第4章 臨床神経学研修
1 ユーホール・チャレンジ
いよいよボルティモアからクリーブランドへ移ることになった。アメリカ人は頻回に職を変えることもあってよく引っ越しをする。運送会社に頼まずに自分で引っ越しをする人たちのために、ユーホールという会社がアメリカのいたるところにあって、運送用のトラックや小さなトレーラーを貸し出して便宜を図っている。日本人の友達やアメリカ人のインターン、レジデントも皆そうやって引っ越していた。僕たちは身の回りの物しか持っていなかったので、当然ユーホールを借りて引っ越しするつもりだった。人に聞いてみるとクリーブランドへの道には山はないという。ユーホールの店で、僕の車、1・5リットルの小さなフェアレディを見せて、この車でも一番小さなトレーラーを引っ張ることができるかと聞いてみた。マネージャーは「全然問題なし!」と事もなげに言った。安心して最小のトレーラーを予約した。出発の前日トレーラーを僕の車に連結してもらった。アパートに帰って持ち物をトレーラーに詰め込み、準備完了!
翌朝、一年住んだアパートを後にボルティモアからハイウェイ70を北西に向かった。車は順調に進んだ。一時間もすると緩やかな上り坂になり、また下り坂になった。いくつかそれを繰り返すと、勾配は次第に長く、急になってきた。驚いたことにエンジンの温度が上がり始めた。坂の頂上に着くと温度計のゲージは安定し、下りでは温度が下がった。山などないと言われたが、それは山以外の何ものでもなかった。後から分かったことだがそれがアパラチア山脈だった。上り坂はますます急になり、温度計のゲージはどんどん上がる。ボルティモアの海底トンネルでの悪夢が蘇ってきた。トレーラーが原因であることにもはや間違いはない。クリーブランドまでまだ550キロもあるのだ。トレーラーを引いていくのはとても無理だと思った。ハイウェイに次の町のサインが出てきた。ここでハイウェイから下りることにした。町の名はフレドリック。町は小さいが幸いにして運送屋もユーホールもあった。まず僕たちの所持品を運送屋に預けた。それからユーホールに行ってトレーラーを取り外してもらった。自由の身になって、やっと僕たちはクリーブランドへ向かった。
このフェアレディにはボルティモアにいる時から手こずっていた。排気管が腐り、エンジンの元のところから取れてしまったことがあった。修理工場に持って行くと排気管はカリフォルニアから取り寄せなければならないと言う。それから3か月間ほど僕たちのスポーツカーはトラックのような物凄い爆音を出して、僕たちが出かけたり、帰ってきたりする度に近くのアパートの人たちが「ヒロシの車だ」と知ることになり、迷惑していた。T先生が運転している時にもよく故障していて評判の悪い車だったそうだ。僕はそんなこととは知らずに買ってしまったのだった。二度もひどい目に遭って僕はこの車がすっかり嫌になり、クリーブランドに着き次第車を買え換えることにした。フォード車の販売店に行くと、たまたまそこの社長がクラッシクカー・マニアですぐにフェアレディに興味を持ち、一年前に買った時より良い値段で買ってくれた。代わりに4ドアで、妻が運転しやすいようにオートマチック車を買った。
アパートに着いたが、スポーツカーで運べるものは着替えくらいに限られていたのでほとんど何もなかった。キッチンとバスには電灯があったが、リビングルームと寝室には備えつけの電灯が一つもなかった。床にはカーペットが敷いてあったが、僕たちは布団も毛布も持っていなかったし、お鍋の一つもなかった。
驚いたことにフォーリー先生のレジデントの中に日本人がいた。松本博之先生で、3年目のレジデントだった。その数年前にも田代邦夫先生という方がレジデントをしており、彼らが非常に優秀なレジデントだったので、僕は日本人であるということで面接を免除されるという大恩恵を受けたのだった。松本先生ご夫妻はそれはご不自由でしょうと、毛布やお鍋や電気スタンドなどを親切に貸してくださった。運送屋は数日内に荷物を届けるはずだった。ところが、なんとアメリカの運送業の労働者組合が引っ越しシーズンの最盛期にストライキに突入したのだ。いつストライキが終わるのかいらいらしながら待って、やっと僕たちの荷物が届いたのは3週間もたってからだった。その間も松本先生ご夫妻がハウスセールという個人が不要になった家具などを安く売る新聞広告を教えてくださり、いっしょに個人宅へ行ってベッドや机やソファなどを購入し、運ぶのも手伝ってくださった。ほかにもクリーブランドの生活についていろいろな情報をくださり、大変お世話になった。
2 素晴らしかったケース大学での神経科レジデント
天と地の違い
レジデントの始まる数日前にフォーリー先生に挨拶に伺った。先生はオフィスにはいなかったが、秘書のショットさんがカフェテリアにいるはずだと僕をそこへ案内してくれた。朝のカフェテリアは混んでいた。ショットさんは彼がどこにいるのかよく知っているようで、まっすく僕を彼の居場所に案内してくれた。フォーリー先生は外のベランダのテーブルに他の医者たちとコーヒーを飲みながら歓談していた。眩しい朝日が横から照っていた。彼は立ち上がりながら、「ドクター・ミツモト、よく来てくれました。会えて嬉しいですよ」と言って握手してくれた。とても背が高く、朝の太陽が彼の顔に射して僕にはとても神々しく見えた。彼の態度には温かさと優しさがあふれ出ていて、僕は「あー、素晴らしいところに来たのだ」と思った。先生は早速カーペンター先生のオフィスに僕を連れて行ってくれた。カーペンター先生は嬉しそうに僕を出迎えてくれた。
