると、「食べるか~」とその子の顔に押しつけたと言う。毎年9月に学校が始まり、10月になると決まって妻は担任に呼び出され、いろいろと注意された。ある年には妻は「これ以上先生から注意の手紙をもらってきたら、バースデー・パーティーはしないからね」と毎日言い含めて学校に送り出したそうだ。しかし全体的に二人とも成績も良く、すくすくと育っていた……と親は思っていた、特に長男の方は。
長男が高校生になった時に、数学の先生から彼は教科書よりずっと進んでいるので、大学院生にもっと高度な数学を教えてもらうといいと言われ、ケース大学大学院の学生に家庭教師に来てもらうことになった。ダニエルさんはとても良い人で、ラジオのDJのアルバイトもしていて、賢とも気が合い、これから大学受験をするに当たっていろいろアドバイスもしてもらえるし、いいお兄さんが見つかったと僕たちは喜んだ。
高校二年生になる前の夏休みに、僕と妻はある大学での数学の勉強をするサマーキャンプに行ったらどうかと勧めて、申込書にサインをさせようとした。賢は行かないと言い、行け、行かないと口喧嘩になった。その後彼は姿を消し、その晩はとうとう帰ってこなかった。初めてのことだった。親しい友達に電話をしても彼の居所を知らなかった。僕たち親はどうしていいか分からず、結局警察に連絡した。警察が市中を捜してくれ、ある喫茶店にいるところを補導して家に連れ帰ってくれた。この時から我が家の生活は陽から陰へ180度転回してしまった。優等生が一夜にして不登校児になってしまったのだ。まさに青天の霹靂だった。ダニエルさんは賢の役に立てなかったことを悔やんで謝った。賢は数学のテストではいつも最高点を取っていて、彼の点数を基準にして他の生徒の成績が決められるので、賢は恨まれていたかもしれないとダニエルさんは言った。僕たちはそういうことを全然知らなかった。
賢の通っていた高校は全米でも優秀な高校として有名だった。彼は学年で1、2を争う成績で、学校も親もアイビーリーグ入学を疑わなかった。スポーツも好きだったが、人数の多い公立校で、例えばサッカーでも体が小さいので正規のチームに入ることはできなかった。そこで彼は個人競技のサイクリングに興味を持ってよく自転車に乗っていた。あまりに夢中になっていたので、そんなに自転車に乗って競輪の選手にでもなるのかと僕は嫌味を言ったことがあった。後になってそんなことを言わなければよかった、好きなことはサポートしてやればよかったと反省したが、遅かった。
新学期が始まり、朝家を出ていったが学校からすぐ抜け出すか、あるいは全然行かなかったようだ。学校から来ていないと電話が掛かってきて、それから警察から補導して署にいるから迎えにくるようにと連絡が来るようになった。妻は学校に相談に行ったが、副校長はただ息子と親を責めるだけで、何の解決策も与えてくれなかった。校長は一回も会ってくれなかった。最優等生だったのだから特に力になってくれてもよさそうなものをというのが僕たちの胸の内だった。
どうにかしなければと焦ってきて、僕は同僚に相談した。医者たちだから、やはり精神科に診てもらうのがいいということになり、息子をだますようにしてクリニックに連れていき、青少年精神科の専門医に会わせた。診断は「異文化による危機状態(transcultural crisis)」、つまり日本人であるがためにアメリカの文化の中で違和感と疎外感を感じている、ということだった。僕たちは驚いた。アメリカ生まれ、育ちの息子はアクセントのない英語を話し、ほとんどアメリカ人だと思っていた。数百人以上の生徒の中にアジア人は数人しかいなかったが、自分とアメリカ人との間にそんなに大きな溝を感じているとは信じられなかった。その時から25年たった現在、欧米のテロリストの多くが地元育ちであるということに心理学者や社会学者の注目が集まっているが、一世よりも二世のほうがかえって異文化間の軋轢を強く感じることが指摘されていて、僕はかつての自分の息子のことを考える。渡米してキャリアでは成功したかに見えた僕の人生だが、結局はアメリカにやられてしまったのかと、その時僕はひどく落胆した。
