第3章 無給医局員からアメリカのインターンへ
1 激動の学生運動 ― 医学生熱病の2年間
僕らが卒業した昭和43年(1968年)は国外ではまだベトナム戦争も激しく、国内では安保条約の改定などを迎えて日本の政治は大揺れに揺れており、日本中の大学に学生運動の旋風が渦巻いていた。東京ではどこの駅前でも街角でも、熱意に燃えた学生がマイクを手に「何とか的、かんとか的」と漢語を次から次へと並べた訳のわからない演説で人々を煽っていた。医学部は徒弟制度の教育なので学生運動の影響を受けるのが遅れたが、それでもついに医学部にも学生運動の波が打ち寄せてきた。
何でもかんでもボイコット
日本の臨床医の教育は戦後アメリカのインターン制度を取り入れたという経緯があったためか、医学生はアメリカ形式のインターン制度に反対をし始めた。すなわちこれがインターン闘争に代表される医学部学生の既存の体制に対する反対運動で、一度火がつくとあっという間に燃え広がり、インターン制度ボイコットと米軍病院ボイコットに始まり、国家試験ボイコット、入局ボイコット、大学院ボイコット、博士号ボイコット、要するになんでもかんでもボイコットという始末だった。僕らの1、2年先輩から始まった青年医学生連盟(青医連)は日本全国の医学生の連盟で、日本の医学教育を改革しようという運動だった。昭和43年の僕らのクラスは「花の43青医連」などと格好をつけて呼んだ。この運動は僕らの時代で花が散るように終ったので、極めて適切な名ではあった。
この学生運動の渦に巻き込まれた僕ら学生にとってはどう行動したらいいのか、それは真剣な問題だった。自分はどうしたらいいのだろうか? 何でもボイコットしてそれからどうするのだろうか? クラスの中には過激な極少数の学生がいて、何だかんだとわめいていた。東邦大学の医学生全体が集まって教授陣と団交をしたことも数回はあり、僕も出席したことがあった。生化学の浅田教授は誰か有名な政治家の娘婿と聞いていた。彼は学生たちが何を言っても叫んでも、目をつむって黙っている。もう一人の教授は阿部教授(後に彼は僕の主任教授となった)で、彼はいちいち学生の質問、批判に興奮して返答をしていた。この二人の全く正反対の対応の仕方を見て、僕は浅田先生に政治家というものを見たと思った。彼はしばらくして学長になった。阿部教授は非常に正直な先生だった。医学部の最終学年はほとんどは臨床実習でクラスに集まることはなかったが、時々授業があるとその前と終わりにはクラスの活動家が教室の前に出て声を荒げて扇動した。ある時何かの原因で、僕は活動家の中でも軽率で過激な一人に「この日和見主義者が!」と脚を蹴飛ばされたことがあった。彼らは何かの熱病に冒されたようだった。
国家試験ボイコットと自主カリキュラムによるインターン制度
全国の医学生に差し迫っていたのは医師国家試験だった。勉強のことは三本に任せろということがあったのか、過激な連中にすべてを任せることはできないというクラスの意向もあったのか、僕が議長になってさんざん討論を重ね、全員一致で僕らも国家試験をボイコットすることに決めた。僕も含めて全員が一度くらいはボイコットしてもいいだろうくらいに軽く考えていた。しかしそうでないクラスメートがいたのだ。僕と非常に親しい岡谷さんは開業している父上が脳卒中で倒れたため、早く医者になって家を継ぐという大任を担っていた。「僕はボイコットなどできない。試験を受けなければ困る」と言って、彼は試験を受けた。彼はクラスの過激派の若造に「お前」呼ばわれされ、彼らにそんな権限はないのに「お前は43クラスから除名する」とまで言われた。岡谷さんにとってこの経験はよほど腹の立つことだったようで、何年たった後でも「僕はクラス会には出席しない」と断固として頑張っていた。
医師国家試験はボイコットしたが、次はインターンをどうするかが問題だった。インターンもボイコットすることになったが、インターンなしでは医師としての将来が危うくなってしまう。そこで他の医学部でもやっている自主カリキュラムにしようということになった。僕は勉強のことになると少しは尊敬されていたこともあって、大学に残る学生全員のインターン・カリキュラムの作成を任された。内科・外科・産科・小児科を必須として、それに選択を加えたカリキュラムを作った。もちろん全員にとって公平なカリキュラムを作り、自分のためには必須以外の選択は全部病理にして、比較的自由のきく病理学教室で米国の外国医学部卒業生のための医師試験の準備でもしようと思った。この試験はクラスの友達の一人が一緒に受けようと誘ってくれたからだったが、僕は以前からこの試験には興味を持っていた。自主カリキュラムというと聞こえはいいが、僕らが作ったインターンのスケジュールを大学病院に見せ、すべての実地教育は既存の大学病院に面倒を見てもらうことで、甘いと言えば甘い考えだが、大学病院も暗黙のうちにそれを認めて、僕らは結局今までのインターンの教育を受けさせてもらったも同然だった。最も過激だったクラスメートはあれよあれよという間に国家試験を受けて、自分の故郷に戻ってインターンを始めたと聞いた。他の二人の過激派も大学には残らなかった。彼らはそれから何十年間もクラス会に出席したことはない。彼らは自らクラスから脱退したことになった。しかし平成29年のクラス会に、過激派の一人が出席したのは嬉しかった。彼は「三本、お前に電話をして試験の山を聞いたら、『分かんないよ、みんなやったら?』と言われ、参ったよ」と笑っていた。
インターン闘争は僕らにひどく嫌な思いを残した。僕には高校時代に一緒に登山をした仲の良い友達がいた。彼は一年浪人して千葉大医学部に入った。しかし彼は医学部闘争で過激な運動をしたために退学させられたと噂に聞いた。何があったのかよくは知らないが、医学のような職業教育の途中で辞めさせられると後のつぶしが効かない。心から残念なことだと思う。どうなったのだろうと思うことが時々あるが、分からないままだ。こうしたインターン闘争は国家試験をボイコットしたあたりからうやむやのうちに終わってしまって、何でも反対の態度からまた何でも受け入れる態度に180度回転してしまった。一過性の熱病だったのかと思わざるを得ない。
外国医学校卒業生医師認定試験(ECFMG)
