第5章 帰国準備のためボストンへ
1 「マウス神経科専門医」への道
多くのアメリカ人のように、僕たちも数年の間にボルティモアからクリーブランドへ、クリーブランドの中でも、アパートから借家へ、それから一戸建ての持ち家へと引っ越した。今度はボストンの郊外のニュートンという町のゲイ・ストリート(この通りの標識はよほど人気があるとみえてよく盗まれた)にある借家に移った。大きな二階建ての家で、下には大家さんである親切なユダヤ人のお年寄りの未亡人が住み、二階が僕たちの住み家だった。寝室三つ、キッチン、食堂と応接間など結構な広さだった。だが妻は一歩足を踏み入れると、自分が選んだにもかかわらず、短い間でも一軒家の主だったからなのか、「こんなところ嫌だ~」と泣きべそをかいた。
引越しにはお金が掛かる。運送会社に頼まずに、またユーホールのお世話になることにした。大きなトラックを一台借りて、クリニックの写真部門の部員と友達になっていたので、そのうちの親しい二人に引越しを手伝ってもらった。家財道具をトラックに詰め、それを彼ら二人が交代で運転して、僕が自分たちの車を運転して1000キロの距離を走っていった。これが最も安上がりに引越しをする方法だった。引越しが終るとお手伝いの彼らはボストンを見物して飛行機でクリーブランドに帰ったが、一人は初めて飛行機に乗るので喜んでいた。
タフト大学
タフト大学医学部と病院はチャイナタウンのど真ん中で、しかもコンバット・ゾーンと呼ばれた悪徳と犯罪率の高さで知られていた区域にあった。僕がフェローを始めた頃には早朝にやつれきった女がふらふら歩いていたし、夜帰宅する時にはけばけばしくお化粧をした女たちが街角に立っていた。こうした町の様相は急激に変わって、僕がいた2年以内にすっかり清掃された。だがチャイナタウンは相変わらずごちゃごちゃしていて、たまに食材を買いに食料品店に入ると、いつも中国語で話しかけられた。僕らも彼らも中国人か日本人かはなかなか分からない。
タフト大学の臨床神経科はこじんまりとしていた。レジデントは年に3人ほどで、神経科の教職スタッフも5、6人でケース大学のそれと似ていた。主任教授はテッド・ムンサート先生(Dr. Theodore Munsat)で末梢神経・筋疾患では有名だったし、ブラッドリー先生も同じ領域でよく知られていた。彼は副主任で末梢神経・筋疾患に関する研究をすべて取り仕切っていた。彼らは筋萎縮性側索硬化症(ALS)の多職種による総合クリニック(集学的多職種ALSクリニック)を週1回開いていて、ALSの診断・治療・研究に力を注いでいた。当時ボストンにはこの二人に匹敵するような末梢神経・筋疾患の専門家はいなかったので、そうした患者は選択的にタフト大学に紹介されてきた。筋・神経生検診断ラボはブラッドリー先生の管理下にあって、臨床フェローの活動の中心だった。このラボは大きく、周りには生検された筋肉と神経を処理する実験テーブルとさまざまな器具が並び、部屋の中央には6人が同時に座って観察できる多頭式顕微鏡が置かれていた。僕はリサーチ・フェローで、他の二人、ジョン・ケラマン先生(Dr. John Kelemen)とデイビッド・チャッド先生(Dr. David Chad)は臨床フェローだった。彼らとは毎日狭いオフィスで一緒に勉強した。この時以来非常に親しい友達としてつき合っている。今でも毎年アメリカ神経アカデミーの学会で、ブラドリー先生と共に必ず集まって食事をして旧交を温めている。この他にイタリアやスペインなどから外国人フェローが一年間自費留学のオブザーバーとして加わっていた。臨床フェローは外来および入院患者の臨床に関する筋・末梢神経の問題をすべて取り扱うが、リサーチ・フェローの僕は患者とは関係のない実験動物の研究が仕事だった。フェローが皆一緒に集まるのは顕微鏡による週1回の生検診断のレビューとジャーナルクラブで、これは各フェロー、あるいはブラッドリー先生が選んだ興味ある課題を文献をレビューして皆に報告するのである。
ウォブラーマウス