多少自殺の恐れもあるので即入院したほうがいいと言われ、そのまま入院することになった。賢はすっかりだまされたと思い、憎しみでギラギラした目で僕たちをにらめつけ、「出たら殺してやる」と言った。僕たちにとってこの日は奈落の底に落ちたも同然、人生で最悪の日だった。窓にもドアにも頑丈な鍵の掛かっている病棟に息子を置いて家へ帰りながら、「親としてなんてことをしてしまったのだろう」と鉛を抱えているような思いだった。
その晩帰宅すると、実に不思議なことに、僕と妻の両家から電話が掛かってきた。どちらもただなんとなくどうしているかと思ってかけてきたと言う。妻は重い口を開きながら、こんなことになっているのだと実情を話した。半分泣いていた。僕は義兄に「家出をしたからって、なんで親が捜しに行かないんだ、警察なんかに知らせて」と叱られた。それもそうだと思った。
それから僕たち親も週1回カウンセリングを受けることになった。何が原因だったのか、これから親としてどうしたらいいのかを話し合うはずなのに、いつも僕と妻はお互いを責め合うことになり、夫婦関係まで悪くなって、カウンセリングは何の役にも立たなかった。
入院患者には週1度ほかの家族も交えてピザを食べながら話し合う夕べがあって、僕たちも次男を連れて参加した。驚いたのはほとんどが養子の子供たちだったことで、たった一人中国系の男子がうちと同じように親の期待を重く感じているのだった。
1か月の入院後にどうするかを医師と相談した。治療法は二つ、一つは規律の厳しい寄宿学校へ入れること、もう一つは自宅で親の管理の下に自由にさせることだった。寄宿学校などにやれば親子の縁が切れるのではないかと僕も妻も心配した。息子はやはり手元に置いておきたかった。
しかし家に戻ってくると元の木阿弥だった。学校がうちに電話する、登校しましたと言うと学校は警察に保護を求める、警察から親に引き取りに来るようにと電話が来る、この繰り返しだった。ある日いつものように妻が警察に行き、これから精神科医に会うことになっていると言うと、刑事さんが一緒に行こうとパトカーに妻と息子を乗せてクリニックに行き、精神科医にも会って話を聞いてくれたそうだ。パトカーで夫の勤務する病院へ乗りつけた妻は、知っている人に会いませんようにと願ったと言う。僕はその時は外国の学会に出ていたそうだ。
その頃だろうか、ある晩病院から帰宅する途中、静かな住宅街を走っていると不意にパトカーが現れて止められた。大してスピードは出していないつもりだったが、それでもやられたと思った。警官が窓に近づいてきて免許証を見せるように言った。彼はそれをじっと見ていたが、それから「ケンのお父さん?」と聞いた。僕はびっくりしたが、「そうです」と言うと、彼は免許証を返しながら「ストレスあるよね~。まあ、気をつけて運転して」と言って無罪放免にしてくれた。嬉しいのやら悲しいのやら、分からなかった。
そのうち全く学校に行かなくなり、不登校を続けている息子に学校はこのまま放っておくわけにはいかない、どうするのかと迫ってきた。僕たちは理解を示さない学校に腹が立っていたし、学校を変えるのもいいかもしれないと思い、家を売って引っ越すことにした。次男は私立の小学校に入れた。実は賢が中学生になる時に私立校に入れようかと考えたが、本人が絶対行かないというのでやめたのだった。入れておいたらと思うこともあった。
もう少し市から離れた郊外に移った。賢も初めのうちは学校に通い、微積分のテストで100点を取ったりしていた。しかしそれも長続きせず、昼間は眠って夜になると外出するという、まるでドラキュラのような生活をするようになった。学校は様子を見ましょうと言ってくれていたが、2、3か月すると州の法律でこれ以上不登校が続くと運転免許証を取り上げなくてはならなくなるので、どうするかを相談しましょうと校長以下カウンセラーなど数人の先生が妻と話し合いをした。その頃息子は落ちこぼれ的な子供たちとつき合っていた。そのうちの一人が問題児を集めた特殊学校に通っていて、賢もそこへ行きたいと言い始めていた。その学校のことを先生方に話すと調べてみると言い、その結果そこへやるのもいいのではないかということになった。
その学校はユダヤ人の奇特家の女性が問題児のために作った小さな私立校で、クリーブランド市のダウンタウンにあった。妻は学校を見学し、校長先生と面談した。家出から一年もたち、相当疲れていた僕たちは高校を卒業しないでもいいじゃないかと思うほど諦めの心境だった。だが校長先生は「お母さん、誰でも高校は卒業しなければいけないのです。任せてください」と優しく妻を諫めたそうだ。妻は彼の優しくて穏やかな様子に心を打たれたと言う。彼はアイルランド出身の元カソリック教会の牧師さんだった。
