第6章 クリーブランドへ帰郷
1 クリーブランド・コネクション
コノミー先生はいつも僕に親切だった。学会などで出会うと必ず食事に誘ってくれた。彼はクリーブランド・クリニックの神経科の主任になってから3~4年の間に10人に近い神経科医を新しく雇った。噂では病院内ではその手腕に反発があるらしかった。僕のためにもう一つ人員の枠を広げようとしてくれたが、かなりの反対に遭ったようだ。既に4月も半ばで、アイオワ大学に決めようかと考えていた。そうこうしているうちにケース大学の恩師、フォーリー先生がケース大に来ることを考えてみたらどうかと言ってくれた。先生は既に主任教授の座を下りてシニア教授になっていた。ちょうどその時は神経アカデミーの学会中で、フォーリー先生はケース大学の新しい主任教授、ダーロフ先生(Dr. Robert Daroff)に会うように勧めてくれた。ダーロフ先生との面接は学会の会場内だった。彼は僕のことをフォーリー先生から聞いてよく知っていたようで、短刀直入に「アイオワの給料はいくら?」と聞いた。僕はその質問にすっかり面食らって、正直に「5万2千ドルです」と言うと、彼は「じゃあ、5万4千ドルでどう?」と言った。呆気に取られてつい「はい」と言ってしまった。後になって、馬鹿だなー、なぜもっと高く言わなかったのかと後悔した。ただ条件があった。筋電図をやってほしいと言う。神経・筋疾患を扱う神経専門家は筋電図を主体として疾患を扱うか、神経・筋肉の形態学を中心にアプローチするか、大きく二手に分かれていたが、僕の場合は明らかに後者だった。その違いはいかに患者からの収入を確保するかの問題でもあった。筋電図とは電気生理学的に末梢神経の電気伝導性を調べることと、細い針電極を使用して筋肉の電気的活動を検査する診断方法である。この筋電図の重要性は生検に勝るとも劣らない。しかし僕は形態学者を自認していたので、筋電図の経験はレジデントの時に習っただけだった。これには参った。さてどうしよう? 打開策をいろいろ考えた。
学会から病院に帰り次第、アウグスト・ヒュギロン先生に頼んで、週二回半日ずつ、彼の筋電図の手技を見せてもらうことにした。アウグストは筋・神経部門の同僚のフェローだったが、以前から筋電図をやっており、筋電図専門の神経科医が転勤してしまったので、当座彼が穴埋めをしていた。それからケース大学で筋電図をやるにはもう少しまともな研修が必要なのではないかと思い始めた。ボストンで最もよく知られた筋電図専門家はマサチューセッツ総合病院のシャハーニ先生で、ブラッドリー先生も彼をよく知っていた。彼のところで短期間筋電図の研修ができるかを聞いてみた。できるが、夏にならないとダメと言われ、さらに研修費3千ドルを払ってほしいと言われた。足元を見られていると思ったが、どうしようもなかった。ダーロフ先生に事情を話すとすぐOKと言ってくれたので研修費を払った。研修は7月から8月にかけての4週間だった。筋電図を実際にやっていたのはスチュワートというフェロー医師、とても感じのいい快活な男で、患者にはことのほか親切だった。筋電図機器・器具の使い方、診断に関する問題点など、いろいろと勉強になった。ただし有名なシャハーニ先生にはほとんど何も教えてはもらえなかった。彼は英国で教育された神経生理学者で、米国での筋電図とはやり方が少し違う。実際のところ4週間で筋電図を簡単にマスターできるとは思えず、僕は自分自身いささか筋電図を冒涜しているのではないかという気持ちもあった。これから筋電図をやらされるのは嫌だなーというのが本音だった。クリーブランドへの引っ越しが近づいた。