リサーチ・フェローとしての僕の仕事はウォブラーマウスを形態学的に検索することだった。ウォブラーマウスは遺伝性の運動ニューロン疾患を起こすハツカネズミで、ブラッドリー先生がまだ英国にいる時に実験を開始した動物モデルで、ボストンに運んで来たのだった。一人の研究助手がこの動物の世話をしていた。疾患は常染色体の劣性遺伝子によるもので、この遺伝子を1個持つものをブリーダーと呼び、雄と雌のブリーダーを掛け合わすと子ねずみの約半分がウォブラーマウスになるのだが、変異遺伝子が分かっていないので生後3~4週間して症状が出てくるまで診断ができない。その少し前に疾患のある子ねずみは細かく震える傾向がある。発症すると子ねずみは左右に揺れ、体が震えるのでウォブラーと呼ばれているのだ。不思議なことに病気は集中的に前肢に起こり、下肢はほどんど侵されず、あっても軽度である。運動ニューロン疾患ではある種の運動ニューロンが選択的に侵されることがこのマウスモデルでもよく分かる。当時人間の多くの変性神経疾患の原因が皆目分からず、研究のしようがなかったので、ハツカネズミに自然に起こるさまざなマウスモデルが人間の病気を解明するために研究された。ジストロフィーマウス、ジンピーマウス、トレンバーマウス、クエーカーマウスなどで、これらのマウスを使って人間の疾患を理解するためにいろいろな方法が試みられた。ウォブラーマウスもその一つで、運動ニューロン疾患を理解するために利用された。
僕は形態学、特に電子顕微鏡検査が得意だと思っていたので、これを使ってウォブラーに起こる疾患がどこから始まるのかを検索することにした。しかし得意といったのは電顕で見る方法であって、電顕の切片を自分で作ったことはなかった。クリーブランドでは僕は「神経病理学者」だったので、研究技師が全部やってくれたのだった。リサーチ・フェローとなると一から十まで全部自分でやらなければならない。マサチューセッツ工科大学卒業の非常に優秀な技師のポールがガラスからナイフを作る方法から必要な溶液の作り方、ダイヤモンドナイフの使い方、タフト大学の新しい電子顕微鏡の使い方、電顕写真の現像の仕方まであらゆることを教えてくれた。僕は電顕写真の撮り方以外は何も知らなかったということが自分でもよく分かった。それにマウスコロニーの育て方、ブリーダーの選択、いかにウォブラーマウスを生産させるか、ウォブラーマウスの育て方、マウスの灌流固定法などを新しく学んだ。
さてこのマウスの運動ニューロン疾患の病理はどこから始まるのだろうか? これは病理原因を理解する上で避けられない疑問だった。ニューロンの本体からか、あるいは軸索からか? もし軸索からだとすると細胞体の近くの軸索か、または筋肉に近い末端からか? しかも形態的に認められる変化はいつ始まるのだろうか? こうした疑問に答えるためには運動神経ニューロンの細胞体レベルから軸索、筋肉までの異なった場所を調べ、しかも病気の発症前から発症後にかけての形態的な変化を経時的に調べなければならない。次の疑問は運動ニューロン疾患は運動ニューロンが死滅する病気、すなわち生存する運動ニューロンが減少する病気である。この現象を捉えなければならない。しかし立体的に存在し、複雑な形態の神経ニューロンの数を数えるのは至難の業と考えられている。というのは、この不定形のニューロンを組織の中で正確に数えることが組織の連続切片を調べても難しいからである。しかし脊髄前角に集まっている神経ニューロンから出ている運動神経線維、すなわち運動ニューロンから出る1個の軸索はすべて前根(腹側根とも言われる)を通過して後根から出る知覚神経線維と混合して末梢神経となるので、前根の神経線維、軸索の数を詳しく測定すれば、生存している運動ニューロンの数と状態を正確に把握することができる。そのために神経線維の数を測定する組織測定法を採用することにした。要するに写真を撮って、それで神経線維の数と大きさをパーティクル分析器で測定するわけである。こうして朝から晩までウォブラーマウスとその組織と共に過ごす毎日が始まった。
アルバイト生活
フェローに逆戻りだったので、給料はクリーブランド・クリニックの准スタッフ時のほぼ半分になった。日本に帰国するための覚悟の移動だった。一年後には次の子供も生まれることになっていたため、アルバイトをしなければと思っていた。マサチューセッツ州の医師免許証は取れたし、神経科の専門医でもあるので神経科医として仕事ができた。友達になったフェローもアルバイトをしていて、僕にも仕事を回してくれた。その一つは州立病院のルミュエル・シャタック(Lemuel Shattuck)病院で、障害者の認定をする仕事だった。その病院は地下鉄で30分掛かるボストン市の外れにあった。患者は皆さまざまな神経系統の疾患にかかっていた。1週間に1回午後3時間、数人の患者を診察し認定証を発行する。診断はもうそれ以前につけられているので、医学的な興味のわかない仕事だった。