賢はシェイカー・ハイツの高校で卒業に必要なほとんどの単位を取っていたので、あと少しの単位を取れば卒業の資格が与えられるのだった。しかし相変わらず学校を休むことが多く、ドラキュラ生活が続いた。心配でいたたまれなくなった妻がダン校長に電話すると「お母さん、私とケンとで話をつけてあります。任せてください」と言われた。そういうことが何回かあったそうだ。
僕の心も穏やかではなかったが、それでも日中は忙しく仕事をしていてうちのことは忘れることができた。たまに息子が突然僕のオフィスにやってきて車を貸してとか、こづかいをくれとか言った。彼はイヤリングをし、黒い髪を長く伸ばしていて、僕の周りで働いている人たちはさぞかし驚いたにちがいない。父に嫌がらせをしているのかと思ったが、親の愛情を試しているのかもしれず、僕は快く言うことを聞いてやった。しかし妻は日中息子が学校に行かずに寝ているという現実から逃れるのが難しく、慢性鬱病的になり、人前ではいいのだが、一人になると途端に涙が出て止まらなくなった。彼女は姉のように慕っていた友人にそのことを話すと、「すぐにロサンジェルスにいるKさんに電話しなさい、必ず力になってくれるから」と彼女の友達を紹介してくれた。その方は高校生の息子さんが理由もわからないまま自殺して、その後地獄のような苦しみを味わったが、「生長の家」という宗教によって救われたそうだ。僕たちはどんなことも試そうと思った。もう藁をもつかむ思いだった。早速妻が電話すると「そんなの何でもありませんよ。息子さんの頭の上にちょっと雲が掛かっているだけで、お母さんの太陽のような愛で雲を取り除けばいいんです。何と言っても生きていてくれるだけでもありがたいじゃありませんか」と言われた。彼女と生長の家のロスの本部からいろいろな本が送られてきた。その中の教育に関する本を僕はむさぼるように読んで、「これだ、これだよ。この通りやろうよ」と妻に言った。そこに書かれていることはまさに目からウロコだった。悪いのは息子ではなくて、僕たち親だったのだ。本に書かれていたように僕たちは親の意思を押しつけて勉強、勉強とうるさく言ったことを息子に謝った。彼はふんと言ってそっぽを向いた。
しかしこれが僕たちの回復への第一歩だった。3年掛かった。長くてつらい道のりだったが、僕たちも息子も少しずつ変わっていった。息子の意思を尊重することにし、落ちこぼれの友だちを連れてきても夕食を一緒に食べていってもらったりした。賢は「悪い子なんて一人もいないよ」と言った。次男にも生長の家の教育法「ほめて、信じて、放す」を実践した。
ダン校長先生のお陰で賢は高校を卒業することができた。小さな卒業式に家族で出席した。その後彼はペットショップなどでアルバイトをしていたが、大学に行きたいと言い出し、まず地元の州立大学で単位を取った後、リード大学へ入学が許された。僕たちはどんな大学なのか知らなかったが、コノミー先生は「ヒッピー大学」と言った。今ではアップル社創業者スティーブ・ジョブズ氏が中退した大学としてよく知られている。オレゴン州ポートランド市にあり、優秀な変わり者が好む大学のようだが、僕たちは賢はできるだけ親から遠く離れた学校に行きたいのだなと思った。大学にしては珍しく学業に厳しくて、しばらく勉強していなかったので彼は授業についていくのが大変なようだった。数学を専攻していたが、一年休学してオレゴン州立大学でコンピュータ学を学んだ。翌年には「ファジー数学」について論文を書いてめでたく卒業することができた。卒業式には、僕は日本の学会から急いで帰ってきてなんとか間に合った。偶然だが、ポートランド市は札幌市と姉妹都市で、有名なバラ園の隣には僕の叔父が市長だった時に贈呈した日本庭園があって、式の後皆で訪れた。五月の庭は花盛りだった。
卒業後、地元の会社でコンピュータの仕事をしていたが、一年後に大学時代のルームメートでコンピュータの仕事をしている仲の良い友達を頼ってサンフランシスコに移り、以来ソフトウェア・ディベロッパーとして働いている。
11 新しいチャレンジが必要か?
