第1章 生い立ち
昭和19年(1944年)3月の雛祭りの日、太平洋戦争がまだいつ終るとも分からない時、僕は10人兄弟の末っ子として北海道の札幌市に生まれた。一番上の姉が嫁いで間もなく結核で亡くなったほか、既に4人が赤子の時に死んでいたので、実際には5人兄弟だった。家は大きな呉服屋で、市の中心の有名な時計台の前にあった。一番上の兄は北大の学生だったが、軍隊に取られ、軍隊と戦争をことのほか嫌っていた。大学卒業後街頭で政治演説をし、社交ダンスに熱を上げ、「北海道のフレッド・アステア」と自認していた。42歳だった母は、戦時中の産めよ増やせよの世の中で避妊も何もなく、僕は間違って生まれてきたのだ、と恥ずかしそうによく言っていた。父は僕を大きくなったら丁稚にでも出そうと言っていたらしい。そのせいかどうか、商売柄忙しい家の中で僕のことなどかまってくれる人もなく育った。終戦直後に子供の数が激増したため、幼稚園は抽選で、それに外れた僕は準備なしに小学校に入学することになってしまった。入学式の前日、優等生だった6年生のすぐ上の姉は僕が自分の名前も書けないことを発見し、ひどく焦って僕に名前だけでもひらがなで書けるように教えてくれたが、三本の「み」が反対になってなかなか書けなかった。入学後、遠足に行っても僕だけが母親から離れられなくて、母が一緒に歩かざるをえず、母は赤面の至りでプリプリ怒っていたのを思い出す。それでも元気に登校し、毎日放課後は口が曲がるほど酸っぱいグーズベリーを採っては食べながら、時計台の周りを泥棒ごっこという遊びをして走り回っていた。
僕が小学校2年の頃、父の心臓病のため(と言われていた)気候の暖かいところに移転することになった。夜、大勢の人々が札幌駅に見送りに来てくれたのを覚えている。走る寝台列車の窓から野原と遠くの林が少しづつ見え始めるようになった明け方の景色を、なぜか忘れることができない。
移ったのは神奈川県の鵠沼海岸だった。家は固い砂地に建っていて、芋が良く育つという。植えたら梅干ほどの小さな芋がたくさんできた。その嬉しさと味噌汁に入れたおいしさは忘れられない。家の前には大学生のお兄さんが住んでいて、よく僕と遊んでくれた。海は歩いて5分ほどで、よく彼と片瀬の海で遊んだ。近くの家に背の高いいじめっ子がいて、学校の帰りに通る狭い道で待ち伏せしていて、毎日僕に嫌がらせをした。ある日思い余って必死で顔を殴ったら、それからいじめなくなった。
家の前は原っぱで、父は自転車の乗り方を教えてくれたが、頑固で気の短い父が僕のために何かをしてくれたのは珍しいことだった。それから間もなく父は新橋の胃腸病院で胃がんで亡くなった。その日父が飼っていて鳴くのを楽しみにしていた鶯が死んだ。父は長兄に小さい僕の面倒をみるようにと遺言していったということだった。当時のしきたりとして、僕より20歳年上の長兄が家督を相続して家族の経済的な面倒をみることになった。兄は銀座に女性専門の洋装店を開き、店の名を「マドンナ」とした。それは父の持っていた馬の名前だった。父は大変な働き者ではあったが、かなりの道楽者でもあったようだ。しかも馬で儲けたことはなかったと聞いている。
小学校4年の時、東京の上目黒に引越して転校した。またもいじめっ子に困らされた。ついに兄は「戦え!」と命令し、震える僕をそのいじめっ子の家まで連れていった。その家はその頃まだあちらこちらにあったトタンでできた家だった。名前を叫んで出てこさせろと兄に言われ、「渡辺! 出てこい、出てこい!」と叫んだが、彼はついに出てこなかった。兄と僕はあきらめて帰ったが(僕は本当はほっとしたのだが)、それからその子のいじめは少なくなった。
父を亡くした後、家は小さく、裕福ではなかった。母は札幌ではかなり裕福な暮らしをしていたので、上目黒での急に切り詰めた暮らしは楽ではなかったようだ。札幌では買い物は毎日御用聞きが裏口に来て注文を取っていき、月末に清算していたので、鵠沼に移ってからは現金を持ってお店へ行くのが恥ずかしくてならなかったと言っていた(しかし晩年は買い物が大好きで、雪の中を出かけて行って車にはねられてけがをし、姉に叱られたこともあった)。経済学部出身の兄は生活費を一日分ずつ袋に入れてそれ以上は使わないようにと母に言っていたのを覚えている。僕は放課後は友達の家で遊んだり、野球をしたりもしたが、ネコやウサギ、そのほかの小さいペットを飼うのが好きだった。