もう一つの仕事はボストン夜間クリニックで、神経科のコンサルタントをするユニークな経験だった。初めはデイビッド・チャッド先生と交代で勤めていたが、そのうち毎週の常勤になった。夜7時から9時まで3、4人の患者を診るのだが、疾患がバラエティーに富んでいて医学的に興味深かった。重症な患者はこうしたクリニックには来ないのであまり苦労はしなかった。最後の仕事はスポールディング・リハビリ(Spaulding Rehabilitation)病院で月1回、金曜日の5時から月曜日の朝までの長時間の週末当直だった。このリハビリ病院はマサチューセッツ総合病院(MGH)という以前僕が見学させてもらった世界的に有名な病院に付属していた。150床あり、リハビリ患者の全員がMGHから送られてくる。リハビリのための心臓集中治療センターもあり、重大な問題が起こればすぐに本院に戻すのが原則だった。それでもいろいろな問題が起こって当直医が呼ばれた。このようなアルバイトのお陰で全体の収入はクリーブランド・クリニックでの准スタッフとほぼ同じになり、金銭的にも息がつけるようになった。
マウスモデル以外の人の研究
ブラッドリー先生が僕に与えてくれた(もっとも僕がお願いしたのだが)もう一つのリサーチ課題は、進行性外眼筋麻痺患者から生検で得られた骨格筋の電子顕微鏡的検索だった。この稀な疾患は目を動かす小さな筋肉(外眼筋)が徐々に麻痺し、そのため目の動きができなくなる病気で、外眼筋だけが侵される症例が多いが、その他にも心臓の不整脈あるいは伝導ブロック、内分泌異常、低身長など全身にさまざまな問題を引き起こすことが知られていて、進行性外眼筋麻痺プラスなどと命名されていた。体の骨格筋を生検して特殊染色のゴモリ染色をすると、筋細胞の辺縁に不正形に赤く染色される異常(ラゲッド・レッド線維)が見出される。この変化は細胞内エネルギーを生産するミトコンドリアの異常によるものと考えられ、外眼筋以外の骨格筋にこうしたミトコンドリアの異常が見出されるということは、全身のミトコンドリアの異常を示唆するものと考えられていた。そのミトコンドリアの異常とは何なのかを形態学的に研究することが僕に与えられた課題だった。これは共同研究で、この研究に適合する患者を診て選択するのがハーバード大学の神経眼科のシャーリー・レイ先生(Dr. Shirley Wray)、筋疾患の専門家のブラッドリー先生、そしてミトコンドリアの生化学的異常を調べるタフト大学生化学のジューン・アプリル先生(Dr. June Aprille)だった。僕の役割はブラッドリー先生と彼のフェローが生検した骨格筋のミトコンドリアの形態的研究で、電顕でその量的・質的形態異常を検索することだった。この進行性外眼筋麻痺の研究のために僕らは3つのグループを作った。1はラゲッド・レッド線維のある8例の症例、2はラゲッド・レッド線維のない5例の症例、3は5人の健康成人の比較対象群である。ステレオオジーと呼ばれる三次元の組織内形態構造を定量解析できる測定法を用いて筋線維細胞のミトコンドリアの量を測った。グループ1、2ともミトコンドリアの量は正常のグループ3に比べて明らかに増加していた。形態的異常を示すミトコンドリアはラゲッド・レッド線維のグループに顕著に見られた。この仕事は「ニューロロジー(Neurology(神経学))」という最も権威ある臨床神経学雑誌に発表された。ブラッドリー先生には人間の病気の研究もしたいと頼んでいたので、この仕事は僕にとって大きな意味があった。
2 マウスの病気と人間の病気(筋萎縮性側策硬化症、ALS)
2年近く明けても暮れてもマウスの病気を研究していると、僕はマウスの神経科専門医になったような気がした。このマウスの病気と対応している人間の病気、ALSでも同じことが起こっているのだろうかと考えるのは当然だった。ALSの文献を漁り始めた。文献がタフトの医学図書館になければ、ハーバードの大きなカウントウェイ図書館にもよく行った。ALSに関する文献を見ると研究は進歩しているとはとても思えなかった。人間に対してできることは極めて限られているが、マウスなら思いのままの研究ができた。しかしウォブラーマウスに発現する運動ニューロン疾患を研究すればするほど、といってもたかが2年間足らずなのだが、このマウスの疾患の病態または疾患の深遠さに触れて、このウォブラーマウスの研究を一生し続けても原因は分からないのではないだろうかという焦燥感にかられた。