アメリカで臨床研修を受けるのには特別の認定試験が必要だ。僕が学生時代に、アメリカで麻酔の研修をしたばりばりの麻酔科の教授、黒須先生が学生有志に週に1回1時間ほど、この試験がどんなものなのかを教えてくれていた。試験の内容は当時の日本の国家試験とは比べものにならないほど難しかった。自己カリキュラムによるインターン研修は大して責任のない研修だったので、僕は病理学の研修中に一生懸命この試験勉強をした。英語の教科書を全部読むことはこの試験には合理的とは思えなかったので、問題集をやることにした。答えを間違ったり、答えを知らない問題は英語の教科書に戻って復習をした。当てずっぽうの正解は知らないものとして同様に扱った。知らない医学用語も同様に勉強し、全部の臨床科目を同様に勉強した。ECFMGの試験は丸一日で、360問全部が選択式設問だった。このように準備してインターン中にこの試験に合格したが、僕は特に米国で研修を受けようと決心していたわけではなかった。
2 東邦大学病院第二内科入局
内科は領域が大きいので第一内科と第二内科に分かれていたが、第一内科の森田教授は定年退職なので、自然と第二内科に入局することになった。そのせいか十数人という大勢の同級生が第二内科に入局した。第二内科は付属の大橋病院にもあって、神経学では世界的に名を知られた里吉先生が大橋の主任教授だった。くじ引きで誰が大森に残るか、誰が大橋へ出るのかを決めることになった。数人の新入局員と共に僕は大森の本院に決まって、そこで内科の臨床研修を始めることになった。入局すればどこかの研究班に入ることが決められていた。田崎先生は脳血管障害と脳循環の研究でよく知られた神経学の専門家で、田崎班の班長として特に学問に力を入れていた。僕には一番魅力的だった。僕らより五年ほど先輩の上嶋先生は毎年助手として生理学の実習を手伝っていたので、学生によく知られていた。よく勉強をしていて基礎医学の知識も深かった。田崎班には上嶋先生よりも先輩の先生が二人ほどいたが、彼が特に目立った。僕は上嶋先生とは個人的に特に親しいというわけではなかったので、第二内科に入局した友達が斉藤豊和君と僕を上嶋先生に紹介してくれた。この時から僕らは田崎班に入ることになった。研究班には入ったが、僕らの最初の仕事はまず内科の医師になることだった。入局の初めの6か月はオーベンと呼ばれる上司の先生につき、医療のすべてを一つ一つ教わった。オーベンは右も左も分からない新入医局員に臨床の手ほどきをする。学生やインターン時代の観察を主体とした経験から進んで、責任を持って患者を診察し治療できる医師に育つための大切な過程の第一歩だった。僕のオーベンは西田先生といい、上嶋先生と同期で消化器科の専門医だった。彼はとても穏やかで親切な先生で、何から何までよく教えてくれた。特に僕の当直の夜は一晩一緒にいてくれて、「一人前」の内科医になるように面倒を見てくれた。
僕らは無給医局員と呼ばれて、大学からは白衣代という小銭が出る他は何の給料も出ないので、最低限度の収入を得るために週に2回、半日のネーベン(アルバイト)が許されていた。1回は市中病院での外来勤務、もう1回は他の市中病院での当直だった。それ以外は大学病院に朝から深夜までいて、仕事をしたり、勉強をしたりしていた。しかし今考えるとだらだらと病院にいたような記憶があり、仕事の効率が良かったとは思えない。同時に入局したクラスメートの吉田君と病院の近くのアパートを借りて、夜遅くなってもすぐ帰って寝ることができるようにした。毎晩患者に何かが起こるとよく皆で考えた。難しい問題が起こると上嶋先生のアドバイスが役に立った。彼は兵隊でいえば軍曹のような人だった。彼はいい加減に患者を診たり、また仕事が遅れ気味の同僚にはひどい嫌味を言った。例えば「先生、そんなことをやっていると患者は死んじゃうよ」などと言うので多くの医局員に嫌われていたが、患者のことで頼れるのは上嶋先生と決まっていた。それというのも彼もよく遅くまで病院にいたからだ。僕ら同期の新入医局員たちは夜勤の終わった看護婦(当時はまだ看護婦と呼ばれていた)さんたちと夜食を食べにいくことが時々あって、それが唯一の息抜きだった。
入局当初の経験は診断と治療を新しく学ぶ僕らにとっては忘れられない経験だった。経験を積み、医者らしく考えて行動することができるようになることは嬉しかった。しかし、確か入局2年目の頃だったか、僕の受け持ちの患者の何人かが続けて死亡して、特にその一人は難しい腎不全の患者で、どんどん悪化していくのを見ているのが辛く、自分は一体何をしているのだろう、なぜこうも無能力なのだろうと深い懐疑心に襲われ、人に話す気にもならず、1~2か月間落ち込んでいたのを覚えている。今思えば、それも貴重な経験だった。
田崎研究班での活動は週に1回仕事が終った後の読書会だった。ビングの「神経系局所診断学」という英語の本を交代で読んだ。いい勉強になった。今でも僕はこの本を持っていて、時々読むことがある。班に入れば研究の仕事が決められ、僕の仕事は上嶋先生について脳血管撮影の術式を学ぶことだった。脳血管とは脳を潤す血管でその血管が閉塞したり、出血を起こすと脳梗塞や脳出血が起こる。脳血管の異常を調べるのは脳血管障害研究のための基礎である。何回も上島先生の手技を学んだ後、彼の監督下に僕も検査を始めることができるようになった。それから2年半の間に160例の脳血管撮影を行った。そのうちアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に留学していた元慶応大学の神経専門医の古和先生が、留学を終えて東邦大学の第二内科の医局に講師として加わった。先生は神経学の大御所である里吉先生が留学していた同じ大学へ留学していたのだった。彼の神経疾患の患者の診方も僕には魅力的で、アメリカには新しい進んだ学問があるのだと感じさせられ、臨床神経学への興味が大きくなっていった。
しばらくして研究班の主任である田崎先生が新しく設立された北里大学の内科教授として栄転することになった。北里大学は病院は建物ができたばかり、医学部も始まったばかりで人材が必要だったため、田崎先生は第二内科の自分の研究班のメンバーを全員連れて行こうと考えていたようだった。もちろん僕も来るように言われた。相模原にできた新しい大学病院も見学に行った。僕はここに来ることになるのだろうかと自分でもよく分からなかった。
3 アメリカへ留学か?