僕のほかに3人の新しいレジデントが加わり、レジデントは3年間全部で12人、教育スタッフはフォーリー、コノミーとファーガソン(Dr. John Ferguson)先生が成人、レビンソンとホロヴィツ先生が小児神経学で5人という小さな教育組織だった。その他にも数人の開業医である神経科医が個人の患者を入院させるので、20床ほどの臨床神経科病棟は忙しかった。また車で5分のところに退役軍人病院があり、この病院もケース大学病院の管轄なので、僕たちは3か月間臨床神経科病棟の責任を持つのだった。1年目のレジデントは僕のほかにアメリカ人二人ともう一人はレバノン出身者だった。僕と妻はアメリカ人のハリー・ブレマーと奥さんとはとても親しく家族づき合いをした。彼は故郷のイリノイ州に帰り、開業をして小さなクリニックの所長になったが、僕はずっと連絡を取っていた。ジョー・ジェブリーはレバノン人で大変やる気のある面白い男だった。電気生理学に興味を持ち、ノルウェーの世界的に有名なストルバーグ先生の下に単一筋線維の筋電図を学びにも行った。その後ボストンの退役軍人病院に移ったが、アメリカ食品薬剤局の所長に応募したこともあり、僕は彼のために推薦状を書いたことがある。彼はいつも新しいことを考えていた。
ここで僕たちレジデントは徹底的に神経疾患の患者の診方と考え方を教えられた。フォーリー先生の患者への人道的な考え方、すなわち患者のためを第一に考えることから教えられた。患者に対する親切かつ親身な対応の仕方を、毎日彼の診察を観察することで教えられた。彼は救急室が医療過誤の最も起こりやすい場所であるといつも強調しており、僕たちにさまざまな救急患者の診断・処置に関して基本をよく教育してくれた。夜間コンサルトの場合は、上のレジデントに電話で症例を提示し、ほとんどの場合家から来てもらうことになっていた。まだレジデントになってから間もない時、僕は当直で簡単な症例について上のレジデントに話すと来る必要はないとの結論に達した。翌朝フォーリー先生は上のレジデントが来なかったことに激怒して、僕とそのレジデントはすごく叱られた。当直中に起こった症例コンサルトは患者を診る下のレジデントとコンサルトを受けた上のレジデントが相互に学ぶ機会なので、自宅待機である上のレジデントは病院に来て患者を診なければならないことを先生は強調した。その後僕はどんな症例でも上のレジデントに必ず来てもらった。フォーリー先生は以前はものすごく厳格だったと聞いた。僕がレジデントを始めた頃にはだいぶ柔らかくなったそうだが、いい加減な診療を決して許さなかった。当時フォーリー先生はアメリカの臨床神経学教室の主任を最も数多く育てていた。例えば、ハーバード大学付属のマサチューセッツ総合病院神経科主任のジョー・マーティン(Dr. Joseph Martin)、ロンドン大学病院の神経科主任マイケル・スワッシュ(Dr. Micheal Swash)、カリフォルニア大学アーバイン校の神経科主任スタンレー・ヴァン・デン・ノート(Dr. Stanley van den Noort)、アリゾナ大学のジョン・フィールズ(Dr. John Fields)などがいる。それに日本人では田代先生は北大の神経内科の主任教授になり、松本先生も札幌医大の神経内科の主任教授になった。
一方、フォーリー先生の両親はアイルランドからの移民で、アメリカに来てから大変苦労されたそうだ。そういうこともあってか、僕たち外国人医師に対しての思いやりが深かった。
コノミー先生は後にクリーブランド・クリニックの神経科主任になり、フォーリー先生が育てた主任の一人だった。神経学の生き字引のような人で、驚くほど知識が広く深く、記載された文献の年数などを詳しく記憶していた。僕たちのレジデント・グループは彼がレジデント教育の主任になった初めての年だったので、とてもよく面倒を見てくれた。僕の臨床神経学の最も大切な土台を作ってくれたのはフォーリー先生とコノミー先生である。しかも学んだことの中で最も大切なことは、常に患者を第一に考えて臨床を行うという鉄則である。コノミー先生もアイルランド系であることに強い誇りを持ち、二人とも逸話を話し、人を笑わせるのが大好きで上手だった。ファーガソン先生は日本の海軍病院で2~3年臨床神経科をやっていたので少し日本語を喋ることができて、日本びいきだった。彼はいろいろ考えてから臨床の結論を出すのだが、その思考の順序を教えてくれるのでよい勉強になった。これらの先生たちはそれからずっと僕の先生であっただけでなく、同僚・友達としてもつき合ってくれた。カーペンター先生はボルティモア市立病院から内科主任教授として就任してきていたが、こちらは同じ病院から来たといってもレジデント1年生である。時々忙しく人々が行きかう廊下などでカーペンター先生が大きな声で「やー、ヒロシ!」と声をかけてくれた。僕も親しげに返事をするのだが、他の人たちはびっくりして、なんでこの新人のレジデントがお偉いカーペンター先生を親しそうに知っているのかと訝しがっているのがわかった。もちろん僕は得意だった。ボルティモアでは僕はインターンで精神的・肉体的に疲労困憊していたので、カーペンター先生の内科主任としての能力のことを気にかける余裕もなかったが、ケース大学では臨床神経は内科の一部だったので、内科のグランド・ラウンズにも毎週出席した。カーペンター先生のチーフとしての知識と能力は素晴らしいもので、僕にはよい内科の勉強にもなった。
当直は三日に1回でインターンの時から比べると天と地の違いだった。出勤時間も帰宅時間も普通の会社員と変わらず、初めて正常な時間に妻と夕食を共にすることができるようになった。当直でなければ週末には買い物やドライブに行くこともでき、たまには外食することもあった。まさに夢のようだった。コノミー先生や同僚や上のレジデントなどが食事に招待してくれたり、こちらも招待をしたり、大学には日本人の研究者が何人もいて、親しくおつき合いするようになった。