一方、人間の病気、ALSはもっと分からない疾患である。どうせ同じように分からない疾患なら、一生を人間の疾患のために費やすべきであると思うようになった。ムンサート先生は時々ラボにきて世間話をしたりするのだが、人間の病気のモデルとしてのマウスモデルを研究することにかなり批判的で、実験動物の限界というようなことをよく話していた。モデルはモデルとしての意義しかない、モデルの病気を研究することによって人間の病気を解決することはできないと彼は言った。しかし一方では、このモデルは運動ニューロン疾患とは何なのか、運動ニューロンの死滅がもたらす神経線維・軸索への影響、骨格筋の萎縮の減少、人間の運動ニューロン疾患に起こる現象を理解する上でこれほどのモデルはないと、僕は帰りの電車を待ちながら駅のプラットホームで考えていたこともあった。
2年目の後半にムンサート先生に頼まれて、半日ALSクリニックのディレクターを勤めることになった。ちょうどブラッドリー先生も不在だったので僕に頼んだのだろう。こういうことは数回起こったが、動物の病気から離れて人間の患者を見ることは少し不安だったが、貴重な経験で新鮮な気持ちになれた。ALSクリニックは神経科医のほかに理学療法士、作業療法士、看護師、ソーシャルワーカーなどの多職種が集まって患者を診る総合クリニックで、その新しいコンセプトに目を見張った。将来僕もこうしたクリニックを設立したいと思った。
将来の目的はALS
2年目の秋にアリゾナのフェニックスでMDAが主催したALSの特別シンポジウムが開かれた。僕はMDAのフェローであったことと、ALSモデルの研究をブラッドリー先生の下でやっていたことで、このシンポジウムに招待された。米国中のALSの研究家がこのように集まったのは珍しいことだった。参加者はそれぞれの分野で新しい興味深い研究をしていて、彼らの発表は僕にとっては真新しいものばかりで、素晴らしく勉強になった。将来ALSをやろうという決心が固まった。平野朝雄先生とは以前神経病理学のフェローの件でお世話になったこともあって既に知り合っていたが、特に気が合って、学会の終わった後、一緒にグランドキャニオンを小さなセスナ飛行機で見物した。一時間ほどの空の観光だったが、飛行機であちらこちら広大な峡谷を飛びまわる旅はスリル満点だった。平野先生のハーバード大学の学生の息子さんが夏休みを日本で過ごし、帰って来て日本語が喋れるようになったと喜んでいらしたのが印象的だった。その息子さんが将来コロンビア大学神経科で同僚となる平野道夫先生だ。ともかくセスナ飛行機での見物は楽しかったが、無事に戻れたことも嬉しかった。その後平野先生には研究の面でも大変お世話になった。ウォブラーマウスの研究で神経の電顕を見続けて何百枚もの写真を撮ったのだが、そのうちどうしても形態学的に説明のできない写真、または奇妙奇天烈な神経の構造写真が何十枚もあった。ブラッドリー先生にも見てもらったがよく分からなかった。もうタフト大学でのフェローもそろそろ終わりに近づく頃だったが、やはりどうしてもこれらの写真を神経病理の世界的権威である平野先生に見てもらいたいと思った。電話でお願いすると快く見て下さるという。感激して喜んで早速伺った。神経変性疾患では特に有名なユダヤ系のイェシバ大学のアルバート・アインシュタイン医学部付属のモンティフィオーレ(Montefiore)病院を訪ねた。先生の神経病理教室には数人の日本人のフェローが研修をしていて日本の教室のようだった(因みに平野教授の下には日本から合計100人以上の神経科のフェローが研修に来て、先生は日本の神経学の発展に大きく貢献した功績で勲章を受章している)。僕は平野先生と彼の研究員の皆さんにウォブラーマウスの研究に関する講演を一時間ほどさせてもらい、その後先生に僕の電顕の写真を見てもらった。おそらく100枚ぐらいあったかと思う。先生は一枚一枚、この変化はこうですとか、この変化は変わったように見えるけれど実際はこうなっているはずですとかいうように、紙に鉛筆でその構造を書き直して詳しく説明してくれた。ある写真ではすっかり興奮して「やー、これは珍しい!」とその理由を説明してくださった。いろいろ考えてもその構造が先生に分からないものもいくつかあった。僕は先生のフェローでもないのに、大変親切に2~3時間もかけて写真を見てくださった。僕は感謝の気持ちでいっぱいだった。平野先生は学者としても教師としても実に立派な方であることを得心したことだった。
3 日本かアメリカか?