その頃既に僕はなんとなく「教授」になりたいと思っていた。そんな馬鹿げたことは誰にも言えなかったが、アパートに同居していた吉田君とはよく将来について話し合った。彼は消化器班で、いずれは開業の予定だった。当時の東邦大学医学部は昔の帝国女子医師専門学校が男女共学になってから歴史が浅く、東邦大学の卒業生で教授になった人はまだいなくて、東大、慶応、慈恵大学の卒業生が教授、助教授、講師などの教職を占めていた。したがって東邦大学はそれらの大学のいわば医学植民地だった。しかし、少しずつ東邦卒業生の独立心が目覚め始めていた。僕は、もし北里へ行けば僕自身も北里を植民地として扱う指導者になるのではないかという危惧を覚えた。一方、東邦大学出身という学閥のない僕が北里へ行けば、東邦大学にいて教授になれる可能性よりはるかに難しくなるのではないかとも思われた。どこの大学も自分たちが持っている教授・助教授の職を保護するために強力な派閥政治を行うからだ。そのようなことを吉田君と枕を並べ、暗闇の中で話し合った。しかし、それが理由でそのまま東邦の第二内科に残りますとは田崎先生には言えない。第二内科は慶応が教授陣を占めていた。
当時日本で臨床神経学の大家と考えられていた大橋病院の里吉教授は、大森の病院で週1回外来と入院患者の回診を行っていた。回診の後などでお茶を飲みながら神経学の研修のことなどを話す機会があると、決まって「日本では臨床神経学を教えることができない」と言い、「日本にはそのための組織がない」と指摘するのだった。それなら僕もアメリカに行かなければ臨床神経学の研修ができないのかと思い始めていた。そうした考えに拍車をかけたのは石森先生だった。医学部の二年先輩で米軍病院でのインターンを終え、第二内科に籍を置きながら、アメリカで医学研修を始めていた先生が一時帰国していた。僕らは医局旅行の予定で、彼もその旅行に加わり、温泉の大浴場に浸かりながら、アメリカの研修制度がいかに優れているかを語り、将来臨床を勉強をする気ならどうしてもアメリカに留学する必要があると強く僕に勧めてくれた。彼はボストンのハーバード大学系のケンブリッジ病院でインターンを終えたところで、アメリカの機能的で効率のよい研修制度を賞賛した。僕は彼の話にすっかり魅せられて、僕もアメリカに行く必要があると思った。医局旅行から帰ってきてから、彼は第二内科の病棟で患者の回診もした。彼の回診は実にアメリカ式だった。患者の鑑別診断のためいくつかの可能性のある疾患を挙げて、その一つ一つを説明していく方法はアメリカの典型的な回診のやり方で、僕は以前からアメリカの医学雑誌で鑑別診断の方法をよく読んでいたので、僕にとっては驚きではなかったが、多くの医局員たちは非常に驚いたようだった。これを毎日やられたらたまらないと思った医局員もいたかもしれない。
田崎先生について北里大学には行きたくない、しかしそのため東邦大学の第二内科に残りたいとも、とても先生には言えなかった。一方アメリカに行って医学の研修をしたいと本当に思うようになっていった。僕はアメリカに留学して臨床神経学を学び、第二内科に帰ってきたいという希望を主任教授の阿部先生に話した。先生はよく理解してくださり、将来僕を援助すると約束してくださった。吉田君は僕が帰ってくるまで待っていて、僕が第二内科に帰りやすくするよう頑張ると言ってくれた。阿部先生と吉田君の言葉は僕にとって何よりも力強い味方だった。今でも心から感謝している。そしてとうとう田崎先生のお宅に伺って、先生にアメリカに行って臨床神経学の研修をしてみたいと話した。田崎先生は任侠の親分のように草鞋を履く、草鞋を脱ぐなどと話をして、アメリカに行くと「根無し草」になるよと警告してくれた。斉藤君は古和先生を大変尊敬していたので、他の2、3人の脳循環研究班の上の先生たちと共に北里大学に移動することとなった。斉藤君は北里へ、僕はアメリカへと進路が違ってしまったが、神経学を学ぶ者として生涯の友達となった。上嶋先生は東邦大学に留まった。今から思うと上嶋先生は東邦での将来を僕のように考えていたのかもしれない。僕はもう後には戻れない。アメリカ研修留学は僕には決死の覚悟だった。全力で準備を始めた。
幸いにして既にECFMGには合格していたので、少なくとも第一の関門は通過していた。アメリカでは内科のインターンを終えないと臨床神経学のレジデント(研修医)にはなれないので、内科のインターンに入れてもらえそうな病院を選択して、一つ一つの病院に応募しなければならなかった。里吉先生も古和先生もジョンズ・ホプキンス大学病院(Johns Hopkins University Hospital)で神経学のフェローをやったので、僕も自然にジョンズ・ホプキンス大学が良いと思った。既に医師として経験があり、教授間に学問的な繋がりがある場合にはフェローになれる機会があったようだが、僕のような卒業直後の医師にはそのようなチャンスは全くなかった。外国人医師がアメリカの一流の大学病院にインターンで入ることも非常に難しかったようだが、僕はジョンズ・ホプキンス大学とボルティモア市立病院(Baltimore City Hospitals)の名前しか知らなかったので、「めくら蛇に怖じず」で何とかそこへ行きたいと思った。医師臨床研修マッチング・プログラムはあるにはあったが、まだ不完全だったと思う。ジョンズ・ホプキンスの系列であるボルティモア市立病院を第1志望として応募することにした。行くまでにまだ1年近くあった。アメリカの病院に少しでも慣れるために、僕は週1回横須賀の米国海軍病院に頼んで見学をさせてもらった。僕の面倒を見てくれたのは背の高い、長い白衣を着た親切な神経科医だった。メタルで出来たドアの大きさ、カフェテリアの立派さ、食事の豊富さと美味しさに感心した。不思議なことに医療については驚いたり、感心したりした記憶が全然なく、ただなんとなくゆったりと患者を診察しているという感じを持っただけだった。英会話はできるだけ英語の極東放送を聴くことと、高価な英会話テープを買い込んで練習をするつもりだった。しかし、もともと真面目人間ではないので、テープは買って持っているだけで満足してあまり練習せず、大して役には立たなかった。
僕にとって最後の大きな問題はアメリカで一人でやっていくか、結婚して二人で生活するかということだった。最初から5年間はアメリカで臨床研修をするつもりだったので、結婚して留学する方がいいと思った。僕はアテネ・フランセで知り合った彼女とずっとつき合っていて、それまでやんわりと求婚をしていたが、まだ学生だった彼女はキャリアを持ちたいと考えていて結婚には乗り気でなかった。2年間口説き続けた末、彼女が卒業するとすぐ阿部先生ご夫妻のお仲人で、僕たちは5月5日の大安吉日に日枝神社で結婚式を挙げた。クラスの中で一番若い方の僕が最初に結婚したのだった。銀座の資生堂パーラーでこじんまりした披露宴を持った。妻の卒論指導をした窪田般弥教授が祝辞を述べて「シュールレアリスムとは『手術台の上でミシンと雨傘が出会う』ということ」と妻の卒論について話をして笑いを誘ったが、僕の上司の一人は「三本君には研究室にこもって仕事をしてもらいたいのだが、このような女の城でスタートを切るとは将来が危ぶまれる」と話した。僕は気にしなかったが、妻はのちのちまで恨んでいた。留学まであと一年。母の所有している小さなアパートの一室で新婚生活を始め、留学への最後の準備を進めた。
4 内科インターンという冒険