1990年の初めにはコノミー先生も最年少で大病院の神経科の主任になってから15年がたっていた。任期はないのだが、何かが変わってきたことを感じた。彼は博学で、非常に弁舌が立ち、医学以外にも、例えばピアノもよく弾けたし、有名なアイルランド詩人の詩を暗唱したり、要するに非常に豊かなタレントの持ち主だった。しかし彼は独断的で断固とした決定を下したので、神経科内部での軋轢は強かった。僕は彼の最初のレジデントということもあって、彼からの強力な支持はあったが、圧力を感じたことはなかった。しかしかなりの神経科の医師は彼に満足していなかった。彼の決定に対してフェアーではないという意見が強かった。僕は彼の強力な支持を得ていたので、そのフェアーでないという原因の一つだったかもしれない。こうしたコノミー対神経科医師の問題が少しずつ大きくなり、コノミー先生は主任を辞めることになった。主任へ出馬した2、3人の中からルーダース先生が次の主任に指名された。その主要な理由はてんかん部門の総収入が莫大だったからだろう。コノミー先生はレジデントには大変好かれていた。彼はその後クリニックにパートとして籍を置いていたが、彼の性格からして大きなチャレンジが必要だったのだろう。彼はケース大学の法律大学院へ入学した。僕らはその選択に驚いたが、結局彼は弁護士になり、医療過誤を扱った後、医療制度・保険制度を扱う専門の弁護士、さらに国際医療法新聞の編集者にもなった。彼の能力には恐れ入る。
ルーダース先生はチリ生まれのドイツ人で、彼は他の人にはできないような面白い経験をしている。彼は医者になって何か変わった経験をしたいと考え、アルバート・シュワイツァー博士に手紙を出し、彼の病院で働かせてほしいと頼んだ。オーケーの手紙がきて、出発の準備をしている最中にシュワイツァー博士は突然亡くなってしまった。彼はその次に人のやらない変わったことは何かを考え、日本で神経学を研修することにした。九州大学の黒岩教授は世界的に有名だったので、彼の下に留学することにした。彼は日本語をあいうえおから習い、ついには日本語で国家試験と医学博士号を取得した。その後米国で神経の研修をしてコロンビア大学のてんかん部門の専門家になり、1978年にクリーブランド・クリニックのてんかん部門の部長として移動した。彼がクリニックに加わった時には僕は准スタッフだった。ちょうど診ていた入院患者の脳波を取ったので、ルーダース先生のオフィスに行って結果を聞いた。彼は調べてから返事をすると言うので、僕は病棟の回診に出かけた。帰ってきてみると僕の机の上にメモがあり、日本語でしかも漢字を入れて次のように書かれていた。「患者さんの脳波は正常です。棘波はなく、徐波もありません。ハンス・ルーダース」僕はルーダース先生の経歴をよく知らなかったので、びっくりして目を疑った。それ以来よい友達となった。
新しく彼の神経科が始まった。彼は非常に公平な主任だった。いかにもドイツ人らしく昇給の公式を作った。患者の数、論文の数、その他のファクターの数を公式に入れれば昇給のパーセンテージが出てくるというものだった。実を言えば僕は心の中で、昇給はこのように単純なものではないだろう、と思っていた。彼はその公式を試してみたが、実際にはうまくはいかなかった。しかし彼の公平にしようという意思は皆に伝わったようである。神経科も順調に伸び、総収入が増えた。彼と僕の関係もうまくいっていた。
