第2章 医者への第一歩
1 医学部へ
大学受験はほとんどの高校生にとって大きな重荷を背負って歩くような、何をしていても頭から離れることのない精神的負担であるのは今も昔も変わらないと思う。一流大学へ入ることが自分の価値を証明する方法のようであり、僕の親友の場合には、太平洋戦争で戦艦の艦長であった父親が戦死して家が没落したため、必死に働く兄の援助を受けながら、彼が一流大学へ進むことが一家が低迷から這い上がる唯一の道のようだった。いずれにしても子供から大人になるための避けられない関門であり、よく考えれば大学受験の苦労などは恵まれた子供たちの泣き言にすぎないのだろうが、ともかく僕は嫌で嫌で仕方がなかった。それでも夏休みには予備校の夏期講習を受けた。開け放された教室の窓の外から聞こえてくる蝉の鳴き声と暑さでむんむんとした教室で大きな扇風機がブンブン音を出しながら首を回している中で、白い開襟シャツの先生が黒板に懸命に何やら書き込んでいるのを、僕はぼーっと眺めていた。学期中は週一回の添削の通信教育も一通りやるにはやった。家での勉強は「算数自由自在」などの入学試験参考書を勉強したが、それよりも僕はまず第一に学習計画を立てること、さらにその立て直しをすることに勉強より多くの時間を費やしていた。
そんな僕でも、いやそんな僕だから受験のプレッシャーが大きくて、親友の竹崎とはよくそのことについて話をした。ある日突然、もう耐えられないと思った。そして僕は家出をした。どんな思いだったのかはもう思い出せないが、ふらふらとなんの当てもなく電車に乗って潮来に行った。もう夕方だったので駅の近くの旅館に泊まった。翌日はモーターボートを借りて霞ケ浦を走った。それ以上することもなく、行くところもなかったので仕方なく家に帰った。母は非常に心配したようだった。竹崎が来ていて僕の帰りを待っていてくれた。本当に馬鹿馬鹿しいことをしたと恥ずかしかったし、家族や友人にすまなかったと反省した。だが、どういうわけか、この出来事が転機になって僕はもう受験から逃げようとは思わなくなった。
「浪人はダメ!」
いよいよ受験校選択の時期がやってきた。自分の学力を考え、浪人をせずに国立医学部に入るのは無理だろうと思っていた。兄にそのことを話すと、一言のもとに浪人はダメだ、お前のような性格では浪人は無理だと言った。どの性格が浪人に向かないのか聞き出すことはできなかったが、「ともかく担任の先生に絶対合格できる医学部を探してもらえ!」と言われた。素直な僕はすぐに担任の相原先生に会い、事情を話して「先生、絶対受かる医学部を探してください」と頼んだ。「うーん、うーん」と唸りながら、机の上にばらばらと置かれた教師用の受験の手引きをあちらこちらと見ながら、長い時間をかけた後「うーん、まー東邦だろう」と言ってくれた。僕はすぐに「ではそこを受けます」と返事をした。国立は千葉大の医学部にして、二校に願書を出した。
千葉大の国語の試験で『くもの糸』の問題が出て、芥川龍之介の名前を書かされた。芥川の「芥」の字がなんとしても思い出せず、試験後「あー、千葉大には縁がなかったな」と思った。結果もその通りだった。そのうち東邦大学の試験も終って、次に面接に呼ばれた。3人の立派な先生方の前に座らされ、どうして医学に進みたいのかなど通り一遍の質問の後、父親がいないためか、家庭の経済状態を非常に詳しく聞かれた。誰が僕の学費を払うのか、兄の銀座の店の間口の広さまで聞かれた。医学部には入学金のほかに何がしかの寄付金がいると言われていたが、その話はなかった。合格通知がきて、しかも54万円の入学金だけで入学ができ、嬉しかった。結局のところ医学部に入れば、もう国立も私立も問題ではなかった。心底ほっとした。相原先生の予測は正解で、まことに偉い先生だったと今でも感心し、感謝に耐えない。
習志野での医進過程2年間