1972年5月31日、阿部先生ご夫妻、諸先生、親しい友達、家族、そして妻が見送る中、僕は初めて飛行機に乗ってアメリカにやって来た。ケネディ空港からコネティカット州のハートフォードに着くと、サイヤーさん一家が迎えに来てくれていた。というのは、「国際生活の経験」というアメリカのNGO(非政府組織)が留学生がアメリカの生活に慣れるためにアメリカの親切な家庭を紹介し、3週間の家庭生活を経験させるサービスがあって、僕も3週間その恩恵を受けることにしたのだ。タフト大学を卒業したばかりのウェンディという娘さんが僕を招待してくれたのだった。彼女の父親は以前はボストン大学の数学の教授だったが、その当時は有名な男子寄宿学校ケントスクールの数学部の主任だった。ケントスクールは山本五十六の孫が留学して、その経験を「まあちゃんこんにちは」という本に書いたことで日本でも知られていた。僕の妻は中学生の時にその本を読んでいて、何かの因縁を感じたそうだ。ケントは人口が2千人ほどのニューイングランドの小さな美しい村で、そこでサイヤー家の生活を経験させてもらった。正しいトイレの使い方、ベッドの作り方も教えてもらった。夕食はとても美味しく毎日楽しんだが、一つ驚いた習慣は毎夕食後にものすごく甘い大きなケーキがデザートとして出ることだった。家族は皆このデザートを楽しみにしていたが、僕は食事だけで満腹しないよう、デザートのスペースをとっておくように気をつけた。短い間に毎日いろいろな新しい経験をした。ケントスクールでの卒業式、学校での高校生の生活、学生たちと共にした朝食、ウェンディの友達の結婚式、日曜日の教会、買い物、映画館がやっと一軒あるほどの大きさの隣町に行って映画を見せてもらったこと、どれもこれもがアメリカの素晴らしさを示し、アメリカ人の人の良さ、親切さ、僕を外国人として扱うことのない開放性に心から感激し、感謝した。予定が何もない夜にはサイヤー家の家族旅行の無数のスライドを見せてもらった。ある日ウェンディの大学の友達が訪ねてきて、経験の深いサイヤー先生を囲んで彼らの将来について深刻な議論が始まった。ちょうどべトナム戦争が終る頃で、彼らは大学を出ても職がない状況だった。学校の先生になろうとしている学生や医学部に行きたくても合格できず、カリブ海の医学校にでも行こうかと思案している学生たちなどだった。ウェンディはアメリカ平和部隊の一員として夏にはウガンダに行くのだという。学生たちのそうした悩みを聞くのは、全く環境が逆の日本からきた僕には驚きだった。日本ではベトナム景気で大卒は引っ張りだこ、一部の学生たちは勉強もせず学生運動にうつつを抜かしており、一方アメリカでは兵隊の帰還で職がなく、学生たちは困り抜いているようだった。それからボストンに連れて行ってくれることになり、どこを見たいかという質問への僕の答えは既に決まっていて、即座にマサチューセッツ総合病院(Massachusetts General Hospital (MGH))だとお願いした。ウェンディが手配してくれたので若い女性が院内を案内してくれただけでなく、さまざまなことを話してくれた。何人かの腎移植の患者の対処法、新しい集中治療室など、どこを見ても僕は「うわー、アメリカは進んでいるなー」と驚いた。その頃東邦大学では腎移植の話をやっとし始めたところだった。この3週間は夢のような日々だったが、サイヤーさん家族は僕がこれからボルティモア市立病院でインターンをすることを大変心配していた。彼らはそれがどのようなことであるのか、僕よりはるかによく知っていたようである。ケントのサイヤー家での生活は僕にとってアメリカとアメリカ人の最高の素晴らしさとして一生記憶に残っている。感謝するばかりだ。インターンの始まる数日前に、心配するサイヤーさん一家に見送られて、僕は飛行機でボルティモアへ発った。
ボルティモア市立病院(ジョンズ・ホプキンス大学)
インターンの始まる5か月前にボルティモア市立病院のチャールズ・カーペンター(Dr. Charles Carpenter)内科主任から、内科中心(9か月内科と3か月小児科)のインターンとして僕を受け入れるとの親切な手紙が来た。その時の喜びと感激は言葉には尽くせない。臨床神経学を学べるジョンズ・ホプキンス大学に一歩近づいたと思った。いよいよそのボルティモアに来たのだ。さびしい空港から海底トンネルを通り抜け、ハイウェイをタクシーで約40分、広大な芝生の丘に立つ大きな古めかしい建物の中の一つがボルティモア市立病院だった。荷物は大きなトランクが一つ。ほかの荷物は後から船便で来ることになっていた。早速カーペンター先生のオフィスに行くと、親切な秘書が僕のファイルを出してくれ、僕は無数の書類にサインをした。それから人事課のようなオフィスに案内され、またたくさんの書類にサインした。
俸給は年9500ドルで、当時の1ドルは300円くらい、アメリカの平均収入が1万2000ドルくらいの時代だった。病院の研修医専用アパートの家賃は光熱費込みで月80ドルで、アメリカの平均家賃が165ドルだったから半額だ。ガソリンが1ガロン(約3・8リットル)55セント、ジーンズが8ドル、靴が20ドルだったのを覚えている。
研修医係が病院の建物から100メートルほど離れたところにあるアパートまで連れて行ってくれた。アパートはみな二階建てで一棟に8室、こちらではガーデンアパートと呼ばれるスタイルで芝生の中に並んで建っていて、コンクリートの歩道が縦横に走っていた。僕らに与えられたアパートは「エフィシエンシー」という大きな一室がリビング、寝室、キッチンの用途を果たし、ほかにトイレとバスがついていた。妻は渡米する前にカーペンター先生に寝室が別になっている部屋に取り換えてくれと手紙を出したが、その部屋しかないと断られていた。
その初日に、突然銃が発砲したような音が続けざまにした。しばらくして広大な野原の上空を2~3台のヘリコプターがブルンブルン飛んでいた。後から知ったことだが、市の囚人が病気で救急室に来ていたが、そこから逃走したのだった。なるほどサイヤーさん家族が心配した理由が少し分かった気がした。
ここには数人の日本人医師が留学していて、病院からそのうちのT先生を紹介された。次の日早速T先生に連絡すると、僕が来ることを既に知っていて大変親切にしてくれた。ショッピングセンターへ連れていってくれ、生活の必需品を購入するのを手伝ってくれたり、市内を案内してくれた。夜はボルティモアで有名な(悪名高い)ボルティモア・ストリートのストリップ劇場にも連れて行ってくれた。音楽に合わせて踊りながら脱いでいくのをビールなどを飲みながら見るのは初めてだった。自由奔放なヌードショーにびっくりした。これが厳しいインターンの始まりとはとても思えなかった。ボルティモアは大きな港町で多くの船員が街を歩いていた。
T先生は病院内の同じアパートに住んでいた他の日本人の家族を紹介してくれた。彼は独身で、日産フェアレディというオープンカーのスポーツカーに乗っていた。彼は病理学の研修が終って数日のうちに帰国するのだった。そこでぜひ車を買ってくれと頼まれた。とても親切にしてくれたことと、医学部の親友が日本で同じ車を運転していて僕も運転させてもらったことがあったので、僕はその車を購入することにした。車がなければ生活できないアメリカ社会なので、早急に免許証を取る必要があった。州が発行している運転免許試験のための30ページほどの小冊子を繰り返し読んで仮免をもらった。T先生に横に座ってもらって大きな病院の敷地内を縦横に走っている道路を何度も運転した後、実地試験を受けて免許証を手に入れた。アメリカは車の運転免許に関してはうるさくはなかった。少なくともこの時点で、インターン生活を始める大体の準備が整った。
最初のローテーションは精神科