国際ALS・MNDシンポジウムは1990年から毎年開催され、ヨーロッパか米国かのどちらかで開かれていた。1998年の会議はミュンヘンだった。このALS専門の会議は研究だけでなく、患者のために博愛的診療を実行しているALSの専門家に毎年「フォーブス・ノーリス賞」を与えていた。ALSの臨床家が受ける最高の賞である。予期せずして僕はこの賞を受賞した。自分の仕事が広く認められて大変嬉しかった。だが、その少し前頃から僕はこれからALSの治療と研究にさらに新しいことをやるのには何をどのようにすればよいのか悩むようになっていた。それは僕にとってだんだんと難しい課題になってきた。また、クリニックの病院のあり方と医師の仕事の仕方を見ていると、皆必死で仕事をしているようには見えなかった。頑張ってはいるのだが、そこには何が何でもこれをしよう、あれもしようという情熱や貪欲さがないような気がした。僕の感覚では、何も特別の努力をしなくてもこれから定年まで今の通りやっていれば安泰のような気がした。それではダメだと思い始めた。
スブラモニ先生(Dr. S. H. Subramony)という仲の良い友達がいる。僕が神経病理のフェローの時、彼は神経科のレジデントとして僕と神経病理を勉強した。彼はミシシッピー大学の神経科の准教授になっていた。彼の主任、ALSの仕事でも知られていたカリアー先生(Dr. Roberet Currier)が退任したので、大学は新しい主任を探していた。スブラモニ先生は僕に応募するように強く勧めてくれた。そこで応募すると、インタビューに妻も一緒に招待された。ミシシッピー大学はジャクソンという州都にあって、市はすごく小さかった。車で3~4分で市の中心を通り過ぎた。グランドラウンズで講演を行い、カリアー先生など多数の教授や職員にインタビューを受けた。脳外科の主任教授に会った時、「先生は信仰をしていますか?」と聞かれた。その質問はちょっと意外で、僕は信仰などしていなかったので「していません」と答えた。彼はいささか驚いたように見えた。そんな個人的な質問は全く礼儀を欠いていて、今なら法律的に許されないだろう。妻は神経科の医師の夫人たちのお茶に招待され、不動産屋に売り家などを見せてもらった。フォーリー先生にこの訪問のことを話すと、先生はミシシッピーは人種偏見の最も強い土地だから、僕のような外国人にとっては良い所ではないとはっきりと言った。妻も赤茶けたミシシッピ川を見て仰天し、乗馬のコンクールの話に夢中になる夫人たちに文化の違いを感じたそうだ。そのようなことで、僕は最後の二人まで残ったそうだが、辞退することにした。
その頃、米国神経学会の生涯教育の一環として始まった「コンティヌアム」という月一回発行される100ページほどの生涯教育シリーズがあった。その最初の編集者がマンコール先生(Dr. Elliot Mancall)で、運動疾患に関しての「コンティヌアム」の編集を僕に依頼してきた。ある学会で出会うと、彼は自分はもうトーマス・ジェファーソン大学(Thomas Jefferson University)の神経科主任を定年退職したので新しい主任を探している、君も応募してみてはどうかと勧めてくれた。医学に関してはフィラデルフィアの中ではペンシルベニア大学が決定的な優位を占めていたが、トーマス・ジェファーソン大学は小さいながらよく知られた医学校だった。面接の前の晩、飛行機が遅れて真夜中を過ぎてからホテルに到着した。翌日は例によって講義を行い、大勢の人たちに会った。学部長に会った時、急に咳が止まらず、学部長が咳止めのドロップをくれた。この状態では学部長の尊敬を得たとは思えなかった。いずれにしても、臨床科の主任とは、学問の他に、大学・大学病院内部さらに外部との対外関係、多くの寄付金を集めることなど、アメリカ人の中でも特に話がうまく、多くの人と積極的に交流することが好きでなければ、この職務は務まらないと思った。それ以来、神経科の主任教授の職探しは止めることにした。