大学に入って一番嬉しかったのは、それまで心に重くのしかかっていた重荷がとれたことだった。自分の好きなことができるという自由に大空を飛んでいるような気持ちになった。それまでやりたいと思っていてできなかったことをやり始めた。それらはドイツ語、ピアノ、いろいろな本を読むことだった。
医学部の初めの2年間は医進教養課程で校舎は千葉の習志野にあった。昔の練兵場の兵舎を改造した濃いこげ茶色の大きな建物で、理学部と薬学部が一緒だったが、彼らとの合同クラスは人文系の科目だけで、そのほかのクラスは医学生85人がいつも一緒だった。大きな大学のように自分の選択した科目を教室から教室へと移動するといった変化がなく、いつも同じ教室で高校の延長のような気がした。この課程では医学の基礎、あるいは医者として必要な科目を教えられた。英語、ドイツ語、無機化学、有機化学、物理、算数、統計学、心理学、経済学、社会学、哲学、生物学など、医学とは直接関係のない科目だった。今でも面白かったと覚えているのは無機化学のエントロピーと行動心理学だった。エントロピーはもう何も覚えてはいないが、高校の時には化学式は式として鵜呑みにさせられたが、化学の反応は物体の熱力学がすべて安定する方向に動くのであって、確固たる理由のあることに感心した。心理学は行動心理学の専門家が講義をしたが、特にスキナーボックスという特殊装置を使い、動物の行動をいかにコントロールし得るかという実験に僕は強い興味を持った。人間の行動も、はるかに複雑とはいえ、多くの面でさまざまな因子にコントロールされているのだと思った。僕はスキナーボックスの英語の本を買って読むほどの気の入れようだった。しかし、統計学はいい加減にした。実際何を学んだのかも全然覚えていない。この態度に将来しっぺ返しを受けることになろうとは想像もつかなかった。統計学の重要性は臨床研究をやってみて初めて分るのだろう。
思い出の夏休み
大学は高校と違って出席を取るクラスは少なく、試験さえ通れば問題はなかった。しかし体育のコースは出席を取っていて、さぼり過ぎて単位が取れないという羽目になった。幸いにして1週間のサマーキャンプに参加すれば単位をくれるというので、サマーキャンプに行った。クラスからは20~30人が出席しただろうか。志賀高原での1週間は大変楽しいものだった。植物採集も生物学の宿題だったとはいえ、僕は熱心に50以上の高原植物を採集した。
もう一つ大きな旅は、ヒッチハイクをしながら芭蕉の「奥の細道」をたどって旅行したことだった。高校では国語なんぞ大嫌いで、古文の女の先生が目を細めて「源氏の君は……」などと自己満足気に講義を始めると、僕はすっかり興ざめして、窓の外の女子学生の体育を眺めていた。「奥の細道」の講義の時にもただ「ふーん」と聞いていただけだったのに、なぜか卒業後芭蕉の俳句に惹かれた。そこで東大に入った竹崎とヒッチハイクをして東北旅行をすることにした。福島で「……つわものどもの夢のあと」の跡から仙台の「……ああ松島や松島や」を訪ねた。石巻から牡鹿半島に回ってある漁村に泊めてもらった時のことは忘れられない。地元の漁師たちは朝3時には起きて漁船を出して漁に行くのだが、その激しさ、男らしさ、逞しさを見て、僕たち二人はすっかり感激した。彼らが朝の8時頃に帰港した後、朝食を一緒にごちそうになった、水揚げしたばかりの魚の朝飯は一生忘れられない。働く人々の素晴らしさを見せてもらった。それから山形市の立石寺に立ち寄って「……岩にしみ入る蝉の声」の雰囲気を味わおうとした。「奥の細道」に沿って日本の東北を満喫した旅だった。その後アメリカに暮していても「奥の細道」の本(受験用の小冊子だが)を時折開いては、芭蕉の俳句の素晴らしさを味わっている。
2 医学と外国語 ―失敗と成功―
ドイツ語の家庭教師