ローテーションのスケジュールはもう既に決められていて、僕の最初の月は精神科だった。おそらくアメリカの医師たちは何らかの希望をリクエストすることができたはずだが、そうした時間の猶予が外国人にはなかったのか、僕にはリクエストをする機会は与えられなかった。大切な内科のインターンの始まりに、誰が精神科を希望するだろうか? しかし今振り返ってみると、僕が英語と新しい病院の組織に慣れるのには全く正しい選択だったかもしれないと思う。インターンはまず外来患者を診るのが仕事だった。アメリカ人のインターンならば自分で問診をするだろうが、僕の場合、必ず精神科の看護師かソーシャルワーカーが一緒にいて病歴を取り、必要な問診をして記録した。僕は分かったような顔をして頷いたりしていたが、実際のところ英語はあまり分からなかった。それが終ると僕らはアテンディング(当番に当たっている)の精神科医のオフィスに行き、彼女らの一人が症例を説明し、検討を加えて、さらに治療計画を立てる。薬剤治療が必要であれば、僕が処方箋を書くという手順だった。
精神科の女性の看護師が僕に「あなたは遊び人なの?」と聞いてきたことがあった。それは僕が特に好きでもないスポーツカーに乗っていたからだった。いっそのこと「イエス!」と答えて彼女と友達にでもなればよかったかもしれないが、その時の僕には余裕のよの字もなかった。日中は毎日次から次へと外来患者を診察し続けて、あとは処方箋を書くぐらいで楽な仕事だなと思いきや、夜になるととんでもない話で、夕方5時以降は毎晩僕一人が精神科の当直だった。幸いにして精神科の入院患者に関しては責任がないが、おかしげな電話、気が狂ったとしか思えない電話、自殺をしようとしている者からの電話はすべて僕に回ってくる。しかも救急室で精神系に異常があると疑われる者はすべて僕の患者だった。救急室のチーフレジデントが電話で「ヒロシ、患者だよ!」と言うと、暗い野原に延びる一本のコンクリートの小道を歩いて病院に向かった。ある時電話が掛かってきて自殺未遂の女性の患者を診るように言われた。患者は睡眠薬を多量に飲んだらしい。嘔吐刺激剤を飲まされ、胃洗浄をして医学的には回復していた。だが意識がはっきりとしてきて泣きじゃくっていた。救急室の精神科インターンの責任はただ一つのことだけを決めればよいことになっている。患者にまだ自殺の可能性があるか(即入院)、あるいはもうその可能性がないか(即退院)である。騒々しい救急室のカーテンで区切られた小さな囲いの中でその患者から病歴を取ろうとしたが、はっきりとした英語だって僕には分かりづらいのに、まして泣きじゃくりながらの英語ではさっぱり分からない。こちらは必死で「え? 何? もう一回言って?」などと繰り返してばかりいると、さすがにそれまで泣きじゃくっていた患者もこんなに英語が分からない「精神科医」に診られていることに呆れ果てて泣くのを止め、どうして自分が自殺をしようとしたのかを懸命に説明し始めた。話が終った時には患者はこの精神科医から一刻も早く離れてここを出たいという風で、すっかり自殺の意志も消え去ったようだった。この患者の状態と診察の様子を電話で当直の「本物」の精神科医に報告し、承認してもらって、内科のレジデントに「自殺の意思なし」と報告し、僕の仕事は終わるのだった。似たようなことは2、3回起こったと思う。時々電話交換手が「ドクター・ミツモト、外から電話です」と、誰だかわからないがまともでない患者からの電話を精神科インターンの僕につなげてきた。面と向かっての会話だったら僕でも少しは分かるのだが、電話は難しい。馬鹿げたことを言う者、わめき散らす者、死にたい、死にたいと言う者。こちらは変なアドバイスを与えることはできないので、しかも大体何を言っているのか分からないことが多いので、「病院の救急室に来なさい」を繰り返すばかりだった。こんなことで最初の1か月が「無事」に過ぎたのだった。
2か月目はER(救急室)
救急室は成人内科系と外科系に分かれていた。内科系では二つのローテーション、朝8時から夜8時までと夜8時から朝8時までの時間帯で仕事をするので、体力的には楽だった。昼間は血液検査、髄液検査など細菌培養をする検査技師がいるが、夜は自分の患者に必要な検査はほとんど自分でやることになっていた。割り当てられた小さく仕切ったブースに入れられた救急患者を診察し、診断して自分なりに治療計画を出してからレジデントと相談して結論を出す。一人終わればその次というように一人ずつこなしていく。ある時50歳くらいの黒人の患者を診た。僕がブースに入ると「アイ・ハブ・ア・へー。アイ・ハブ・ア・へー」を繰り返す。聞き返すと、またそれを繰り返す。教養があって頭がいい人は、こちらが分からないと察すると言葉を変えるとか、言い方を変えるとかするのだが、この患者はただ「へー、へー」と言うばかり。日本語ならばさしずめなにかオナラにでも問題があるのかと思うが、これは英語。困った挙句、別のインターンに聞いてもらうと、「ヘッドエイク(頭痛)」と言っていることが分かった。また別の機会には、患者の言うことが分からなくて繰り返し聞いているうちに、患者は突然「もう、この医者嫌だー、代えてくれー」と叫び出した。僕はブースを出て、肩をすぼめながら「ブース11の患者が僕を嫌だと言っている」とレジデントに言うと、「オーケー、ブース5に行って」と簡単に患者の交換を許してくれた。時々腎移植の患者もERにやってきた。それも僕には新しいことだった。驚くほど肥満の患者も診た。とにもかくにも心音を聴診するのでも乳房が邪魔になるし、聴診器は反対側には届かないというアメリカでの新しい経験だった。夜のローテンションでは常に何かが起こっていて、眠れることは稀だった。時々大した病気でもない老人が夜中の2時、3時頃やってきて、夜中でないとすぐに診てもらえないからだと告白した。日に少なくとも2、3回は救急車からの連絡で心臓停止の患者が送られてきた。その時には全員で待機し、仕事の役割、手順を決め、到着するやいなや専用の部屋で蘇生術を行う。こんなことは今ではどこでも当たり前のことだが、1972年時に日本では電話を通してどんな患者が送られてくるのか分かって準備をしていたことはまだなかったと思う。
妻が2か月半遅れて来ることになっていた。それで僕は彼女をボルティモアの空港に迎えに行くために、一度空港までの道路を走って練習しようと思った。車に問題がないか、行きつけのガソリンスタンドで点検してもらった。それからいよいよ高速に乗って空港を目指した。ボルティモア港の海底を通るハーバートンネルは二車線の暗いトンネルで、いかにも車線が狭く感じられる上、車と車がびっしりと繋がり、自動車免許取り立ての僕は威圧感を感ぜずにはいられなかった。スピードメーターに気を配りながらトンネルに入った。するとエンジンの温度計が刻々と上昇していくではないか! どうしたのだろうと気が気ではなかった。どうしよう、どうしようと不安におののいているうちに、今度はボンネットの前のラジエーターの蓋から蒸気がシューシューと出始めた! 明らかにエンジンの加熱だ。車がびっしりと並んで走っているトンネルの中で車を止めるに止められず、死ぬ思いで走り、トンネルを出て料金所まで行った。何時間も走ったような気がした。料金所でなんとか事情を話し、AAAというアメリカ自動車協会のレッカー車に来てもらった。どうもガソリンスタンドが点検した後、冷却液を入れ忘れたらしい。週末になってこの経験を日本人の仲間に話すと皆で大笑いして、先生は短い間に僕らよりはるかにすごい経験をしたよと言われた。ともかくその死ぬ思いの練習の甲斐あって妻を無事に迎えに行き、アパートに連れてくることができた。ところが彼女は野原の中のアパートへ来ると「すごく寂しい、世界の果てに来てしまった」と三日間泣き続けたそうだ。実は僕はそういうことを全然覚えていない。自分のことで精一杯で、はるばる東京からやって来た妻のことを気遣う余裕はなかったのだ。こうして2か月目も「無事」に過ぎた。