ブラッドリー先生が米国神経アカデミーのサイエンス・コミッティー科学委員会の議長をしていた時に、僕を運動疾患小コミッティー委員会の抄録審査会の委員長に任命してくれた。彼の任期が切れてコロンビア大学のぺドリー先生(Dr. Timothy Pedley)に交代した。1998年のことだったが、たまたまぺドリー先生に会った時、ローランド先生のALSセンターの所長の席が空いているのだが、ニューヨークに見に来ないかと勧められた。ローランド先生は臨床神経学をやっていれば誰でも知っている名前で、米国の二つの臨床神経学学会の会長を務め、コロンビア大学の神経科の主任でもあった。彼の専門はALSである。僕は興味を持ってコロンビア大学病院を訪れた。最初に目についたのは白髪の医師が大勢いることだった。どういうわけかクリーブランド・クリニックにはあまり白髪がいなかった。今から思うと、大学にはテニュアー(終身地位保証)というものがあって、この資格のある教授は辞めさせられないという特典がある。大学は給料を払う必要はないが、本人が研究資金などによって給料さえ獲得していれば辞めさせることができない。クリーブランド・クリニックは大学ではないので、医師は定年で辞めるからだった。しかしそれは時代とともに変わった。今では年齢、すなわち老年のために辞めさせることは人権に関わることなので、大学でなくとも老年でも働く人が増えた。もう一つ驚いたことはコロンビア大学の臨床神経科や神経基礎医学には大変有名な医師や科学者が多いということだった。やはりコロンビア大学ともなると人材の質が高く、層が厚いと思った。僕はこのALSセンター長のポジションに真剣に興味を持ち始めた。一つ僕が持っている弱みは、クリーブランド・クリニックには本当の大学教授の称号がないということだった。一時クリーブランド・クリニックは200キロ離れたオハイオ州立大学と提携したことがあって、僕はその大学の教授になったが、英語での称号が「Auxiliary Professor(補助教授)」という徹底した差別語で、僕としてはなんとも面白くない称号だった。「本当の」大学教授になりたいと思っていたし、そうなれる可能性があるこのポジションにさらに興味を持った。
コロンビア大学との交渉は逐一ルーダース主任に報告した。それは僕がケース大学からクリーブランド・クリニックに移る時にダーロフ主任にはっきりと自分の意向を言えなかった苦い経験から、このようなことはもう二度と繰り返さないと決めたからである。コロンビア大学に移る話が進んだ。クリーブランドからニューヨークに移転するにはどの程度の給料の違いが必要かという率(インターネットに換算表が出ている)によって給料を上げてもらった。もう一度訪問していろいろな人々に会い、その後教授職のオファーをもらった。教授のポジションにはひどく魅力を感じたが、名誉だけでは生活はできない。提供してくれた給料はクリニックのそれよりもずっと高かったが、ニューヨークは物価が比較にならないほど高い。特に家の値段は信じられないほど高かった。いろいろ考えたがニューヨークでやっていくのはやはり経済的に難しいと思った。その旨をぺドリー先生に伝えた。十日ほどして彼から手紙が来てそれまでのオファーに加えてnamed professorship(名前のついた教授職)をくれるという。これは日本にはないポジションで、米国の大学にはさまざまな寄付制度があって、その一つに教授職に寄付する人の名前をつける寄付制度がある。そうした名前のついた教授職は現職の教授に与えられる場合もあるし、新しく教授になる人に与えられる場合もある。僕の場合は後者で、ALSで気管切開と呼吸器を装着した裕福な患者がぺドリー先生およびローランド先生と相談の上、新しいALSの臨床と研究をする医者に自分の名をつけた教授職を設定したのである。