クリーブランドの人たちも親切だった。外国人留学生のためのサービスがあって、名高いクリーブランド・オーケストラに無料招待してくれたり、「Council on World Affairs」という慈善団体は留学生の妻たちを毎月家庭集会に招待して、お茶とお菓子を出してアメリカの行事などを紹介したりしてくれた。また近所に住む婦人が英会話教師としてボランティアをしてくれていて、毎週妻は彼女の家で他の日本人の奥さんたちと会話の練習やアメリカ生活についていろいろ教えてもらっていた。
僕たちのアパートは十階建てくらいで、贅沢ではないが小ざっぱりしていた。ボルティモア市立病院でレジデントをしていたバンクス先生がやはりクリーブランドに移るので、彼にアパートを探してもらい、彼の移るアパートに僕たちも入ったのだった。家賃は月180ドルで、ボルティモアより100ドルも高かったが、僕の年給もその分上がっていた。アパートはクリーブランド市とシェイカー・ハイツという素敵な郊外市の境にあって、歩いてすぐに洒落たお店が並んだシェーカー・スクエアがあり、主に通勤のためにダウンタウン行きの電車の駅があった。しかし車でも電車でも荒廃して犯罪の多いダウンタウンに行くことはあまりなかった。
アパートの住人は老人が圧倒的に多く、若いのは僕たちとアメリカ人のバンクス先生ともう1カップルだけだった。管理人も老夫婦で、ウエスト・バージニア州の炭鉱夫だったが、石炭の粉を吸って黒肺塵症になって仕事をやめ、オハイオ州に移ってきたのだった。どこへも旅したこともない素朴な人の良い親切な人たちだった。働き者で毎日アパート中を磨いていた。
2年目のレジデントが始まって間もなく長男が生まれた。陣痛が始まってから大学病院へ入ったのだが一日たっても生まれず、担当の産婦人科医は帝王切開の準備を始めた。僕はどうなるのだろうと気が気ではなく、この時ばかりは神仏に祈った。コノミー先生が心配して様子を見に来てくれた。産婦人科医はあと10分、あと10分と忍耐強く待ち、とうとう自然分娩で産むことができた。男の子だった。賢と名づけた。フォーリー先生はグランド・ラウンズで僕の子供が生まれたことを発表してくれ、「ケントでもなく、ケネスでもない、ただのケン」と皆に説明した。僕たちは日米に通ずる名前を選んだのだ。アメリカではファーストネームの次にミドルネームといって家族や友人に関係した名前をつけることが多く、僕たちはフォーリー先生のファーストネームをいただいて、ケン・ジョセフとした。
レジデントの臨床研究
レジデント2年目になって、僕は病棟のチーフレジデントとして新入レジデントの面倒をみることと文献を読んで知識を増やすことに努めた。臨床神経のコンサルトは病院内のあらゆる科から神経系の合併症を起こした患者を診るよう要求があった場合、疾患の進行の度合いにもよるが、その日のうちに患者を診てチャート(カルテ)に記載する。同日か次の日の朝には当番に当たっている神経科医に症例を提示し、患者を診察してもらってから指示を受ける。いろいろな疾患で入院している患者に起こる神経疾患のコンサルトはさまざまな神経疾患を経験する上で大変よい勉強になった。フォーリー先生は背が高いので、彼が早足で歩くと歩幅の小さな僕はほとんど駆け足でついて行き、1000床の大きな大学病院の病棟から病棟へと走り回った。
レジデント教育主任だったコノミー先生は2年目のレジデントでも臨床研究をしなければならないと僕たちに言い渡した。何の研究課題がいいかを考えた。ちょうどその頃慢性硬膜下血腫の患者を診ていたので、コノミー先生と相談して、過去10年間のケース大学病院での硬膜下血腫の症例を集めて、臨床症状と検査所見を検索することにした。アメリカで研究をすることは日本に帰るために最も大切なことなのでしっかりやろうと思った。まず硬膜下血腫の診断を含む可能性のあるすべてのチャートをレビュー(見直し)することから始めた。それからほとんど毎晩、病院の仕事が終ってから20~25ほどのチャートをレビューし、硬膜下血腫の症例を探し出した。そのために2~3か月掛かった。こうして内科と臨床神経科に入院した53例の硬膜下血腫を確認した。さらにコノミー先生と相談して、チャートからどのデータを抽出するかを決めた。その後硬膜下血腫の診断を受けた症例のチャートのみを詳細に調べた。一つのチャートをレビューするのに1時間ほど掛かった。レジデント3年目になり、すべてのデータが集まった。コノミー先生が推薦してくれた統計学者にデータの分析をしてもらった。この研究から慢性硬膜下血腫の診断がすぐつかないことが分かった。それは例えば患者が認知症などで入院するとすぐには慢性硬膜下血腫を考えないので、いろいろ検査をしても分からず、かなり時がたってから慢性硬膜下血腫を疑うためだった。レジデントの研究発表会で僕はこの硬膜下血腫の結果を発表し、二等賞をもらった。この硬膜下血腫の神経眼科的な所見に関して、僕は初めてアメリカの神経科学会で報告をした。僕はクリーブランド地区の硬膜下血腫に関するちょっとした専門家になったと周りの人たちにからかわれた。この臨床研究は二つの論文になり、後に「クリーブランド・クリニック・クォータリー(Cleveland Clinic Quarterly)」に発表された。当時特に頭部外傷のはっきりとした既往がない時には硬膜下血腫を診断することは難しかった。もし脳の松果体が石灰化していれば、普通の頭蓋レントゲンでも松果体の位置が見える。片側に硬膜下血腫があれば脳の中心線がずれてくるので、石灰化した松果体の位置は診断の助けになる。しかし松果体の石灰化がなければ診断の助けにはならない。もう一つの方法は超音波を使って脳の中心線が正しく真ん中にあるかを確認することで、最終的には脳血管撮影を行うことだった。その頃斬新なEMIスキャナというレントゲン器械がイギリスで開発された。ミュージックで有名なEMI社だ。このレントゲン検査をすると脳の横断面を見ることができるという。脳疾患の診断法が激変するだろうと予想された。初めてこのEMIスキャナの脳の写真を見た時の皆の驚きを今でも思い出す。硬膜下血腫の診断なども簡単になされるだろうと考えられた。打腱器と音叉が中心であった神経学に画期的な診断器械が導入されるようになったのだ。その年ケース大学とライバルだったクリーブランド・クリニックに早速EMIスキャナが導入され、ケース大学は先を越された。