3か月目は病棟のインターン
病棟勤務が始まる前夜はERでの夜勤でほとんど寝ていなかった。その日はホプキンス大学から新しい病棟主任のアテンディングが来ることになっていた。僕は急いで担当の5人の患者のカルテを読んで準備した。朝の8時半、病棟主任が自己紹介をし、それから皆の簡単な自己紹介が終わった後、ホプキンスの学生も数人加わって回診が始まった。彼は3人のインターンに「今日は初めてなので皆さんの受け持っている患者を紹介してください」と言った。僕の患者の番になったが、なぜか口が渇いて何も言葉が出てこない。患者のことをまだ知らないことと学生などが自分に注目していることにすっかり動転してしまったようだった。そのうち僕の斜め後ろにいた学生の一人が声を出さずに拳を口に突っ込んで笑う仕草をしたのが見えた時、僕は突然駆け出して逃げてしまいたい衝動にかられた。その後のことは記憶を無意識に滅却したようでよく覚えてはいないが、一人のレジデントが「彼は昨夜ERの当直だったので」と言い訳をしてくれ、患者の説明をしてくれたのだったと思う。この出来事で僕はすっかり打ちのめされて、「あー、なんでこんなところに来てしまったのだろう」と悔やんだり、嘆いたりしたが、そんな甘ちょろい感傷に浸っている暇はなかった。当時アメリカでもホプキンス大学は研修の当直制度が一番厳しいと言われていて、二日に1回当直だった。朝出かけるとその夜は病院に泊り込み、翌日一日働いて、夜仕事が終わると帰宅して寝る。翌朝はまたその繰り返しである。妻が言うのには、僕は二日に1回帰ってくると遅い食事をして、口を利く気力もなく寝てしまったそうだ。当直の日は二つの病棟に交代で入院がある。入院患者の病歴を取り、診察をしてカルテにすべてを記載しオーダーを出すと、その時を待っていたかのように天井のスピーカーが「ドクター・ミツモト、ERに電話して下さい」と言ってくる。息つく暇がないとはこのことで、今日は食事がとれるか? いつ食事がとれるか? と食べることばかり考えていた。ここでインターンとして生き残るには医学的知識もさることながら、人一倍のスタミナが必要だった。
ののしり語
ERでは誰でもすぐに「シット! シット」とののしっていた。インターン、レジデント、看護師、患者、警官など、ERにいる人々は何か事がうまく行かない時にはすぐ「シット!」を発していた。僕としてはこれほど簡潔にフラストレーションを表現する方法はないと、まねをして使い始めた。英語の表現がうまくできない僕はこれに限ると、いつでもどこでも「シット! シット!」を連発していたようだ。ある時僕の上のレジデントが「ヒロシ、シットの意味を知ってるのか?」と聞いてきた。僕は頭を横に振った。彼は僕がポケット辞書をいつも持ち歩いていることを知っていたので、「君の辞書を引いてごらん」と言った。それを出して見ると「糞」と書いてあった。僕は顔をちょっと赤らめながら、少し躊躇して「いやー、知らなかったよ」と言った。彼は「紳士は君のように頻回には使わないよ」と軽く微笑んだ。それからは選択的に、頃合いを見定めて使うことにした。日本語で「糞」とののしるのと、英語で「シット」と言うのでは感覚的に異なる。母国語と外国語では感情的になる度合いが全く違って、英語でののしってもあまりののしった気がしないのだ。
レジデントの職探し
病棟勤務になって分かったことは、アメリカ人のインターンは皆ストレート・インターンといって内科だけの研修だということだ。僕ともう一人香港大学を出たワン先生とは内科中心のインターンでアメリカ人のインターンとは違っていた。しかも彼らは次のレジデントとしての行き先がもう既に決まっていた。ホプキンス大学のような競争の激しい研修病院ではピラミッド方式といって上級に上るに従って職の数が減る。僕は来年はここに残れるのだろうかと考え始めた矢先にカーペンター先生に呼ばれた。彼はひどく困った顔をして、「実を言うと来年は2~3人のレジデント研修医がベトナム戦線から帰国することになっている。帰還する医師は無条件で受け入れなければならないので、君のための職はなくなってしまった。しかしマウントサイナイ病院ならレジデントの口がある」と説明してくれた。その病院のことは聞いていた。市立病院と比べるとはるかに見劣りがした。こちらはなんとかホプキンス大学で神経学を研修したいという「野望」の持ち主なので、やや考えてからその話は辞退した。「僕は臨床神経学の研修をしたくてアメリカに来たのですが、来年はもう一年内科をやったほうがいいのでしょうか、それとも神経科に応募した方がいいのでしょうか」と質問した。カーペンター先生はしばらく考えてから「両方応募したらいいでしょう」と言った。カーペンター先生には推薦状を書いてくれるように頼んだ。
それから僕たちのアパートはしばらくの間家内工場のようだった。阿部、里吉両先生からいただいた前年の推薦状を僕と妻のそれぞれのタイプライターを使い分けて、東邦大学の便箋(ちゃんと準備して持ってきていた)に同じ推薦状を打ち直した。それらの手紙と封筒を阿部先生と里吉先生に送り、サインをしていただいてから別々に日本から郵送してもらい、それを内科と神経科の可能性のありそうな100ぐらいの病院の研修医の主任に送るのだった。僕が応募書を提出した病院の中にはもちろんホプキンス大学も入っていた。アメリカでは面接なしで研修医に雇ってくれることはほとんどないと聞いていた。有名なハリソン教授のいるアラバマ大学退役軍人病院から職があると言ってきてくれたが、あまり行く気にはなれなかった。ぺンシルベニア病院から内科のレジデントのインタビューをしたいと言ってきたので、車で2時間と近いこともあって面接に行った。古い立派な歴史のある病院だった。ところが年が明けてもどこからも返事がなく、僕はすっかり意気消沈していた。2月頃ホプキンス大学から電話があって、面接をすると言う。喜び勇んで面接に行った。数人の先生たちに面接をしてもらうことができた。彼らは皆僕がどんな研究に興味があるのかを知りたがった。神経部門では脳循環のことを少しやっていたのでそれを言うと、もう脳循環の研究は終ったときっぱりと言われ、愕然とした。神経病理専門のドナルド・プライス先生(Dr. Donal Price)にも面接を受けた。彼の部屋にはところ狭しと三船敏郎の写真やポスターが飾ってあって、黒沢監督の大フアンだった。日本映画の話をした。それがインタビューだった。