十分な広さの庭があったので、自分一人で庭を造り、池を作り、金魚を飼い、庭の草花を育てることに夢中になった。今から思うと、いじめっ子を避けていたのかもしれない。家の中ではいつもモデルの電気機関車で遊んでいた。週に一回友達と勉強を習っていたが、何を習っていたのか思い出しもしない。ある時僕より10歳年上の二番目の兄がドーナツ版のレコードを買ってきた。それが初めて聞いたベートーベンの「月光」の曲だった。この「月光」の曲にはなにか子供なりに心を打たれ、自分もその曲をピアノで弾きたいと思うようになった。すぐ上の姉は音楽学校に入るべく毎日ピアノを弾いていたので、見よう見まねで自分でピアノを練習し始めた。ピアノなど男の子のやるものではないというのが我が家の考えで、レッスンなどは受けさせてもらえなかった。もっともそれだけの余裕もなかったのだろう。
中学校は、兄が銀座に住んでいたのでそこの中学がよかろうということで、小一時間の通学を始めた。僕たちの学年は1クラスが70人という大所帯で、学校は別の校舎に移った。クラブはブラスバンドに入った。肺病の家族暦があったので、「お前は小太鼓をやれ」と言われた。大太鼓はことのほか背の高い子で、僕は背が低かったので、そのコントラストが目立った。大太鼓ののっぽはふざけ半分によく僕の頭をばちでポコポコと叩いた。スーザのいくつかの行進曲、「君が代行進曲」、その他を練習した。また他校のバンドとの協奏や競演のために出かけることも多かった。銀座の中学時代にはよく週末に兄の店に泊まった。兄には子供がいなかったせいもあって僕を可愛がってくれ、面倒を見てくれた。お店は今でいえばオートクチュールの洋装店で、フランスやアメリカの素晴らしいファッション雑誌がたくさんあった。僕はそれらを見るのが好きだった。頻繁に外国の映画にも連れていってもらった。その頃の銀座で上映していた新しい外国映画のロードショーはほとんど見たといっていい。母も兄も勉強しろと言うことはなかった。
高校は都立目黒高校に入学した。たまたまクラスで隣の席に座った竹崎という男子が高知県の出身で、高知の海岸では鰹が群れをなして砂浜に飛び上がり、鰹節になるのだと教えてくれて、それを僕は真に受けたこともあって親しい友達となった。目黒高校はかつては女子高であったせいか、男子を男らしく育てる必要を感じたらしく、男子は柔道が必須科目だった。毎日安全に倒れる練習ばかりさせられた。
竹崎はよく勉強していたが、二人一緒になるとかなりのワルになり、喫茶店や食堂などでウェイトレスをからかったりして楽しんだ。生物の先生は生真面目を絵に描いたような、しかも非常に人の良い先生だった。その先生を一番前に座って授業中にからかうのが僕らの楽しみだった。先生は僕らに「親しくしない!」とよく小声で繰り返し注意したが、僕らは全然気にしなかった。
僕は医理工系進学クラスにいた。竹崎はそのクラスで成績はトップだった。僕は上の下といったところで、女の子のことなど勉強以外のことに興味があった。高校2年から社研(社会研究班)に入り、米軍立川基地反対のデモに参加していた。安保闘争でも、樺美智子さんが亡くなった悲劇の日に、僕も社研の一員としてデモに行っていた。しかし、それから兄に強く反対され、社研を辞めた。そのうち友達と山登り(といっても今から思えばハイキングだが)を始めた。最初は秩父の雲取山から3~4日かけて長野に出る初心者コースで、初めて山登りの素晴らしさを経験した。しかし、これも兄の知るところとなって、山に登るならシェルパを連れて行けと言われ、むろん僕らにはシェルパなどを雇う金などあるはずもなく、それからの計画もうやむやになってしまった。兄の親友が学生時代に奥手稲山で遭難してから、山登りに関して兄は非常に神経過敏だったのだ。
そうこうしているうちに、そろそろ将来の進路を考える時が来た。僕には大変尊敬する従兄がいた。彼は非常に優秀で、小さい時からドイツ語を習い、ヘルマン・ヘッセと文通をし、ピアノに秀でていて作曲もし、音楽学校に行きたがっていたが、結局父親の言いつけで北大の医学部に入った。その従兄に憧れていた僕は自然と医学部に行きたいと思うようになっていた。僕の学力では現役で医学部入学は無理だろうと思っていたのにもかかわらずにである。幼くして父を亡くし、兄が父親代わりとなり、母に温かく育てられてなんとかまともに育った僕は、学力はごく普通で、特に真剣に努力をしたということもないまま大学受験に向かったのだった。