名前はウェスリー・ジェイ・ハウ教授(Wesley J. Howe Professor of Neurology)である。それが大学に認められるには通常最低200万ドルの寄付が必要で、その利子から毎月その教授の給料の一部と研究費を払うのだ。したがって名のついた教授は普通の教授とは違って経済的な裏づけがあるので価値ははるかに高い。僕がコロンビアに移った時、こうした名のついた教授は神経科には4人しかいなかった。この手紙をもらった時、これなら経済的にもニューヨークでもやっていけるだろうと思った。さらに名のついた教授職を僕にくれようとするほど僕に来てほしいということが分かって嬉しかった。僕はそのオファーを受けることにした。かっての隣人が大きな法律事務所に勤めている弁護士で良い友達だったので、オファーの内容を正式に調べてもらった。そのことをすぐにルーダース先生に話した。彼は「君をここに引き止めておきたい。何をすれば留まるのか、カウンター・オファーを出してほしい」と言ってくれた。筋電図の主任のウィルボーン先生は「ヒロシを行かせるな」とルーダース先生に言ったという。僕はもう行こうと決めていたので、反対のオファーをもらっても困ると思った。内科系の総部長から呼び出しがあって、行かないように考えてくれと言われた。「行くのなら殺し屋を送るぞ」などと冗談をいった。ケース大学の先輩だったスウィニー先生は「行くなよ、友達がいなくなるよ」と言った。
僕がコロンビア大学への移動を真剣に考え始めた時、主任のルーダース先生よりもまず最初に口説き落とさなければならなかったのが妻である。彼女は子供たちも巣立ってしまった後、日本美術の画廊の勤務と日本語補習校教師の仕事のほかに、クリーブランド美術館のボランティア、ジャパンソサエティの役員、日本人会の会報編集長などといろいろと活躍していて、彼女に言わせると「ほとんど完璧に幸せな生活をしていた」のだった。話を切り出すと剣もほろろに「あなた一人で行けば」と言って取り合わなかった。僕はふと以前フォーリー先生が言った言葉を思い出した。「引っ越すのが嫌だというワイフほど、引っ越してからハッピーになる」そこで僕は例えば「ニューヨークには画廊は五万とあるよ。日本企業もいくらでもある。君の新しい境地を開くチャンスだ」などとおだてて、じわじわと妻に働きかけた。
僕は行こうと心を決めたが、全然不安がなかったわけではない。生き馬の目を抜くと言われるニューヨークで生きていかれるだろうか、コロンビアのような最優秀の医者の集まりの中で自分がやっていかれるだろうか、自信がなかった。僕は「コロンビアで失敗したら、その後にはどこにもいけないな~」と希望と不安の交じり合った思いだった。
僕はこうした本心を妻に打ち明けて相談した。さすがの妻もNamed professorshipを頂くとなると知らん顔しているわけにはいかなくなった。二人で何日も話し合った。そしてこれは僕たちの人生のチャレンジだ、チャレンジは受けて立とうと二人で決めた。
クリニックの神経内科は歓送会を開いてくれた。ルーダース先生はクリーブランドの野球チーム、インディアンズのトップ打者のラメレスのジャージーをプレゼントしてくれた。秘書と仕事を一緒にしていたスタッフは皆で新しいドクター用の黒鞄をくれたが、その中は僕の好きなキャンディーでいっぱいだった。ルーダース先生夫妻は僕の友達を招待して自宅で歓送会を開いてくれた。僕たちもお世話になった人々にニューヨークへ行く決心とそれまでの感謝を手紙に書いた。「僕たちの故郷はクリーブランドで、決してニューヨーク・ヤンキースは応援しない」と約束した。自宅で感謝の気持ちでお別れ会を開いた。六十人以上が来てくれた。特に感激したのはフォーリー先生夫妻とダーロフ先生夫妻が来てくれたことだった。