それからしばらくして僕がERのローテーションで働いていると、頭上のスピーカーが「ドクター・ミツモト、外線です」と告げる。すぐ出ると「やあー、僕はケース・ウェスタン・リザーブ大学(Case Western Reserve University (CWRU)= 以下「ケース大学」)のドクター・コノミー(Dr. John Conomy)だが、君にレジデントの職がある。来る気があるかい?」と言う。僕はびっくりしてすっかり気が動転してしまい、かろうじて「はい、でもいま他の病院と面接中です。いつまで待ってもらえますか?」と聞いた。彼は1週間待つと言ってくれた(何年も後のことだが、コノミー先生はこの時の会話を面白がって、よく僕のまねをした)。なんという朗報だろう。なんという幸運だろう。これほど嬉しかったこと、ほっとしたことはない。ケース大学というところがどこにあるのかも思い出せなかったが、面接なしでレジデントに取ってくれると言う。驚いた。僕はアメリカの臨床神経科医の名前など誰も知らなかった。早速その晩日本の里吉先生に電話をした。ケース大学のフォーリー教授(Dr. Joseph Michael Foley)のことを話すと、先生は「あー、フォーリー先生、よく知っているよ。あの先生は立派な人だ」と教えてくれた。僕はよかったと安堵し、嬉しかった。カーペンター先生に会ってケース大学のフォーリー教授のことを話すと、「フォーリー先生は素晴らしい人です」と言った。その時僕はなぜ内科の彼が神経科の、しかもクリーブランドのフォーリー教授のことを知っているのだろうと不思議だった。それほどフォーリー先生は有名なのだろうかと思った。次の週ホプキンス大学のドラックマン先生(Dr. Daniel Drachman)に面接した。なぜか彼は僕がケース大学に受け入れられたことを知っていて、盛んにケース大のフォーリー教授はいいよと勧めた。僕はここのホプキンスに来たくて面接しているのに、なぜケース大学を勧めるのだろうかと不思議で、いささか不愉快でもあった。後で分かったことだがドラックマン先生はケース大学にいたことがあったのだ。その後ホプキンスの神経学の主任教授に二回電話して決定をしてくれるよう頼んだが、まだインタビューと選択が終っていないとのことで、僕はそれ以上待つわけにはいかず、ケース大学のフォーリー教授のところで臨床神経学のレジデントをやることに決めた。それから春も過ぎてから、カーペンター先生は病院の職員に自分は6月でボルティモア市立病院を辞めて、ケース大学の内科主任教授に就任することを発表した。それで僕が持っていた疑問、なぜ僕がすんなりとケース大学のレジデントに採用されたか、なぜカーペンター先生がフォーリー教授のことをよく知っていたのかという疑問がすべて解消した。全くの偶然だが、なんと運のいい偶然だったのだろう。
残りのインターン・ローテーション
最初の3か月が過ぎるとボルティモア市立病院のインターンの仕事に少しづつ慣れてきた。ただやはり二日に1回の当直から来る肉体的、精神的な疲労はたまっていくばかりだった。救急室のローテーションは病棟よりもはるかに楽だった。僕が心臓集中治療センター(CCU)のローテーション中のある日、10人以上の心筋梗塞・肺浮腫の救急入院があった。目まぐるしく立ち働いて、気が狂ってしまいそうだった。そのうえ一夜のうちに5人が死んだ。チーフレジデントも来て、さらに他のレジデントも呼びつけて、数人で対処した。こうした経験によって、何が起こっても驚かない医者に育つのだろう。11月になって小児科のローテーションに入った。朝8時に集まることになっていたので、小児科の外来に行ってみると電燈だけはついているが誰もいない。一体どうしたのだろうとあちらこちら見てみたがやはり誰もいない。9時近くになってやっと人々がやって来た。聞いてみるとアメリカの夏時間が終ったのだと言う。時間が1時間遅れて元に戻ったのだった。僕はそんなことも知らなかった。小児科は3か月間外来と小児救急室の担当だった。サントーシャンという小児科医が僕の指導医で、よく面倒を見てくれた。ホプキンス大学の小児科はアメリカでも有名で、小児科の治療に関しての大変使いやすいポケットガイドを出版していて、毎日それを使っていた。ある日13歳の女の子が14歳の男の子につき添われてきた。女の子は妊娠していた。僕にはショックだった。この患者の件は小児科の中でも大問題となって、今後どのように教育、援助さらに治療を進めていくのかが大きな議題になった。僕の小児科の研修はローテーションのためであり、小児科の先生たちも僕が小児科を目指すインターンではないことを知っており、真面目に務めて無事に終った。そしてまた激しい内科のローテーションに戻った。
アメリカでの臨床医教育制度
渡米する前に僕は既に日本でインターンを1年、無給医局員として内科研修を3年修了していたが、アメリカで1年間のインターンから始めるのはアメリカで臨床研修をするためには必須だった。とはいえ当初僕はアメリカでのインターン研修が医学的に有益であるかどうか疑問に思っていた。研修を終えた後、その答えは明白だった。個人の責任が明確で、インターンに課せられた任務は何でもやらなければならないこと、研修自体が心身ともに激しいということ、研修が非常に集中的に行われて経験・知識レベルが一年ごとに格段の差で伸びていくことなどから、医者として成長する過程でこのインターン研修ほど有効な経験はなかった。インターンはただやみくもに働くだけで本や文献を読む時間がほとんどないが、レジデントになると症例に関する文献をよく読んで症例に関して医学的なコメントを加え、分からない時には次回までに勉強をしてきて、その知識を皆と分ちあう。日本人は知識をひけらかさないという傾向があるが、それにしても日本の上級医局員と下級医局員との知識や経験の違いはあまりはっきりとしない。ホプキンスのボルティモア市立病院では、レジデント制度は以前にも書いたがピラミッド型で、チーフレジデントは一人きりだ。彼らは経験に加えて豊富な知識を持つようになる。僕が出会った内科のチーフレジデント、ワンズ先生(Dr. Jack Wands)のことは今でも忘れられない。彼は常に病院にいるようだった。何か大変なことが起こると彼はいつも現場にいて他のレジデントに指示を出し、管理し、教育していた。彼は一体いつ寝るのかと何度も思った。前にも書いたように僕がCCUで死に物狂いになっていた時にも、彼は自分がインターンであるかのように手伝ってくれた。彼はカーペンター先生の右腕としてグランド・ラウンズや疾病・死亡検討会の中心的な役割を果たしていた。彼はきっと立派な医者になり、偉くなるだろうと僕は思っていたが、案の定それから何年後かにハーバード大の消化器科の教授に、次いでロードアイランドのブラウン大学病院の教授になり、そこの新しい肝臓研究所の初代所長になった。あの熱心さは普通ではなかった。日本とは教育制度の違いがあるが、アメリカでは優秀な医師は自由に良い病院を選び、病院もできるだけ優秀な医師を雇うことに努力している。結果的に優秀な医師はさらに優秀になるということになる。またそのように作動する暗黙の了解があるように思った。ワンズ先生は、優秀な医者がさらに優秀になるアメリカ医学の典型的な例だと思う。
次に日本との大きな相違は知識の伝播する速さだと思う。アメリカの医学の進み方は速くて、少なくとも内科に関する限り、「ニューイングランド医学ジャーナル」というトップの医学雑誌に新しい記事が載ると、その記事に書かれている治療や研究などはいくつもの大学病院で既に議論されていることが多く、時にはそれを既にし始めている場合もある。最新の治療や研究記事の掲載とそれを大学病院などの研究施設が実践するスピードの速いことに驚いた。
アメリカは大きな国で日本の比ではない。病院の治療・研究・教育のレベルには大きな差がある。僕がここに書いていることはアメリカのトップレベルの病院や大学のことである。全体としてアメリカの医学・医師教育は厳しい競争の上に成り立っている。これは少なくともインターンをやらなければ分からなかっただろう。
厳しかったインターンの一年を乗り切って