レジデント後のフェロー職探し
レジデント2年目から硬膜下血腫の神経眼科的な変化に興味が湧き、特にハーバード大学で行われたレビュー講習会に行ってから、レジデントが終わったらフェローとして専門に神経眼科学を勉強しようかと考えた。その考えをフォーリー先生に話すと、神経眼科は神経学の中では「塩と胡椒」のようなもので、臨床神経学を学ぶ基本的な領域ではないと言われた。
レジデント3年目になって3か月間神経病理学を研修することになった。もともと僕は病理が好きだったので神経病理学は大変面白かった。著名なドイツ人のフリーデ先生(Dr. Reinhalt Friede)が退職したので、助教授だったルーマニア人のロスマン先生(Dr. Uros Roessman)が主任になっていた。彼は僕に大変親切で、彼が無数に持っていたコダクロームのスライドを全部見せてくれた。新しく僕たちのレジデントグループに一年だけフェローとして加わったオーストラリア人のキング先生と一緒に、僕はスライドの複写に専念した。スライドを複写をするのが仕事なのか、神経病理を学ぶのが仕事なのか分からないほどだった。彼と僕とはそのうち自国に帰るので、スライドは将来神経学を教えるのに極めて大切だろうと考えたのだ。フォーリー先生に今度は神経病理を勉強したいと相談した。先生は僕のこの計画には賛成してくれた。フォーリー先生はハーバード大学でアメリカ神経学の草分けであるデニー・ブラウン(Dr. Derek Denny-Brown)という高名な神経学者の教室で神経病理も行い、教科書も出版していた。彼はニューヨークのアインシュタイン大学(Albert Einstein School of Medicine, Montifiore Hospital)の平野朝雄先生がいいだろうと彼に手紙を書いてくれた。返事をすぐにいただいたが、フェローとして給料を得るためには一年間一般病理をしてほしいということだった。それをフォーリー先生に話すと、「う~ん、しかし君は病理学者になるわけではないからね~」と考え込んでいた。もしこのフェローの道を選んでいたら、僕はきっと神経病理学の専門家になっていただろうと思う。
僕がレジデント3年目の時にコノミー先生はクリーブランド・クリニックの臨床神経科の主任に抜擢されて移動することになった。まだ僕がケース大学にいる頃はクリーブランド・クリニックは少数の神経科医がいるだけで、患者がクリーブランド・クリニックで診てもらってから大学病院にセカンド・オピニオンを受けに来た時には、注意深く患者を再診査するというような偏見を持っていた。しかし二人の優秀なレジデントがケース大学の研修を終えてクリーブランド・クリニックに加わり、さらに新しい3人のスタッフがメイヨー・クリニック(Mayo Clinic)とハーバード大学のマサチューセッツ総合病院から加わったこと、僕が尊敬するコノミー先生が新しい主任になったこと、そのうえEMIスキャナのような新兵器をまっ先に導入したことなどから、クリーブランド・クリニックの臨床神経学に対する意気込みと将来の躍進が予測された。さて僕は将来どうしようかと考えていた折、コノミー先生は神経病理をクリーブランド・クリニックでやったらどうかと誘ってくれた。フォーリー先生も賛成してくれた。神経病理の主任はマータ・スタインバーグ(Dr. Martha Steinberg)という女性だった。彼女はクリーブランド市立病院のベティ・バンカー(Dr. Betty Banker)という大変有名な神経病理学者の下で研修をしていた。バンカー先生に関しては面白い逸話がある。彼女は高名な神経学者であるビクター先生の奥さんで、ハーバード仕込みで大変厳しく、臨床解剖検討会では神経科医が診断を間違えるととことん追及するという。当時はまだ男性の医者がほとんどだったが、彼女にそのように攻められると公衆の面前で男の神経科医は去勢されるような感じがして、ズボンの前を押さえながら逃げ回るという冗談が広まっていた。スタインバーグ先生はそのバンカー先生の愛弟子だった。
3 クリーブランド・クリニックにて ︱ 誰にもできない神経病理フェロー
突然フェローから「神経病理主任」へ