ボストンでも人々は親切だった(ただ隣人の一人が妻にどこから来たのと聞くので、「クリーブランド」と答えると、「あら、最低のところね」と言ったそうだ。この女性は例外だった)。僕たちの通りには医者や研究者が大勢住んでいた。隣家には女の子と男の子がいて賢のよい遊び友達になり、彼らの両親とも親しくなった。次男が生まれるので僕と妻が病院に出かける晩には賢を預かってくれた。次男が生まれた日の午後、賢のクラスメートのお母さんの看護師さんが、賢が弟が生まれたことを朝クラスで報告したので妻の病室にお祝いを言いにきてくれた。賢と隣家のジェフリーは毎日一緒に遊んだ。ジェフリーは小さな毛布をいつも手放さなかったが、ある晩その毛布が見つからなくなってうちへも捜しにきて、外で一緒に捜したこともあった。賢はジェフリーと遊ぼうと隣家に行って、ちょうどシャワーを浴びていたお母さんにシャワーカーテンを開けて「ジェフリーはどこにいるの?」と聞いたこともあったそうで、彼女は「賢と私は親しい仲よ」と言って笑っていた。大家さんのカッツ夫人も子供たちが泣いたり騒いだりしても文句を言うことはなかった。「うちの借家人はみな自分の家を買って出ていく」と誇らしげに言っていた。次男が生まれると近所の人たちがお祝いをしてくれたが、カッツ夫人は気を遣って長男にもプレゼントをしてくれた。ムンサート先生やブラッドリー先生宅にもパーティや感謝祭のディナーに他のフェローと一緒に招待された。
長男が日本語補習校に通うようになって、近くに住む日本人の家族とおつき合いするようになった。子供博物館で日本のお正月の催しがあった時には学校総出で参加した。僕たちの親しくしていた家族の中に奥さんがアメリカ人のカップルがいて、彼女は日本語が堪能だけでなく、物腰が日本人の女性よりも女らしかった。僕と妻はすっかり感心していた。
ボストンを離れる前にもう一度パブリック・ガーデン(日比谷公園のように有名なボストンの公園)を子供たちと訪れて、白鳥の形をしている名物のスワンボートに乗った。後をついてくる鴨たちにやるためにパンを持って行った。ちぎったパンを一歳の淳に渡すと、それを食べてしまって代わりに履いていた靴をポンと池に投げてしまった。しばらく靴は浮いていたが、それから静かに沈んでいった。
再度の引越し
ケース大学病院の内科には血小板の研究で世界的に有名な斉藤英彦先生がいらして、以前からの知り合いだった。引越し準備のためにクリーブランドを訪れた時、お宅に泊めていただいた。クリーブランドに戻ってきたら、僕はしばらくの間借家住まいをしようかと考えていた。しかし彼は家を買うべきだと強く勧めてくれた。大学病院ではここ十何年必ず毎年給料が少しでも上がり続けているから心配は最初の年だけだと勇気づけてくれた。そうしたこともあって僕たちはシェイカー・ハイツという美しく、優れた学区の郊外に家を買った。今回は大学の教職員として転勤するので引越しの費用は全額を大学が持ってくれたので助かった。8月の終わり、いよいよ引越しの日がやってきた。ブラッドリー先生から3組のオス・メスのウォブラーマウスのブリーダーを将来の仕事のために分けてもらった。ボストンからクリーブランドまでは車で約10時間、夏の暑い日で、僕たち親子のほかにワゴン車の最後部に大切なマウスを乗せての旅だった。エアコンを充分効かせていたのだが、それでもマウスの臭いが漂ってきて、特に後ろの座席に座っていた子供たちは「くさいよ~」と言った。途中ニューヨーク州の高速沿いのモーテルに泊まったが、出発時には元気だった長男が気分が悪くなって、くたっとなっていた。翌日の昼頃僕たちの新しい家に到着した。賢はまだ元気がなかった。しばらくすると近所の子供たちが玄関に「遊ぼう」と呼びに来た。それで賢も外に出て行った。長いこと遊んで帰って来た時にはすっかり元気になっていた。隣家に挨拶に行くと、奥さんのジュディが手にした紙きれを読みながら日本語でウエルカムを言ってくれて感動した。自分の生まれ故郷に戻ってきたように嬉しかった。
2 マウス軸索輸送の専門家