教養課程のドイツ語はほとんどの学生にとっては初めてで、ドイツ語を勉強することで僕は医学部に入ったことを実感した。独協学園のような2、3の私立学校ではドイツ語を教えていたので、少数のクラスメートはドイツ語の勉強に不自由はなかった。僕はドイツ語にことのほか堪能な従兄の強い影響を受けていたので、ドイツ語を勉強したくてたまらなかった。大学生になった自由な気分で、兄の許可を得て家庭教師にドイツ語を習うことになった。先生は東大の独文・哲学科の大学院生だった。この先生は真面目と顔に書いてあるような人だったが、チェインスモーカーで、右手のか細い人差し指と中指の先がタバコのヤニで真っ茶色に染まっていて、僕にドイツ語の文法を教えながらスパスパと喫煙し、一時間のレッスンの間に小さな灰皿は一杯になった。彼の独和辞典はページのめくり目がタバコのヤニで真っ黒で、後にも先にもあのように使い尽くされた辞書は見たことがない。これほど使ったのなら辞書に書いてあることはすべて先生の頭に入っているのだろうと思われた。時々我が家で食事をすることもあったが、残念ながら何を話したかは覚えていない。それでもたまにはパチンコをするという人間らしさもあったようである。朝日新聞の「天声人語」を訳すのが宿題で、2年間の家庭教師の終わり頃には僕はカール・ヤスパースの「医者の理念」を読めるようになった。彼は立派なドイツ哲学の教授になったと思う。
待ちに待った医学の勉強
2年間の医進教養課程が終わって、いよいよ学部の勉強が始まった。午前中はそれでもほとんど講義だった。午後は医学の基本中の基本である解剖学と解剖・組織実習で、医者になる最初のステップであることから、僕たち学生は皆真剣だった。これを過ぎなければ医者にはなれないという大切な実習だった。人体解剖は6人で1体を1年かけて解剖していくのだが、「キャー、キャー」言いながら気味悪げな手つきで恐る恐る石炭酸に漬かっていた人体に触り始めた女学生が、一年後にはほとんど骨となった上肢を持ち上げてケラケラ笑っているのを見た時、僕は女性の本態と慣れの凄さを見て取ったと思った。骨と骨髄が石炭酸と混じった変な嫌な臭いを毎日嗅いできたのだが、ある時カレーライスを食べていると、突然その中の豚肉がその嫌な臭いとそっくりで、それ以来半年ほどの間カレーライスを見るのも嫌だった。基礎医学の講義は普通の講義で相変わらず高校時代と同じだったが、90分という長さだった。
組織学はドイツ語の教科書で
解剖組織学の教授は加藤守男先生といって名物教授だった。それは彼の講義の仕方と試験のやり方にあった。どうも咽頭か喉頭のどこかに問題があるようで、講義中に10秒間に1回ほどの頻度で咳払いをした。僕はクラスメートの前でそのまねをするのが得意だった。彼はドイツのキール大学で組織学を研究したので専門用語はすべてドイツ語を使い、日本語で文章を整えるという医学カルテにもっとドイツ語を入れたような奇妙な講義をした。咳のためとドイツ語の単語のために何を言っているのかよく分からないことが多かった。試験はくじ引きで、鉛筆立てに入っているたくさんの細い紙切れの一つを選ぶと、紙の端にはタイプライターでドイツ語が打ってある。それはすべて組織学に関した名前で、それについて説明をしなければならない。ドイツ語が分からなければ答えようがないのだ。僕は組織学に強い興味を持って、さっそく600ページもあるドイツ語の組織学の教科書を買い込んだ。この教科書は読み尽くした。あの洋書の紙の手触りと独特なインクの匂いは忘れられない。