神経病理は臨床神経学にとって必須の学問なので、いつも一人か二人のレジデントが神経病理の研修に回ってきて勉強した。したがって僕は彼らと神経病理学の勉強と仕事を共にした。スタインバーグ先生は神経病理のノウハウをよく教えてくれた。非常に知識があったが、要領が悪く、まとまりがなかった。物忘れが多く、よくあちらこちらとなくし物を探したり、場所を間違えたりしていた。一番困ったのは臨床病理検討会だ。朝8時の会合に間に合ったことはほとんどない。10分はいい方で、時には30分以上遅れることもあった。彼女はメキシコの出身で、ラテンアメリカの人々は時間を守らないとは聞いていたが、医者のような専門職でこのようなことは珍しかった。彼女はよく「ちゃんとやる意思はあるのよ!」と言っていた。優秀だったが、このようなことのために権威がなかった。こうした不手際が毎日のように繰り返されると仕事に支障を来し、僕は何度も彼女に不平や小言を言い、彼女と口喧嘩をするのが日常茶飯事となった。僕と非常に親しい友達になったレジデントのオハラ先生(Dr. Robert O’Hara)は「おー、また戦争をやってるな」とよく言っていた。彼とは神経科レジデント教育のために正常脳解剖をEMIスキャンと比較したスライドを作成した。そのうち僕が原因とは思えないが、彼女はノイローゼにかかったようで病院を欠勤し、ついには全く来なくなってしまった。神経病理一年目の終わり頃だった。クリーブランド・クリニックの大きな病理学の教室でも神経病理学者は彼女だけだった。フェローは僕だけだったので、いろいろなことを代理でやるようになった。要するに突然僕は「神経病理学者」になってしまったのだ。本当の神経病理学者が聞いたら呆れて心配しただろうが、法的には病理学者がすべての書類に署名するので問題はなかった。神経病理の解剖、神経学のレジデントに神経病理の教育、病理のレジデントの一人一人のために顕微鏡下での神経病理の診断をすること、臨床病理検討会の症例の選択と準備(診断と実物の写真、顕微鏡写真とスライドの作成)と筋と末梢神経生検の診断と電顕診断などが主な仕事だった。しかも神経外科医のための腫瘍カンファランスも続けるように頼まれたので、病理学者が診断した腫瘍のスライドを示すのだが、難しい腫瘍の場合にはどこを示せばよいのか病理学者に指示を受けた。多くの場合、腫瘍の診断は一般病理学者の方が神経病理学者よりも優れている。言うまでもなく神経病理学者の興味の中心は神経疾患だけだからだ。僕の場合も腫瘍の病理にはあまり興味はなかった。ほとんど経験のない「神経病理学者」がこのように神経病理をこなすのであるから、質を問わなければ、自分自身でもよくやったと言わざる得ない。普通のフェローならばとてもできない特別な経験をしたのだった。
弁護士を信ずるな!
米国は慢性的に医者不足だった。その理由の一つは米国医師会は自分たちの収入を確保するために医師の数を制限し、不足は外国人医師で満たそうとしていたからだ。しかし多数の米国人医師がべトナム戦争から帰還することによって、それまでの不足が急速に満たされ始めた。そこで米国政府は外国人医師に与えていた永住権特別待遇を中止して一般の労働者と同等に扱うことにした。グリーンカード(米国永住権)を希望する外国人医師は1977年の12月31日までに申請することになった。それ以降の希望者は米国医師免許試験を受けなければならないと決められた。僕は学生ビザで5年以上滞在していたのでグリーンカードを申請する必要があった。コノミー主任に話すと、クリニックの弁護士に話をするから何の問題もないだろうと言ってくれた。彼が手配してくれたお陰で、ちょっと偉ぶった若い弁護士が面倒を見てくれることになった。彼に会い、すべての書類を渡し、手続きは終ったと安心していた。1978年の1月15日になって、ふとグリーンカードのことが気になった。そこで弁護士のオフィスに電話をしてみた。秘書が出たので僕のことを説明し、申請のための書類が12月31日までに送られているかを確認したいと言うと、「何の書類?」と聞かれた。ぎょっとした。彼女がいろいろ調べたが、結局書類は送られていなかったことが判明した。僕はかーっとなって怒り心頭に達し、コノミー先生に「あの弁護士を訴える!」と息巻いた。彼は「自分の弁護士を訴えるわけにもいかないだろう。試験なんか受ければいいじゃないか」と言った。彼ら米国の医学部卒業生にとっては医師国家試験なんて簡単なことのようだった。しかし僕は外国の医学部を卒業してからもう10年もたっている。医者として米国永住許可証を得るには米国の医学部卒業生が受ける同じ試験に合格しなければならない。以前僕が合格したECFMGの試験とは雲泥の差で、基礎医学、臨床医学、それに臨床能力の三つの領域の全部に合格しなければならない。米国に留まっていたければ僕にはそれ以外の方法はなかった。
コノミー主任が例の生意気そうな弁護士と年配の主任弁護士を呼んで、僕に事態の説明をしてもらうことになった。当の弁護士は珍しくしゅんとしていた。主任弁護士が今後の手続きは全過程においてクリニックの法律部が責任を担うという約束をした。
しかし僕が試験を受けて合格しなければならないことに変わりはなかった。試験に通らなければ5年間の滞在を過ぎたら自動的に追放である。その時もう米国滞在5年目だった。神経科の同僚たちは僕のこの状況をよく知っていた。自分の意思で帰国するのならそれはそれでいい。試験に落ちたので負け犬のごとく尻尾を巻いて帰国とは大変惨めなことになると思った。ともかく必死で勉強するしかなかった。昼は病院で仕事をして、毎夜受験勉強をした。受験勉強が大嫌いな僕が、何の因果か、背水の陣を敷いて勉強することになったのだ。ところが驚くなかれ! この大事な時に妻の母が遊びに来るという。大きくなった孫に会いたいと言うのだ。僕は断ってくれと妻に言ったが、この時でないと来れないと言う。僕は髪をかきむしって大声で叫びたいような、泣きたいような気持だった。しかたなく義母が滞在中に休暇を取り、ナイアガラとワシントン、コロニアル・ウイリアムスバーグの旅に運転手として同行し、彼女たちが見物している間は車内で勉強していた。こんなに寸暇を惜しんで勉強したことは今までもそれからもなかった。こうした努力が実って試験は通った。泣きたいほど嬉しかった。