最後のローテーションはホプキンス大学病院のマーブルグという名の病棟で、ホプキンス大学病院の医師の個人患者のための独立した病棟だった。ボルティモアだけでなく、アメリカの各地からホプキンス大学病院の一流の治療を求めてくる中産階級以上の患者で、市立病院に来る下層階級の患者とは様相、態度、言葉づかいまで違っていた(現在では超一流ホテルにも負けないほどデラックスな病室とサービスとで世界のお金持ち患者を治療しているそうだ)。病気の程度も比較的軽いものが多く、患者の個人医師が僕らの教育を含めて毎日回診をし、オーダーを出す。入院から退院までの治療に関してすべての面倒を見るのがインターンの仕事だった。放射線回診(その日のレントゲン写真を放射線科の専門医がレビューしてくれる回診)、疾病・死亡検討会、グランド・ラウンズは内科全体の活動なので、ホプキンスのレジデントと一緒に行動した。マーブルグでの勤務はインターンのローテーションのうちで一番楽だった。もう6月も終わりに近いある日、仕事を終えて市立病院のアパートまで車を走らせていた。夏時間なのでまだ昼間のように明るかった。なにか突然嬉しくなった。「あー、やったんだ、終わったんだ! インターンをやり遂げたんだ!」その時、もうどんな辛いことも僕にはできるという自信が湧いてきた。
僕はその年一番できの悪いインターンだったと思う。英語はよくできず、勝手がわからずおろおろしたり、あわてたりして他のインターンやレジデント、看護師にとっても足手まといだっただろう。インターンはお互いに厳しい競争関係にあったので、個人的に僕に親切なインターンはいなかった。あるインターンは自分の間違いを認めず、僕のせいにしようとしたこともある。今考えると彼らは彼らなりに自分のことで精一杯だったのだと思う。今でもよく覚えているのは、ある朝べランダに出る大きなガラス戸から外を見ていると、同僚が一人、二人とアパートから病院に向かって歩いて行く。彼らの疲れきった表情と元気のない姿を見た時、「あー、みんな辛そうだな。僕だけではないんだなあ」と知って安心し、同胞意識を持ったことだった。毎週「グランド・ラウンズ」と呼ばれる内科全体の勉強会があった。いつも肉体的にへとへとであったこととよく聞き取れない英語のためとで、日本にいてアメリカ人向け極東ラジオ放送を聞いているかようで、何を話しているのかよく分からなかった。分かったのは自分の症例のことを話している時だけだった。グランド・ラウンズに出席していて興味がなくとも何を話しているのかが分かるのには一年ぐらい掛かった。
一方レジデントはみな僕に親切だった。彼らにはそれだけの余裕があったのだろう。一年上のレジデントのスロスバーグ先生は感謝祭のディナーに僕ら夫婦を招待してくれた。感謝祭はアメリカのニューイングランド地方にメイフラワー号でやって来た清教徒の人々がアメリカ原住民の助けで生き延びることができたことに感謝する祝日で、宗教には全く無関係、アメリカの最も大切な祝日の一つで、七面鳥を焼いて家族でお祝いする。スロスバーグ先生と奥さんはワシントンとボルティモアのほぼ中間に位置した新しく開発されたコロンビア市に住んでいて、彼らの家は住宅街に規則正しく並んだ新しい家々のうちのすてきな一軒だった。アメリカの歴史を話してくれ、丸ごと料理した七面鳥を賞味した。とても楽しいひと時だった。
ボルティモアでもアメリカ人は大変親切だった。病院の牧師さんが僕たちを自宅の夕食に招待してくれたこともあった。ここでもデザートに大きなケーキが出て、初めて経験する妻はびっくりしていた。キリスト教関係のボランティアの人が病院に赴任した外国人医師のためになにか困っていることがないか聞いてくれ、率先して手伝ってくれた。僕たちのアパートには一人用のソファーベッドがあったが、妻が来ると二人では寝ることができない。ハズニーさんという人が自分の家の余分なダブルベッドをわざわざ自分で運んで届けてくれた。ハズニーさん夫妻は僕たちがボルティモアに滞在した一年間を通して、数限りない親切を施してくれた。週末に教会のサービスに誘ってくれた後に食事に招待してくれたり、感謝祭やクリスマスの教会のサービスやディナーにも招待してくれた。僕が仕事で行かれない時は妻を迎えに来てくれて、教会の催し物に連れて行ってくれたりもした。クリスマスのディナーでは妻が七面鳥が嫌いだと言うと、わざわざ彼女のためにステーキを用意してくれた。病院の牧師さんもハズニーさんも敬虔なクリスチャンだが、僕たちを勧誘しようというようなことは一度もなく、ただ人助けが楽しいという風だった。全く見ず知らずの外国人に無償でサービスをしていた。これこそ正真正銘のキリスト教精神なのだろう。今日僕たちがあるのは彼らの親切のお陰だと、それを忘れまいと僕と妻は折にふれて話すことがある。
僕は一日中、時には夜も週末も仕事をしていたから、妻はアパートで一人でぽつんとしている羽目になったのだが、幸いなことにアパートに住んでいる日本人の奥さんたちに親切にしてもらったり、台湾やコスタリカから来ていた奥さんたちと仲良くなったりして、だんだんと生活に慣れていったようだ。研修医の妻たちによる「奥様クラブ」があって、妻は他の日本人の奥さんたちと料理クラブに入って日本食を作ったり、アルゼンチン、イランなど他国のお料理を味見したりして楽しんでいた。
これもどこから来たのか、ボランティアの婦人が毎週アパートへ来て、数人の外国人の奥さんたちに英語を教えてくれた。それだけでなくアメリカの家庭を紹介してくれたり、ボルティモアの名所に連れて行ってくれたりした。彼女はアイゼンハワー大統領の弟さんと知り合いで、立派な彼の家に連れて行ってくれたこともあるそうだ。一度は妻に彼女が所属している婦人クラブに着物で来てくれと頼んだことがあった。妻は日本人の奥さんに着物を着せてもらって出かけていったが、初めてのことで緊張して草履に履き替えるのを忘れて靴のままで行ってしまったそうだ。
もう一つ、僕はもうすっかり忘れていたのだが(それほど僕は妻に関心を向ける余裕がなかったのだ)、妻が到着してから2か月ほどたった頃、ある朝森先生というご夫婦が玄関に現れて、ベビーシッターが突然辞めてしまったので今日一日だけ預かってほしいと、生後2、3か月くらいの赤ちゃんをほとんど妻に押しつけるようにして置いていった。彼らは二人ともフェローとして臨床研究をしていた。日本人の間で子供がなくて暇にしている奥さんというのは僕の妻しかいなかった。育児の経験のない妻は困り果てたようだが、眠っていることの多い赤ちゃんだったのでなんとか世話をしていたようだ。翌日もまだ代わりのベビーシッターが見つからないと連れてきて、その翌日も、1週間たっても見つからない、一月たってしまって、とうとう妻にずっと預かってくれないかと頼んだのだった。最初からそのつもりだったのかもしれない。僕たちが6月末にボルティモアを去るまで妻はその赤ちゃんの世話をして、日本人の人たちが僕たちのために開いてくれた最後のお別れパーティでは、この赤ちゃんは母親よりも妻にすがりついて離れなかった。
ボルティモアは僕にとってはインターンの辛い思い出があるから好きな市ではない。機会があってボルティモアを訪れると、良い思い出もたくさんあるのに、どうしても嫌なことばかりを思い出してしまう。僕が住んでいた当時、ダウンタウンは犯罪が多くて、当直明けのレジデントが襲われたこともあり、妻もハンドバッグを胸に抱えて歩くように言われた。ダウンタウンにエドガー・アラン・ポーが住んでいたという長屋を見に行ったが、その周りにホームレスのような男たちが酒瓶を持ってたむろしていたので、怖くて車から出ずに帰ってきたこともあった。それから1980年代に市内のリバイバル政策が始まって、ダウンタウンの犯罪地域も一掃され、内港には洒落たレストランやホテルやショップが立ち並ぶ「ハーバー・プレイス」という一角が開発された。ボルティモア市立病院は今日では近代的な病院に再建され、その名前も「ベイビュー病院」と呼ばれ、ジョンズ・ホプキンス大学の一部となっている。