組織の実習は顕微鏡で見える組織の所見を写生するのだが、色鉛筆で描く組織学がこれほど面白いものだとは思ってもみなかった。写真はすべてを忠実に再現するが、写生は自分の見たいもの、強調したいものを描くことができるからだ。僕はすっかり組織学にはまってしまった。医学部3年から学士入学してきた岡谷さんという15歳年上のクラスメートは化学が専門で、合成膜の研究をした人だったが、父親が開業医であることから医学に転向したのだった。授業は一番前で非常に真面目にノートを取っていた。彼も組織学に興味を持ち始めて、一緒に加藤先生の組織学教室に毎日出入りするようになり、そのうち岡谷さんは家が千葉の佐倉なので、研究室の一室をもらって泊り込むことも多く、僕も一緒によく泊まった。ただ一つ解剖教室の嫌なことは、薄暗い夜の廊下を通ってトイレに行くのが怖かったことだ。というのは廊下にはホルマリン漬けの解剖標本が並んでいて、中には頭と顔の正中断面の標本などがあり、いかにも僕に語りかけてくるようで何とも気味の悪いものだった。恥ずかしい話だが、よく岡谷さんに一緒にトイレに行ってもらった。
実際には僕らは解剖の勉強よりもほかの勉強をするためにこの教室にいた。しかし時には組織の染色法の勉強もしたし、新しく報告された解剖関係の文献の読書会にも出席した。岡谷さんは化学屋なので僕たちの事実を鵜呑みにする勉強の仕方には批判的で、いつも「なぜそうなのか」と考えていた。そのうちもう一人女子学生の小川さんが僕たち二人に加わった。加藤先生は僕たち3人の研究のために非常に稀な臓器完全転位症の子供の症例を提供してくれたので、それを解剖してその臓器転位症のモデルを作り、解剖学会で発表した。加藤教授は大変親切で、僕たちは第二解剖教室を自分たちのアジトのように使わせてもらった。
学部の2年目の初めには他の科目のほかに寄生虫学を学んだ。まだその頃は人糞を肥料に使っていた時代なので衛生状態も不完全で、回虫は珍しくはなかった。夏休みを利用して第二解剖の僕ら3人は小学校の検便検査の実習をした。岡谷さんの父上は佐倉で何校かの校医をしていたので、その小学校の一つで子供たちの検便を行った。食塩で薄くした糞便の中の回虫の卵を顕微鏡で検査する仕事だった。朝から晩まで糞尿譚だった。
クラスの親友
クラスメートの多くは医学の勉強のほかにクラブ活動や趣味などに時間を割いていた。いつも一緒のクラスにいると、一人一人のユニークな個性がよく分かる。僕には数人の気の合う友人ができてグループを作っていた。それぞれが異なった個性と才能の持ち主だ。その中の亀井啓一郎先生とは習志野の教養クラスの帰り道が同じ電車だったので、特に親しい友達になった。羨ましいことに、彼は医学を通して人生を楽しむことを追求したと思う。音楽と美術に趣味があり、自分でも絵を描いていた。彼は産婦人科に進み、その後耳鼻咽喉科に転科した。ヨットやダイビングが好きで世界のあちらこちらでダイビングをしていたが、ついに日本のダイビングの専門医師になり、趣味と実益を兼ねて大活躍をしていた。アメリカにも僕らを訪れてくれ、家族そろってケープコッドで1週間の夏休みを楽しく過ごしたこともあった。もう一人、松本光先生は学生の時から貴公子そのもので、車を運転する前には白手袋をはめて手首を回して準備してから運転するのが癖だった。僕らはキャッキャッといって彼の真似をしたが、本人は気にも留めない様子だった。名前が「ま」と「み」なので、実習では僕らはいつも同じグループだった。何が原因か思い出させないのだが、ある時僕は彼に「三本君は勝手すぎるよ。皆のことを考えて、皆と一緒に行動しなければダメだよ~」と言われたことがあった。はっきりと、しかも優しく利己主義的な自分を注意されて、ひどく驚いたことがあった。全く自分では気がつかなかったのだ。僕は自分さえ分かって、できればよいのだと考えていたのだ。この忠告は身に沁みた。それから自分は変わったと思う。僕はクラスの友達を大切にするようになったと思う。松本君は病理学をマスターしてから外科に進むのだと、しっかりした人生の計画を立てていた。卒業後クラスメートの林誓子さんと結婚し、彼らは僕たちの仲間で一番のおしどり夫婦である。誓子先生は精神科に進み、東邦大学で長年医学生の精神衛生のために力を尽くしていた。