2年間マウスの研究をしたが、やればやるだけその疾患の深遠さに興味を持つようになった。早く人間の神経科医に戻りたいとは思ったが、マウスの研究は運動細胞疾患を理解する上で非常に大切だということ、もう一つ魅力的だったのは、研究資金を調達する可能性が人間の臨床研究よりはるかに高いということだった。というのは人の病気にはあまりに多数の因子があるため、実験を設定しづらい。しかし動物ではほとんどすべての因子を設定して実験を計画できる。研究資金を出す組織としては結果がはっきりと出せる研究提案に資金を出す傾向が強いので、動物実験の方に資金が出やすいということになる。僕は既にマウスの運動細胞疾患を形態学的にかなり研究したので、次は疾患にかかった運動細胞の機能変化を研究することだと考えていた。僕はレジデントをしていた時からケース大学の解剖教室には軸索輸送に関して世界的な権威のラセック教授(Dr. Raymond Lasek)がいることを知っていた。運動細胞疾患では軸索輸送に異常を起こすという仮説があるので、それをウォブラーマウスで研究すべきではないかと考えた。ボストンからクリーブランドに引越しの準備で訪れた時にラセック先生に会って相談すると、神経疾患における軸索輸送の変化は神経病理学の主任であるガンベティ先生(Dr. Pieruigi Gambetti)が研究しているので、彼に話すのがいいのではないかと勧めてくれた。ガンベティ先生はアルミニウムの神経毒性を研究中だった。先生はウォブラーマウスに強い興味を示し、研究のために彼のラボを使わせてもらい、共同研究をすることになった。以前から知り合いのロスマン先生は筋・神経の生検に僕が診断を下すことに何ら反対しなかった。研究と診断に僕が関わることになったので、神経病理学助教授のポジションももらえることになった。
軸索輸送とは?
運動神経細胞は体の中で一番大きな細胞である。この細胞からは無数の突起が出ていて、他の神経細胞と信じられないほど緊密な連絡を取っている。これらの突起のうち一つだけ真直ぐ筋肉まで伸びている突起が軸索と呼ばれているもので、その末端で神経伝導物質を分泌して筋肉に筋収縮の指令を送る。この軸索の長さは例えば細胞本体をバスケットボールの大きさと仮定すれば、軸索の長さは4・5キロメートル以上になる。容積は細胞の本体の千倍もあるといわれている。しかも運動神経細胞の本体は軸索に必要な物質をすべて製造して軸索の中を輸送して末端まで送るのである。考えてみるととてつもない機序である。運動細胞本体の機能が正常でなければ正常な軸索輸送も期待できない。もし細胞機能が傷害されれば軸索機能も異常を起こすだろう。運動細胞疾患ではこの機能に異常があるという仮説がある。それをマウスモデルで研究しようというのが僕たちのテーマだった。それまで軸索輸送の研究はほとんどラットで行われていた。マウスはラットの10分の1の大きさで、しかも病気にかかったマウスは正常のマウスよりさらに小さい。このように小さいマウスの軸索輸送を検索するのは技術的にかなりのチャレンジだった。顕微鏡下で細かい手術が必要となる。もう一つの問題はこのマウスの運動疾患は前肢だけに起こるので主に頚髄部の病気である。運動細胞が集まっている頚髄の前角というところへ軸索輸送の研究のため数か所にアイソトープを微細注射する手術が必要になる。それまでの軸索輸送の研究はラットの腰髄を対象にして行われていた。腰椎は背中の外側に近いので脊髄に届く手術は比較的やりやすいが、ラットやマウスのようなげっ歯類の動物は頚椎が深く弯入しているのでその手術も手が込んでくる。しかもアイソトープを注射してから時を待って軸索輸送を測定しなければならない。手術で病気のマウスを失っては軸索輸送の研究はできない。マウスの麻酔もラットのようにはいかない。麻酔剤の注射ではウォブラーマウスはすぐ死んでしまう。結局はハロセーンと酸素による吸入麻酔が最も安全であることが分かった。麻酔科から手術に使わなくなった麻酔機器を貸してもらうことにした。体温を保つための温熱パッドや温熱ランプを使用し、術後のケアに気をつける方法もでき上がった。
顕微鏡下微細血管手術の集中的トレーニング