それからクリニックは僕の職を確保するためにあらゆる協力をしてくれた。全国の医学雑誌とクリーブランドの新聞に僕にしかできない職種(神経科医、神経病理と電顕の経験など)の募集記事を載せて応募者を募った。コノミー主任は「髪は黒でアジア人」という条件も入れたらいいのではないかと冗談を言った。この募集にはもちろん僕も応募するわけである。驚いたことに僕の他にも何人かの応募があり、それぞれの応募者はこの職種に適さないことを説明し、結局この仕事には僕しかいないことを証明するのだった。永住権が取れるまでそれから1年掛かった。例の弁護士は手続きの一段階ごとに必ず僕と一緒に事を進めた。それでもこの経験以来僕は強迫観念にとり憑かれたかのように、大事なことは決して人に任せておかないようになった。
神経病理での研究
とてつもなく辛い試験の準備はあったが、神経病理の仕事と勉強は非常に面白く、楽しかった。考えてみるとスタインバーグ先生がいなくなったお陰で自分で思うように何でもできた。例えば高価な特殊染色をするとか、電顕で調べて見ようとか、関連した他の症例をさらに詳しく調べるとか、切片を切り出して十分な検索をしてみるとか、いくらでも自分の思うようにできたのである。もっともスタインバーグ先生も僕のこうした興味には賛成してくれたものと思う。こうして3例の症例報告をすることができた。1例はものが急速に見えなくなった男性の患者である。彼は見えないことを理解できず、見えると言う。何が見えるかを聞くと見えるものの嘘を言う。これはアントン症候群と呼ばれているもので、視覚の認知領域に障害があると考えられている。この患者は急速に進行して、脳波で三相波が出現して臨床的にクロイツフェルト・ヤコブ病と診断され、最終的に病理に来た患者だった。臨床診断が正しかった上に、クロイツフェルト・ヤコブ病のハイデンハイン亜型であることが分かり、臨床神経科のレジデントらと共に論文発表を行った。次の症例は若い男子で進行性の腰部脊髄症を生じ、脊髄の腫瘍の生検で悪性リンパ腺腫と疑われた患者の剖検だった。腰髄以外にはリンパ腺腫は見つからず、脊髄原発性と考えられた稀な症例だった。最後の症例は筋生検で見つかった珍しい所見で、患者は若いイラン人の男性で、激しい運動のたびに筋肉に激痛と尿のコカコーラ変色を繰り返し、臨床的に横紋筋融解症を起こすマッカーデル病が疑われた。筋生検は最後の横紋筋融解の3週間後に行われた。診断は確かに先天性の筋リン酸化酵素の欠損症であり、マッカーデル病であると確認された。しかし筋線維の特殊酵素染色をよく見ると完全な欠如ではなく、あちらこちらに薄く染色された筋線維があった。それらは普通の筋線維より小さく、不正形の三角や四角の形で、連続切片をして他の染色をしてみると、それらの筋線維は再生過程の筋線維であることが分かった。横紋筋融解症を起こすと筋肉が破壊される。すると即座に筋肉は猛烈な再生を起こし、回復しようとする。筋融解症を起こしてから3週間目はちょうど再生の真っ最中だったので多くの再生筋線維が見られたのだった。再生過程では筋燐酸化酵素の幼弱型の同位酵素が造られるようで、これが特殊酵素染色に反応して見られたのである。このような観察ができたのは臨床においては初めてだった。これらは三つの小さな報告だったが、臨床神経学と病理学の観察事項をどのように論文にまとめて書き上げるかを学ぶ素晴らしい機会だった。この経験は学問の面白さを十分に教えてくれた。
神経周膜腫の研究と医学博士号
神経病理の仕事をしている時に、臨床的診断も病理学的診断も局在性肥厚性ニューロパチー(神経障害)という症例があり、上腕神経叢の小さく切除された一部の神経組織をレビューする機会があった。顕微鏡下で神経索は肥大していて、その全体は渦巻き状のオニオン・バルブ(玉ねぎを輪切りにした時のような外観で、ニューロパチーに時々見られる顕微鏡的病理所見)で詰まっていた。しかし光学顕微鏡のレベルで脱髄性のニューロパチーに起こるオニオン・バルブより一つ一つのサイズがはるかに大きく、またニューロフィブローマ(神経線維腫)とは異なり、組織の構築が整然としていることから、局在性肥厚性ニューロパチーはこれら上記二つの疾患とは違うように思われた。一体何なのだろうかと考え始めた。まずこの症例を電子顕微鏡下で詳しく調べ、さらに病理で診断されたさまざまのオニオン・バルブのあるニューロパチーとニューロフィブローマの病理所見を調べた。局在性肥厚性ニューロパチーのオニオン・バルブを作る細胞はシュヴァン細胞でも線維芽細胞でもなく、神経周膜をなしている細胞、すなわち神経周膜細胞であろうと考えた。しかし正常の神経周膜細胞とは異なり、細胞に周りの基底面膜(Basement membrane)がある箇所と欠如している個所があった。これらの所見からこの症例は良性の神経周膜腫(Perineurioma)であると結論して報告した。神経鞘腫とは異なり、神経周膜腫は末梢神経索にそって広がって神経を圧迫することが少なく、切除してもその効果はない。稀な疾患だが問題の核心を見出せたので、今後このような局在性肥厚性ニューロパチーを疑った場合どのように診断するのか、また摘出手術を避けるためにどのような治療法を選ぶかを記述した。
阿部達夫教授へ感謝
東邦大学の第二内科の阿部教授は人格者で実に素晴らしい先生であった。第一に教授および内科主任の役割と役職の限界をよく認識されていた。教授の回診は患者が期待しているから行うのであって、回診で診断の正確さやその他の問題を議論するのが目的ではないと言っていた。先生はまた多くの優秀な弟子を育てた。里吉、田崎、そして古和先生など、彼らは皆慶応大学出身ではあったが、自由に彼らのやりたいことをやらせ、将来学問的に伸びるように引き立てた。そして東邦大学の出身者を伸ばすことにも努力されていた。学生運動の最中、顔を真っ赤にして学生がいかに間違っているかを一生懸命に分からせようと頑張った阿部先生は、政治家のように何も言わずに黙っていた浅田先生とは正反対だった。先生は僕が米国に行って神経学を勉強したいと言った時に、「根無し草になるよ」などと言うどころか快く賛成してくれ、将来第二内科に戻ってきて教職に就くようにと期待してくれた。先生にかけられた期待は僕にやる気を起こさせたし、日本に帰っても行き場所があるという安心感を与えてくれた。