彼らは今日でもつき合っている一生の友達で、アメリカにも僕を何回か訪ねてくれた。僕は医学の勉強が好きだったが、必ずしもグループの全員がそうではなかった。グループの中には勉強が苦手な者もいた。彼は常に勉強が遅れ勝ちで、僕は人事ながら心配をしていた。ある時彼に用事があって会いに行った。誰かが彼は体育館で剣道を練習をしていると教えてくれた。僕がそれまで一度も足を踏み込んだことのない体育館に入って行くと、彼は胴着を着けて練習相手と剣の打ち合いの最中だった。僕は彼の顔と立ち居振る舞いを見て、あっと驚いた。そこにはいつもの気弱さはなく、凛々しく厳しい彼がいた。僕は心を打たれた。彼は既に剣道三段だった。人は一つのことに秀でると立派になるのだと思った。勉強は僕らの一部で、それだけで人を判断してはいけないということを学んだ。実際彼は優れた外科医になった。
学生時代は大したつき合いはなかったが、卒業後内科に入局してから非常に親しくなったクラスメートに中島騏一郎先生がいた。小学校に間違って一年早く入学したから、彼はクラスの誰よりも若いのでクラスで一番長生きするだろうということで、クラス会の永久幹事になった。非常に残念なことに数年前に肝臓病で亡くなってしまった。彼と一緒にいると楽しくなるという人徳があって、僕が第二内科に入局してからの三年間が非常に充実し、楽しい思い出をたくさん持っているのは中島先生に負うところが大きい。枠を外れた考えと実行力に富んでいた。例えば、僕たち第二内科の新入生はいつも夜遅くまで病院にいたが、突然「これから富士山を見に行こうよ!」などと言うのは中島先生だった。彼自身は大きな腎透析センターと循環器センターを設立し、医者として大変な成功者であったばかりでなく、クラス会や東邦大学の発展のためにといろいろと尽力した。その他にモンゴルの医療を援助したり、東北大震災でも自ら救助活動に乗り込んだ。僕が日本に帰国すると、僕たちのグループ、松本、岡谷、亀井、中島先生らが時には家族ぐるみで集まり、この上ない良い思い出を残してくれた。彼はアメリカにも一人で、ある時は僕たちのグループを誘ってよく僕に会いに来てくれた。僕が根無し草にならないようにしてくれたのだと思う。こうした僕の大学時代の友達は今日でもつき合っている一生の友だ。クリーブランドにもニューヨークにも会いに来てくれ、毎年僕の帰国に合わせてクラス会を開いてくれている。
ドイツ語から英語へ
2年になると病理学、生化学、生理学、薬理学、微生物学などが始まった。病理学の先生はすべて英語の教科書を使い、サマリーのプリントも「アンダーソン」という英語の病理の教科書が出典で、全部英語だった。僕はドイツ語一辺倒で英語をなるべく使わないようにしていたが、無駄な抵抗だった。他の基礎医学もほとんどが英語になっていた。臨床をしている先輩に聞いたら、ドイツ語を使ってカルテを書いている医者は少なくなっていると言った。あんなにドイツ語に熱を入れていたのにと少し悲しくなったが、時代の変わり目に来ていたので自分も変わらざるを得ないと思った。もっともほとんどの教科書は日本語のものを使用していたので、ドイツ語・英語などという選択は僕個人だけの問題だったかもしれない。学生も医者も会話用語には、変てこりんなドイツ語由来の外来語、例えばカルテ(医療記録)、ネーベン(アルバイト)、オーベン(指導医師)、ベシュライバー(外来で上級医師に就く記録係)、エッセン(食事)、クランケ(患者)など、長い習慣から生まれた言葉をずっとそのまま使い続けていた。驚いたことには、英語の教科書を読むとドイツ語で読むよりは分かりやすく、もっと簡単なことがわかった。ドイツ語のほうが習得するのが難しかったのだ。英語がよくできたわけでもなく、医学部に入ってからは英語を無視していたのにもかかわらず、英語の能力は落ちていなかった。僕は自分の使う外国語は英語にすることに決めた。