僕は指先が器用だと思ったことはない。それが外科を志望しなかった第一の理由だった。しかし今はそんなことは言ってはいられない。マウスの軸索輸送をするためには微細手術の技術が必要である。ケース大学から車で5分のところにあるクリーブランド・クリニックは心臓手術のメッカとして知られている。心臓手術のレジデントは皆微細血管手術のトレーニングを受ける。僕が以前クリニックにいた時、コノミー先生の知覚神経のラボに時々出入りしていたが、その隣が微細血管手術のトレーニングのラボだった。そこには6機のザイス製の特殊顕微鏡手術装置が設置されていた。そのラボの主任を以前からよく知っていたので、僕の実験の話をすると、微細血管手術のトレーニングを僕にもやらせてくれると言ってくれた。当時はまだ古き良き時代で、なんの書類もなしで1週間そのトレーニングを無料で受けさせてもらった。ラボの主任が麻酔にかかったラットを準備してくれた。直径1ミリの大腿動脈の血流を血管クランプで遮断し、次に動脈を切断し、その両端を10―0という極細の結紮糸を用いて周囲12か所で再結紮するのだ。先端が極細のピンセットで針と糸をうまく動かして結紮するのだが、何度も何度も同じことを繰り返しているうちにコツを覚え、一つぐらいは結紮できるようになる。自分でも驚いたが最後には4隅、その間に二つずつ合計12の結紮ができた。最後に血管クランプを外し、赤い血流が大腿動脈を流れた時には思わず「わー!」と叫んだ。人間に血管手術をするわけではないから、僕にとってはこれで十分だった。このトレーニングで顕微鏡下での細かい手術が上手になり、小さなマウスの手術にも自信が出てきた。
3 ケース大学の筋神経部門
フォーリー先生が主任だったケース大学の臨床神経科は、急速な勢いで伸び出したクリーブランド・クリニックに押され、新しい人材が来ないなど、いくつかの理由で活動が落ち込んだ。これを一新すべく、僕が来る2年ほど前に新しい臨床神経科の主任、ダーロフ先生がマイアミ大学 (University of Miami)からケース大学に招聘された。彼は神経眼科の世界的権威で、まずケース大学病院の神経眼科の診断・研究能力を増大するために、少なくとも2~3人の神経眼科の研究者を新たに補充し、そのほかにも一般臨床神経、てんかん、筋・神経部門に新しい人材を雇って大学病院と退役軍人病院(VA)の神経科を拡充した。筋・神経部門の新しい部長、シューメート先生(Dr. Jack Shumate)は非常に良い人で、すぐに良い友達になった。彼はセントルイスのワシントン大学(Wahington University)で研修した後、ケース大の助教授になった。筋・末梢神経の生検、病理診断に優れていた。彼と僕はラボを共同で運営し、筋電図も週1回ずつ交代で行った。彼は筋疾患の新しい生化学的研究を始めようとしていた。彼と僕との不思議な共通点は筋電図が好きではないということだった。ケース大学での僕の給料はほとんどVAから支給されていたが、仕事は大学病院にあった。しかし週に1回VAの神経科外来を受け持ち、年に1、2回VAの病棟主任となった。VAの地位を持つことはメリットグラントという研究資金が出ることで、多くの大学研究者はVAの地位でこの資金を得ていた。僕もケース大学に来てから一年ほどでこの研究資金をもらうことができた。軸索輸送の実験を本格的に始めた。運動細胞疾患では低速軸索輸送が障害されているのではないかと考えられていたので、まず低速軸索輸送を調べた。脊髄内のアイソトープの注射後、脊髄から出る末梢神経の軸索輸送を経時的に検索するわけで、脊髄内の注射が午後になると末梢神経の取り出しが夜遅くなることがしばしばあった。家で夕食を終え、真夜中にマウスの実験に出かけた。ケース大学でレジデントの時には患者を診るために夜の活動が多かったし、硬膜下血腫のチャートレビューでは夜の時間を使った。ケース大学というと、僕は夜間の仕事を思い出す。最初の年は自分の研究を確立することで精いっぱいだった。2年目になろうとしていた頃、少し患者のことが気になり始めた。ケース大学に来てから患者で忙しくなることがなかった。ウォブラーマウスに対応する人間の病気、すなわちALS患者を診ることはほとんどなかった。要するに患者がいないのだ。もう一度自分は人間の神経科医で、マウスの医者ではないと再確認する必要があった。ALSの患者を診なければその専門家になることはできない。そのことが少々心配になり始めた。そのようなある日、ダーロフ先生は神経科医師全員を集めて近況報告をした。彼の期待とは裏腹に収入が上がっていない、それは患者の数が伸びないからだと説明した。そのため翌年の昇給を認めることができないと苦しげに言った。