このようにさまざまな苦労をしてまでもリサーチフェローとして研究をしたのは、それから日本の東邦大学に戻ることが目的だった。しかし時と共にその目的が次第にあやふやになっていった。既に9年も米国に滞在し、上の子が七歳、下の子は一歳になり、家族のことも考える必要が出てきた。「日本、日本」と言っていたのも次第に言葉だけになっていった。果たして日本に帰ってうまく受け入れられるかどうかが心配になり始めた。帰国してまた新しい生活を始めるのには経済的な心配もあった。しかも日本に帰ってまた兄の世話にはなりたくないという気持ちも強かった。確かに何人もの昔の第二内科の親友がいたが、彼らのほとんどは開業してもう第二内科にはいなかった。岡谷さんは特別な友達だったので、帰国した時に僕が戻れる可能性のある病院があるかなどの話をして、彼の考えを聞くと「君はアメリカでやったほうがいいよ」ときっぱりと助言してくれた。日本は相変わらず学閥が強く、卒業大学か卒業大学が持っているジッツ(ドイツ語の席という意味で、大学または医局が他の大学の教授のポジションを持っていること)でないと入れてもらえない。東邦大学のような新しい医学部では他の大学または医局のジッツがない。要するに大学病院で仕事をしたいのなら僕の場合東邦大学に戻るしかないわけだ。阿部先生は僕を喜んで迎えてくれるであろうし、それが最も良い方法なのだが、戻ってもそこで僕自身を伸ばすことができるのか、その辺が一番重要な問題だった。また日本で新しい違ったことを始めることも難しいと思った。今自分のやっていることをそのまま伸ばせる仕事場を探さなければならない。既に米国にも僕を強力に支援してくれる立派な先生たちや友達がいたし、だんだんと僕の将来は米国にしかないと思い始めた。
職探し
米国に留まるならば職場を探さなければならない。ボストンは学問的・学術的にこれ以上の市はあまりなく、しかも歴史も文化もある魅力的な市なので、多くの医者や研究者は低い給料で、しかも自分の能力より低い職席レベルに甘んじてボストンに住んでいた。僕もできればタフト大学に残りたいと思った。ムンサート先生もブラッドリー先生も賛成してくれたが、サラリーを賄う研究資金がなくなると大学の席を維持できなくなる危険があり、しかも給料は低かった。そのような不安定な職に甘んじることはできなかった。ブラッドリー先生は親身になって僕の職探しに協力してくれた。国立神経センター(NINDS)のエンゲル先生(Dr. King Engel)が研究員を探していると教えてくれた。しかし彼についてあまりいい噂を聞いていなかったので僕は興味がなく、ブラッドリー先生にインタビューには行かないと言った。すると彼はそれは間違っている、インタビューに行って人に会うことは非常に大事だ、人に会うことによって知人や友人ができるのだと教えてくれた。その助言に従って僕はエンゲル先生のところへインタビューに行った。僕は数人の小さな研究グループに今までやっていたマウスモデルの講演をした。エンゲル先生の奥さんはアスカナス先生といって同じく筋肉の専門家だった。ディナーに招待され、充実した時を過ごすことができた。エンゲル先生は静かな無口な人だったが、想像していたよりはるかに社交的だった。しかし彼らは僕のやっていた実験動物の研究には興味がないようだった。
次のインタビューはアイオワ大学(University of Iowa)だった。この大学は米国の中でも臨床神経学を築き上げた学者、サー先生が輩出していることで有名だった。そこでも助教授の人材を探していた。臨床神経科教室の主任はヴァン・アレン先生(Dr. Maurice Van Allen)で、彼の兄もやはり教授で、ヴァン・アレン帯という地球の周囲の強力な放射能ベルトを発見した物理学者だった。ヴァン・アレン先生は当時「アーカイブス・オブ・ニューロロジー(Archives of Neurology)」の編集長だった。彼は僕の恩師のフォーリー先生に態度や感じが似ていて、威厳があるのに優しく、非常に親切な人だった。何人もの職員とインタビューをした。驚いたのはその中に木村淳先生という日本人の教授がいたことだった。先生はカナダで神経学を研修してから米国に来て筋電図の専門家になられた。僕をお宅に招待してくださり、奥様の手作りの美味しい昼食をご馳走になった。木村先生はその後有名な筋電図の本を書かれ、京都大学の教授となり、ブラッドリー先生の後任として「筋肉と神経(Muscle and Nerve)」の編集長を務め、現在でも米国と日本をまたにかけて活躍をなさっている。先生にはその後ずっとなにかと目をかけていただいた。少しして、アイオワ大学から助教授の職をオファーされた。だがアイオワ市内を流れているミシシッピー川の泥色の水には馴染めなかったし、小奇麗で整頓した大学町だったが、とても小さな町でもあった。