兄は医学の教科書は和書でも洋書でも買ってくれたので、僕はなるべく高価な洋書を買うようにしていた(そのうち洋書を買ったらレポートを書くようにと兄に言われ、教科書の前書きと結語を読んでレポートを書くコツを覚えた)。今の若い人たちには信じられないだろうが、その頃はアメリカの医学書の海賊版が出回っていて、学校にも海賊版医学書のセールスマンがよく来ていた。僕は彼のいいお得意さんだったので親しくなった。もともと商人のせがれである、僕が「これはいい本だよ」とクラスメートに勧めると、大勢が買った。よく売れると僕はその本をタダでもらった。つまり僕は海賊本屋の手先になっていたわけだ。今では悪かったなと思うけれど、やはり当時の日本はまだ貧しかったのだと思う。
エスペラント語・ロシア語・フランス語
医進過程ではラテン語の選択があったので取ってみた。1期だけ週に1回の授業で少しの文法を習っただけで、とても文を読むというところまではいかなかった。もっとも解剖の名前はすべてラテン語なのでこの講義は後で役に立った。ラテン語の先生が有志にはエスペラント語を教えてもよいというので習うことにした。授業が終わった後、週に1回3~4人の変わり者に講義をしてくれた。一つの言語で世界中の人々が理解し合えればそれに越したことはない。しかしエスペラント語はいささか僕には無味乾燥で、それぞれの国の歴史に基づいていない言語を好きになることは難しいと思った。
いつの夏休みだったか覚えていないし、なぜロシア語を勉強をしたいと思ったのかもはっきりとしないのだが、ロシア文化に興味があったのかもしれない。「バラライカ」というロシアレストランが好きで、ロシア民謡はすばらしく、トルストイの「戦争と平和」に夢中になり、1週間で(日本語で)読んだことなどがきっかけかもしれない。ともかく日ソ協会の古いビルの2階の教室で週2回の講習を受けた。ロシア文字はギリシャ語に由来していると言われているが、とにもかくにもロシア文字には閉口した。ロシア人は文字をギリシャ人から習う時、ウオッカを飲みながら酔っ払って文字を習ったに違いないと思った。ロシア語で「モスクワは新しい大きな町です」程度の短いセンテンスを15人ほどの生徒が皆で声を出して繰り返す練習をする程度になった時、「もう十分」とやめることにした。ロシア語は「お呼びでない」と思った。
医学部6年、学生最後の夏休みには何か将来できないような変わったことをしたいと思っていた。クラスで仲の良かった松本君と林さんが医学フランス語の添削をやっているのを知って驚いて、いろいろな言語を勉強するのが好きだった僕はフランス語を習おうと思った。そこで最後の夏休みには御茶ノ水のアテネフランセで夏期講習を受けることにした。「モージェ」という教科書を使って、近松という先生が毎朝3時間日本語まじりのフランス語で教える集中講義を受けた。クラスには40人ぐらいいたかもしれない。モントリオールに留学したという近松先生は教室の席の間を行ったり来たりしながら、「エクテ、ビアン」(良く聞いて)、「アロー、アロー、アンスイット」(さー、さー、次へ)などと簡単なフランス語を話しながら講義を続けた。毎日どんどん進む講義にやっとついていく毎日だった。