4 ケース大学からライバル病院へ
ボストンは公共交通機関が発達していたので車1台で生活ができた。しかしクリーブランドでは車がないと僕は仕事先にも通えないので、一家に車が2台必要だった。そのため僕は節約するつもりで中古のホンダ・シヴィクを買って病院への通勤に使っていた。数か月したある日、突然オイルの焼ける臭いがして、信号で車を止めると黙々と煙が出てきた。あまりひどいのでホンダの修理工場で見てもらうと、エンジン本体に亀裂が入っているという。かなり大きな事故にあったのではないかと言われた。それで僕に車を売った中古車屋とすったもんだの末、少し安い値段で引き取ってもらうことができた。もう中古には懲りたので仕方なく新車の日産カローラを買った。妻は車を買うのに靴を買うようにさっと決めるからこんなことになったのだと僕を責めたが、もう少し余裕があれば中古車など買わずにすんだのだと思った。クリーブランドで家を購入したのは1981年で、当時の住宅ローンの利子は16%と記録的に高かった。給料の小切手をもらうとそのまま銀行に持ち去られてしまうようで、銀行のために働いているようなものだった。それでも一年もすれば給料が上がり、少しは楽になるだろうと期待していた。そんな矢先、ダーロフ先生の話は身に応えた。クリーブランドに移ってきてから僕たちの生活にもっと経費が掛かるようになったためでもあるのだが、生活が今までで一番苦しかったような気がしていた。マウスモデルの実験は軌道に乗っていたが、ALSの患者の方は何の進展もなかった。フォーリー先生に相談してみようと思っていた矢先、彼は軽い脳卒中にかかり、言語障害となってしまった。彼には相談ができなくなってしまったのだ。ある日なにかの機会にコノミー先生にこうした状況を話すと、彼は一言「クリニックに来い!」と言ってくれた。
ダーロフ主任のショッキングな発表に前後して神経科から2、3人の医師が辞めていった。その一人は僕と非常に親しくなった筋・神経部門の部長、シューメート先生だった。彼は患者を対象とした臨床研究のための資金の応募をいくつか試みたが、うまく行かなかった。このことは患者を対象とする研究企画がいかに難しいかを示していた。彼はフロリダで開業することに決めた。僕は彼に自分の現状を説明した。しばらくしてクリーブランド・クリニックから僕の席を確保したと言ってきた。クリニックの神経科は数年の間に急速に成長し、患者の数も急増して臨床ではケース大学病院の神経科とは比較にならないほどになっていた。ケース大学の神経科は臨床研究に重みを置いていたが、臨床でもクリニックに対抗しようと激しい競争意識を燃やしている真っ最中だった。その競争相手のところへ僕は行こうというのだ。そのことを自分を呼んで雇ってくれた主任のダーロフ教授に言わなければならない。彼は竹を割ったような考え方をし、嘘のない良い人だったから、とても言い出しづらい。今日言おうか、明日にしようかとぐずぐずしていると、ついに彼の方から会いたいと言ってきた。以前フォーリー先生が使っていた懐かしいオフィスに行くと、彼は早速話を切り出してきた。「クリニックに行くと噂を聞いたが、本当か?」僕は頭をたれて「はい」とだけ言った。驚いたことに僕が初めて彼に会った時のように「給料はいくら?」と聞いてきた。「8万ドルです」そこで彼は計算器を出してパチパチとやっていたが、「うーん、とてもダメだな」と言っただけだった。このようにしてまたクリニックに舞い戻ることになった。ひどく悪いことをしたと思った。