渡米後5年して、苦労して永住権も取り、心の余裕もできたので初めて東京に里帰りした。北里大学では病理学の経験の話をさせてもらった。田崎先生は日本には病理学者が必要だと話していた。東邦大学の第二内科では病棟での回診を依頼された。僕が帰って来てすんなり第二内科に溶け込めるかどうか、これは自分にとって大変良いテストだと思った。日本の(または東邦の)医局員の先生たちの中にはアメリカの回診のやり方を好まない人もいる。その回診中、僕は患者を診察しながら、患者が変に戸惑い始めたことに気づいた。周りにいる医局員の先生方も何となくそわそわし始めた。はっと気がつくと僕は患者に神経診察の指示を英語で言っていたのだった。僕は謝り、患者も皆も笑い出したが、僕は苦笑いだった。症例検討会にも参加した。同期の親しい友達や後輩の先生などに会って楽しい時を過ごした。短いが充実した里帰りだった。阿部先生は大学の医師の任用規定が変わり、医学博士でないと雇うことができなくなったので博士号を取らなければならないと言った。彼は僕に論文があればそれで医学博士は取れると言う。神経周膜腫の研究論文が出版されることになっていると言うと、先生は博士号の申請をしなさいと言ってくれた。それから一年後に医学博士審査会に出席するために再び帰国した。審査には外国語の試験があった。英語だけかと思いきや、1~2ページのドイツ語の翻訳の試験もあった。辞書持込みなので問題はなかった。その後病理の教授と阿部先生から神経周膜腫に関して詳しい質疑応答があり、それで博士号取得の試験が終った。その時には僕は既に動物モデルを使ったかなり高度の基礎研究をしていたので、神経周膜腫のような症例報告を基にした研究で博士になるのは恥かしかったが、これからもっといろいろな研究を行う心積もりがあったので、これは僕の研究の第一歩なのだと自分に言い聞かせた。一にも二にも阿部先生には本当にお世話になり、感謝の気持ちでいっぱいだ。尊敬する先生の写真は今でも僕のオフィスの壁に飾ってある。
4 試験、試験、また試験!
神経病理のフェローをやっている時には神経病理以外の勉強をしなければならなかった。その最初は前に書いた医師としての永住許可証を申請するための米国医師国家試験で、その第一の関門はトッフェルという英会話の試験だった。それはクリーブランドの医学図書館で行われた。受験生は20人ぐらいで少なかった。試験はヒアリングが目的で、テストの本が配布された。薄い本にはいろいろな物の絵が描いてあり、物の名前をアメリカ人が発音した中から選ぶ。皆似たような発音で、例えばドアの取っ手では、ノブ、ネブ、ナブ、ニブなどの中から正しい発音を選ぶのだった。その他にはアメリカ人が会話をしていて、その内容についていろいろ質問が出される。そのようなテストでこれは通過。次が本当の試験だった。シカゴの「兵隊の広場」と呼ばれている広大な敷地に建てられた巨大な会議場が試験会場だった。驚いたことに、試験中に突然左目の視野に暗点が出てきた。痛みはなく、小一時間も続いただろうか。ともかく休むこともできず、試験をやり通した。目の異常はそれで終わった。でもその前にはジョギング中にレールミット症候があったので、おやおや多発性硬化症の発症かなどと少しは心配したが、それから何も起こらなかった。ストレスはいろいろなことを起こすのだと思った。
アメリカは合衆国で、各々の州がいろいろな政治的実権を握っている。医師国家試験を通っていても、州の認可を受けないと医師として働けない。僕のような外国人の場合は、永住権のための医師資格試験は米国国家医師試験と同等であっても米国人と同じには考えてもらえない。医師として認められるのには州独自の医師認定試験があってそれを受けなければならない。僕が住んでいたオハイオ州には外国人医師のための試験制度がないので、隣のミシガン州に行って受けなければならなかった。真冬のものすごく寒い日で、ミシガン州の州都ランシングは氷にうずもれているようだった。試験は同じように3日間だった。これでまずミシガン州の医師免許証が取れた。ある一つの州で免許証が取れると、ほとんどどこの州でも医師免許証を出してくれる。こうして僕はやっとオハイオ州の医師免許証を入手することができた。
最後の試験は臨床神経科専門医の試験だ。この応募資格は臨床神経科の研修を終わっていることと医師免許証を持っていることである。ついに専門医認定試験を受けることになった。今までの試験は医学全般の試験だったが、今度は神経学の基礎、すなわち神経解剖、神経病理、神経生化学、神経薬理、神経生理など、それに臨床神経科、成人と小児神経科、精神科が加わる。レジデントの時に専門医のための模擬テストを毎年受け、さらに口答試験の準備のため、クリーブランド・クリニックの神経科の親しい先生たちに模擬口頭試験をやってもらった。僕が患者に問診と診察をして、口頭試験をしてもらうのである。コノミー先生にもフォーリー先生にも審査官になってもらって模擬試験をした。コノミー先生は気を楽にすること、椅子に深く座って体を後ろに休ませ、緊張している様子を見せないこと、フォーリー先生はすぐ答える前に試験官に「まず自分の考えをまとめさせてください」などと言ってしっかり考えをまとめて順序立てて答えること、神経疾患の項目に関して一つずつ組織立てた答えを出せるように準備することを教えてくれた。