クラスには女性のほうが男性より多く、その中にちょっと気になる女の子がいた。彼女はつんとすましていて近寄りがたい感じだった。ある日授業が終わった後、僕はいつものように御茶ノ水駅に向かって足早に歩いていた。たまたま気になっていた女の子が先を歩いていた。彼女を通り越した時、彼女が抱えていた本の背表紙に書かれたタイトルがちらっと見えた。それは紛れもなくロシア語だった。僕はロシア語には苦い経験があり、今はフランス語に四苦八苦していた。それなのにこの女の子はフランス語のほかにロシア語までやっているのかとびっくりして、思わず「君はロシア語も勉強しているの?」と聞いてしまった。「え? あら、これは日本語よ」と言って本を見せてくれた。それはドストエフスキーの和訳で、ロシア語は背表紙だけだった。それから彼女と親しく話をするようになった。フランス語の夏期講習は数倍も楽しくなり、頑張って終わらせることができた。彼女はその後、僕の妻となった。フランス語は大成功だった。
3 基礎医学から臨床医学へ
将来の方向探し
医学部も最終学年になると将来の専門を真剣に考えるようになった。臨床のローテーションを回りながら自分の好き嫌いを考えて、これは面白そうだとか、これは嫌だとか、自分勝手に評価していた。小児科の教授は非常に優秀な先生だったが、優秀な学生だけに目をかけるところがあり、小児科の不得意な学生には嫌われていた。僕は成績の方では問題がなく「君は小児科に来なきゃダメだよ」と言われてはいたが、その気はなかった。外科系は自分の手先が器用とは言えないのと外科医の単純直行型の思考法についていけるとは思えなかった。産婦人科はその単純直行型の最たるものだったが、卵子から胎児、そして出生へと発育していく現象は、ドイツ語で発生学の教科書を勉強した時に引き起こされた強烈な興味を追求するのには最適の専門学科と思えたが、実際には妊娠・出産とに焦点を絞った学問で、発生学の研究とはかけ離れていると思った。教養課程の時に心理学に興味を持ったこととフロイドの夢分析の本などを読んでいたことなどから、精神科には大変興味があった。初めて持たされた患者は20歳ぐらいの可愛いくて大人しい女性で、病気は分裂症だという。その女性を毎日インタビューをしてカルテに記録した。僕のような学生が精神科の入院患者をインタビューしただけで診断上何か大切なことが見出されるとは思えなかったが、僕には分裂症の診断があまりに簡単に下され、決まりきった治療法(電気発作治療)に進むという精神病患者の扱い方に失望し、精神科への入局はやめた。僕はもっとほかの方法がありそうなものだと思ったのだ。もちろんこうした専門科に対する僕の評価はまだ何もよく分からない医学生の第一印象にすぎないことは言うまでもない。ローテーションを経験した後、僕には内科は領域が広く、幾重もの層があって奥が深いように思えた。僕はここに進みたいと思った。
解剖学教室
基礎医学から離れて臨床医学に進むということは、僕にとってはドイツ語から英語への回帰、動物実験の世界から生身の患者への道、学問の世界から実践の世界への飛躍、別の目で見れば、限られた収入から大きな収入への可能性などだった。実際僕たちの医学部の学生で基礎医学に進む学生の数は非常に少なかった。それでも病理学や法医学には時々入局者があった。僕たちのように学部の始まりから解剖に興味を持って解剖教室に出入りした学生たちは稀だった。岡谷さんは父上の医院を継ぐことになっており、もう一人の小川さんは小児科へ進むことが決まっていた。加藤先生の教室にはほかに入局者などなかったので、先生は将来の決まっていなかった僕に非常に期待をかけていた。だが僕の興味はもう臨床へと移っていた。しかしどうしても加藤先生に「僕は臨床に行きます」とは言えなかった。僕の兄は、僕がかなり真剣に勉強するのを見て、将来は学校に残って教授にでもなるのかと想像していた。そのことで兄に相談をすると、「解剖はいい、なりたければ早く教授になれる」とむしろ解剖教室行きを勧めた。しかし僕はもう臨床に進むと決めたので、兄に自分はどうしても臨床に進みたいと言うと、「そうか、臨床に進んで将来銀座で医院でもやるか」と言って、加藤先生を銀座のレストランに招待して僕のために話をしてくれることになった。食事が終わった後、兄は僕の将来のことを話し始めた。「私の弟は父を幼少の時に亡くしたので私が面倒を見てまいりました。医学部に入るのも私が面倒を見ました。しかし私は商人でございます。無駄な出費はいたしません。私はこの弟が将来銀座で医院を開業してくれればという期待で出費してまいりました。しかし解剖学者になられてしまいますと私の投資の元が取れません。そこのところを何とかご了承いただき、よろしく弟のご指導をお願いいたします」と説明した。加藤先生はいささかびっくりしたようだったが、事情を大変よく分かってくださり、むしろ兄に面倒を見てもらっている僕に同情して、その後僕の臨床入局へのさまざまなアドバイスをしてくださった。僕は兄の説明に感心し、また深く感謝した。僕は晴れてどこの臨床教室にでも入れるようになった。
卒業試験
とうとう卒業試験が始まった。2年間に勉強した臨床科目を1日に1科目か2科目を時間をかけて試験される。落第させるのが目的ではないと知ってはいても、例外がたまにはある。だから誰もが緊張と不安とで青くなっていた。僕は試験後家に帰ってすぐ寝て、夜は徹夜の毎日を繰り返したが、2年間の内容を一晩で覚えることなどできるはずもなく、運を天(点)に任せて試験に向かった。内科も外科もその内容が膨大なので第一、第二と分かれていた。第一内科の森田教授は世界的に知られた血液病の専門家で、先生の卒業試験はただ1題だけということは有名だった。出題に山をかける学生もいた。その年の問題は「脾腫」であった。わら半紙1枚が渡された。2時間で脾臓の腫瘍状の肥大について記載する。僕は小さい字で1枚半かけて脾腫とは何か、原因について、病態生理について、治療について、できるだけ詳しく記載した。
森田先生は学者としてだけでなく教育者としても立派な先生で、回診ではよく脾臓の触診を行い、脾臓が二横指触れるなどと患者の所見を指摘した。「君は触れたかね?」と学生に質問し、もちろん答えは「いいえ」であり、僕らなんぞに簡単に触れられるような臓器とは思えない。先生は僕らの手を取り、患者のポジションを正しながら、ここ、ここと脾臓の触れ方を教えてくれた。僕も内科をやるのなら第一内科に入りたいと思ったが、先生はその年定年だった。僕は森田先生のいない第一内科に入局してもしょうがないと思った。
卒業式で、僕は首席で卒業生代表となった。その夜の卒業パーティーで森田先生に挨拶をすると、先生は「君の脾腫の解答は100点だった。だけど字が一つ間違っていたので99点にしたよ」と笑った。ぜひ第一内科に来なさいとも言われた。その年の終わりに先生は最終講義をされた。彼の血液学集大成ともいうべき講義だった。感激した。その中で先生は「皆さんは幸せです。なぜなら医学は何をやっても面白いからです」と話し、さらに彼は「イタリア人と日本人には形態学が合っている」とも言った。僕の医学の経歴はこの二つの言葉によるところが大きいと思う。森田先生は確かに正しい。勉強をすればするほど分からないことが出てきて興味がわき、もっとやってみようと思うことは研究をしていても、患者を見ていても常に経験してきた。本当に何をやっても面白いのだ。僕は顕微鏡で組織を見るのが楽しかったし、病理も好きだった。これはやはり形態学だったからかもしれない。僕にはなぜ形態学がイタリア人と日本人に合っているのかは分からない。森田先生に聞き損ねた。これは後の話になるが、僕の研究は形態学を主体に行ってきた。しかしある時点で形態学は基礎的過ぎて形態学の研究は終るのではないかと思った。しかし僕のその考えは全く間違っていた。新しいテクノロジーによってそれまで見えなかったものが見えるようになり、生体の免疫反応や化学反応が目で見えるようになった。しかも生体が生きている状態で器官や細胞の動きも見えるようになった。形態学の研究方法は着々と進歩しているのだ。