試験はボストンで行われた。1日目は多肢選択試験で、2日目と3日目は口答試験だった。口答試験の最初は成人患者で、それはボストン退役軍人病院で行われた。会場からバスで患者のいる病院に移動した。二人の試験官は僕に挨拶してすぐに患者の部屋へ案内した。部屋に入ると彼らは患者に自己紹介して、それから僕を紹介した。僕は患者に挨拶してから、「どうしてこの病院にいるのかを話してください」と聞くと、患者は突然指で口を差して、「あーん、あーん」と頭を振った。患者は喋れないのだった。「えっ、これじゃ問診ができない!」と焦ったが、ともかくも病歴を取らなければならない。こちらの言ったことはよく理解できるようだったので、「イエス」か「ノー」かの設問を作って病歴を取った。初めに「どのくらいこの病院にいるのですか?」と聞くと彼は指で7を示した。「7か月?」頭を横に振る。「7週間?」また頭を横に振る。「それじゃ7日間?」、やっと彼は頭を縦に振った。口頭試問は一人の患者の問診と診察に両方で30分費やすことが許されている。早く診察をしなければと焦るが、病歴は十分ではない。そのうち試験官が「先生、30分以内に診察もしなければなりませんよ」と注意してくれた。「はい、分かっています」としばらく問診を続け、それから診察を開始した。口頭試問はあまり問題にはならなかった。次の小児神経科は小児の病気をビデオで見せられ、それから口頭試問が行われた。最後は精神科の患者だ。患者はハーバード大学のマクリーン病院に入院していた。自己紹介をして問診をしようとしたが、彼女は自分のことをあれこれ、ただただ喋り続けるので問診どころではなかった。患者の年齢だけでも聞こうとしてもこちらにはチャンスがない。こうした口頭試問では患者を遮ることは減点になると言われていた。そのため僕は話を聞きながら、ちょっとでも息をするために彼女の話が途切れた瞬間に間髪を入れずさっと質問を入れた。彼女は僕の質問に答えるとすぐさま自分の話に戻った。そうこうしているうちに30分がたってしまった。この口答試験もいろいろと鑑別診断を討論しているうちに無事終わった。これで繰り返し、繰り返し受けてきた試験もすべて終了した。
つかの間の神経科准スタッフ
神経病理のフェローが終わり、僕は神経科の准スタッフになった。一年すれば正スタッフになれる予定だった。クリーブランド・クリニックは大学ではなく、多数の専門医が集まって開いたグループ・プラクティスという形態の病院で、医学校がないので教授や講師のような教職のタイトルはなかった。僕は臨床神経科で患者を診ていても、神経病理の研究を続けることができればかなりの研究成果を得られると期待していた。病理学の教室は神経病理学者を急速に雇う必要があった。クリーブランドの隣町、車のタイヤの生産で知られたアクロンという小さな市の検視官を務めていた神経病理学の経験のある医師が神経病理学の主任として採用されることになった。彼が面接に来た時に僕も会ったが、僕が神経病理の研究を続けることに関しては支障がないように言っていた。しかし、いざ着任してみると、僕が電顕の仕事をしているのを見て、彼は僕にもう病理には出入りしないでほしいと言った。悔しいと思ったがどうすることもできず、僕は臨床神経学に力を集中することに決めた。この新しい神経病理学者はことのほか自分の診断に自信がなく、筋生検など異常なものはほとんど有名なウォーター・リード陸軍病院の病理に送って、その診断を仰いでいた。彼の性格にもかなり問題があったようだ。後で話に聞くと、結局1、2年で首になったとのことだった。
僕は患者を診ることに集中した。外来では午前に3人、午後に3人の新患を診察し、その上3~4人の再診患者を診た。素晴らしい臨床経験だった。急速に実力のある臨床神科医になれると思った。しかし日本に帰るとすると、日本の大学の医師たちは米国で臨床だけを研修した医師を嫌うか軽視する傾向が強かった。もしここで神経病理の研究ができないとなると、どのような研究をすべきか深刻に考える必要に迫られた。しかし准スタッフの給料はフェローの時と比べて2万ドルほど上がり、1年後に正スタッフになると給料も確実に上がることは分かっていた。それを見越して初めて小さな家も買った。それでも僕は日本に帰るためには研究をしなければならないと思った。その頃神経周膜腫の論文を出版することで、「筋肉と神経(Muscle and Nerve)」という新しい医学雑誌の編集長を務めていたボストンのタフト大学のブラッドリー先生(Dr. Walter G. Bradley)と手紙のやりとりをしていたので、彼のところで研究ができないか聞いてみた。彼は僕の今までの電顕の写真を見たいというので何十枚かを送った。もちろんフォーリー先生とコノミー先生にも相談をして、推薦状を書いてもらった。懐かしいボストンに面接に行った。ブラッドリー先生は英国紳士だが、アメリカ風で気さくな人だった。夕食をご馳走してくれ、新しいリサーチの計画の話をして、楽しいひと時を過すことができた。そして僕は米国筋ジストロフィー協会(Muscular Dystrophy Association (MDA)= 略称:筋ジス協会)のリサーチフェロー として、その年の7月からタフト大学で仕事をすることになった。
せっかくクリニックの准スタッフになり、翌年は正スタッフになれるところで、妻の両親の援助を得て家まで購入したのに一年もしないうちに引っ越すことになり、妻はおもしろくなかったがしぶしぶ承知した。突然の計画変更、移転となった。真にせわしい人生ではあった。